解放の瞬間 家から離れている間、数日分の新聞が郵便受けに溜まっていた。 その中で1番最初に手に取った新聞の見出しには、目を疑うようなことが書かれていた。 ―――『吸血鬼現わる』 それにしても暑い。窓を開けても生ぬるい風しか入らず、しかも扇風機を買う金はない。 絶え間なく動かす団扇を片手に、矢木はもう1度訝しげに見出しを眺めた。 「何だこりゃ……新しい映画の宣伝か?」 そんな時、背後にある電話のベルが部屋中に鳴り響いた。 「ああ、来た来た」 ドアを開けると、ベッドの上で身を起こした体勢の赤木が視線を向けてくる。 千葉県にある病院。夏真っ盛りの暑い中、急な呼び出しを受けた矢木は渋々ながらもここまで足を運んできた。 本人は普段と変わらない様子だが、入院患者用の寝間着に包まれた上半身には包帯が巻かれていた。 詳しい事情を聞く前に口から出てきたのは、いつも通りの憎まれ口だった。 「このクソガキ! こんなところまで呼び出しやがって、何様だお前は!?」 「ちょっと長めの散歩だと思えばいいだろ。とりあえず座れば?」 赤木に勧められるまま、矢木はベッドの横に並んでいる2つのパイプ椅子のうち片方に腰掛ける。 すると折りたたまれた紙の束のようなものを胸に押し付けられた。開いてみると、ここに来る前まで手に取っていた例の新聞だった。 吸血鬼現わる、という何度見ても非現実な言葉がトップを飾っている。この世の中のどこにそんなものが存在するのか。 「知ってるかい、その記事」 「まあな」 と言っても目にしたのは見出しだけで、記事の中身はまだ読んでいない。赤木からの電話が切れた後、すぐに家を出たからだ。 「なら話は早い。そいつだ、俺が次に戦う相手」 「そいつ?」 「怪物だよ。今までの奴らとは違う、明らかにまともな相手じゃない」 赤木の言葉を受けて、改めて記事に目を通しはじめた。山の中で発見された、若い男の変死体。死因は出血多量によるショック死。 その犯人が、今度赤木が戦う相手だという。 ……狂っている。そんな勝負をして、ただで済むとは思えない。1歩間違えれば、赤木も同じ運命を辿ることになる。 悪い方向へ考えていてもどうしようもないが、そうなる確率が少しでもある限りは仕方がない。 「こんな奴が、どうして捕まらずに呑気に麻雀なんかできるんだ」 「全て金でもみ消しているんだろう、聞いた話だとかなりの資産家らしい」 「……お前、負けたら死ぬかもしれないんだぞ」 「博打の炎に焼かれて死ぬなら、それこそ本望だ」 かつての矢木が予感していた通り、赤木は将来とてつもない博徒になる。 いや、すでにそうなっているのかもしれない。普通の人間がそんな死に様を望むわけがない。 しかしこの赤木に限っては、普通だの常識だのという枠には収まらない何かを秘めている。計り知れない独特の価値観を。 そこまで考えて、矢木はあることに気付いた。 赤木には散々な目に遭わされてきたというのに、今はただ無事でいてほしいと思っている。再会以来ひたすら恐れていたはずが、 その存在に触れているうちに、何かが麻痺してしまったのか。 以前、この手で赤木を絞め殺そうとしたことがある。恐れや怒りが頂点に達し、生まれた衝動に背中を押されたのだ。 人生を狂わせたことに対する赤木への復讐、そのつもりだった。それでも結局、復讐は果たされずに終わった。 赤木は死を恐れていない。首を絞められても一切の抵抗をせず、終わりが来るのを待つかのような態度を見せた。 並外れた度胸を持っていることは知っている。 麻雀勝負の前にいくら脅しをかけても動揺ひとつ見せず、赤木は常に自分のペースを守り続けた。 結果、破滅したのは矢木のほうだった。 心理から絡め取っていくというやり方には自信があり、大抵の場合なら上手く相手を縛って、崩すことができる。 ずっとそう思い続けていた、あの日までは。 ヤクザだろうが殺人鬼だろうが、これから赤木と戦う相手は翻弄されるに違いない。 「打ち方はひねくれていたけど、矢木さんって根は素直だよな」 「いきなり何の話だ?」 「6年前の勝負で、俺の待ちをマンズ待ちと勘違いした矢木さんは、ドラの」 「ああっもう! いい加減忘れろそのことは!」 言葉を遮るように焦って叫ぶと、赤木は愉快そうに肩を揺らして笑った。 まるで久しぶりに会った友人同士で、昔を懐かしんでいるような雰囲気だ。 今までは赤木と居ても、こんな気分にはならなかったのに。 再会するまでの矢木が抱えていたのは赤木への恐れや恨み、そして怒り。 薄暗い感情がひたすら心を蝕み続け、止まらなかった。 しかしよく考えれば全て、自身の不運や読みの甘さなどを棚に上げた、単なる被害妄想でしかない。 プレッシャーをかけても不正を犯しても、結局赤木には勝てなかった。 自分で作り出した重い足枷にとらわれ、1歩も動けなくなっていた6年間が急に空しいものに思えてくる。 得るものもなく、無意味に過ごしてきた途方もない時間。 代打ちの名やプライドとは比べ物にならないほどの、2度と取り戻せない大切なものを失ったのだ。 今更気付いたところで、何もかも遅すぎる。 確かに遅すぎたが、冷静になれたことで不思議と気分が軽くなった。 「……矢木さん?」 口を閉ざしたままの矢木に疑問を感じたのか、ベッドの上の赤木が呼びかけてきた。 「具合が悪いなら、ここは病院だしすぐに診てもらえるぜ」 「いや、そうじゃない。ただ」 「ただ?」 「目の前が、急に開けた気分なんだ。楽になれた気がする」 矢木はそう言って、懐から煙草の箱を取り出す。その中の1本を抜き取ると、こちらに自分のものではない手が伸びてきた。 「おい、何だこの手は」 「俺にもくれよ、そろそろ恋しくなってきた」 「怪我人はおとなしく寝てろ」 「ケチくせえな」 舌打ちする赤木を見て、矢木は小さく笑った。 もし出会った場所や立場が少しでも違っていたら、どうなっていただろうか。 そんな奇妙なことを考えながら、この身に馴染んだ煙を肺いっぱいに吸い込んだ。 |