誘惑の果てに 「この部屋、寒いな」 夕食の後片付けを終え、一息つくために煙草を取り出すと赤木がそんなことを言う。 壁に背を預けて座る赤木は、横目で窓のほうに視線を移した。それにつられて矢木も同じ方向を見るが、 窓は閉められている。寒く感じるのは夜風が入ってきているわけではなく、そろそろ暖房器具が必要になる季節だからだ。 とはいえこの家にはそんなものは存在せず、できるかぎり重ね着をして寒さから身を守るしかなかった。 赤木は寒さに弱いのかもしれない。そう思って立ち上がろうとすると、急に手首を掴まれた。 「どこ行くの」 「どこって、着るもの取りに行くんだよ、寒いんだろ」 「そんなもの必要ない」 「え?」 「あんたが温めてくれればいいよ……その身体で」 またわけの分からないことを要求してきた。赤木は突拍子もない言動で矢木を困らせるのが趣味らしく、 しかも絶対に断われないような巧みなやり方で押し通そうとする。 年の差や体格差にものを言わせて主導権を握れないのは、いくら勝つためとはいえ汚いやり方で赤木を陥れた過去のせいだ。 結局それが裏目に出て地獄を見せられ、その呪縛は6年経った今でもこうして続いている。 例え小細工をしようとしまいと、赤木と戦うことになった時点でこちらの負けは決まっていたような気がした。 赤木はあの時から、すでに普通の子供ではなかったのだ。 腕や指を落とされることを恐れるどころか、そっちも同じものを賭けろなどと返してくる。 ある意味、狂っているとしか思えない。 「そんなに警戒しなくても、少し抱き合うだけだよ」 「お前、よく平然とそんなことを……」 「強制はしないさ、あんたに任せる」 と言いながらも、手首を掴む力は更に強くなる。 以前なら同じような状況になった時は強引に押し倒されたりしたが、最近になってからは 何故かそういうことは起こらない。これは赤木の新しい策略なのか。 「……分かったよ」 観念してそう言うと、赤木は満足げな表情でシャツのボタンを外していく。 予想もしていなかった行動を目の当たりにして、驚きを隠せない。 「あんたも早く脱げば」 「おい何脱いでんだ、意味分かんねえ!」 「身体使って温めるんだから、当然だろ」 突きつけられた半ば強引な理屈に、もうため息をつくしかなかった。 「ふーん、意外だな」 「何がだよ」 空気に晒された矢木の上半身を見て、赤木が意味深な笑みを浮かべる。 肌寒さや探るような視線を感じ、妙に居心地が悪い。 「刺青のひとつやふたつぐらい、あんたなら入れてるかと思ってた」 「お前なあ、どうしても俺をそっち系の人間にしたいのかよ」 「第一印象がそっち系だったからね、仕方がない」 「ああもう、どうでもいい……好きに想像してろ」 正面へ向け、招くように片腕を伸ばす。 背中に両腕をまわしてきた赤木の身体は当然、女のように白くも柔らかくもなかった。 程よく筋肉がついていて引き締まっている、若い男の身体だった。 夜の街で偶然にも再会して以来しばらくは、赤木のことが恐ろしくてたまらなかった。 素人の子供に負けたことによって、代打ちとしての自信を完全に失ったのだから。 目を合わせるたびによみがえる悪夢が、矢木を更に追い詰めていった。 しかし共に過ごしていくうちに、少しずつ赤木を恐れなくなっていく自分に気付いた。 卓の反対側からでは分からなかった、様々なものが見えてきたせいかもしれない。 軽口ばかりの会話も、いつの間にか楽しめるようになってきた。 それまでの緊張も何もかも、こうして肌を重ね合わせることによって、柔らかくほどけて溶けていく。 恨みや恐れが、全く逆の感情にすりかわることなどないと思っていた。 決して口に出すつもりはないが、今ではもう……。 何も言わずに強く抱き締めると、赤木もそれに応えてくる。まるで互いの心臓の音が混じりそうなほど、身体が密着した。 敏感な胸の尖りが擦れ合い、思わず息を詰める。 背中に爪が食い込んできたのを感じ、赤木も同じような気分になったことを知る。 赤木の身体を温めるだけだという、本来の目的から外れてしまうのが怖い。取り返しのつかない展開になりそうだ。 「……もういいだろ、離せ」 「何で?」 「なんで、って……言わせるつもりか?」 「はっきりと口に出して言われなきゃ、分からねえよ」 その表情からは、全て察しがついているような意地の悪さを感じた。 時間が経つにつれて薄暗い情欲で濡れていく心を、赤木には知られたくない。 それでも、何とかしないと良くない方向へ転がってしまうのは目に見えている。 「このままだと、おかしくなりそうだ」 気まずさや恥ずかしさもあって、赤木の耳元へ早口気味に囁いた。 赤木は一瞬だけ驚いた顔をしたが、納得したというように低く笑う。 突然、唇を奪われた。舌は使わず、軽く押し当てられただけ。 「それって、俺とやりたくなるって意味?」 間違ってはいないが、あまりにも率直すぎて返す言葉もない。 「矢木さんがいつか、そうやって俺を欲しがってくれるのをずっと待ってたんだ。 無理に迫っても、余計に怖がらせるだけだって分かったからさ」 再会してから数日後、帰宅してドアを開けた先に赤木の姿を見つけた時の衝撃は今でも忘れられない。家の場所を教えた覚えもないのに。 押し倒されて脅されて、少し間違えればあのまま殺されるのではないかと怯えた。 6年もの間、抜け殻のように過ごしてきた自分からこれ以上何を奪っていくつもりなのかと。 赤木と過ごすようになって、色々なことがあった。 朝早く目が覚めたからと言って暇潰しに付き合わされたり、今までの礼だと言ってとんでもない 大金を差し出されたり。受け取るつもりはないのですぐに投げ返したが。 「不思議だよな、あんたって。勝手に転がりこんできた俺のこと、何だかんだ言いながらも家に置いてくれてるし」 毎日のように押しかけてきていた赤木が、1週間ほど姿を見せなかった時があった。 最後に会った夜に気まずい別れ方をしてしまったせいなのか、気になって仕方がなかった。 勤め先の工場を訪ねてみればすでに赤木はそこを辞めていて、探そうにも手がかりは何もなく途方に暮れた。 いつの間にか赤木の存在が、日々の生活の中に馴染んでいたのだ。 あれほど恐れていて、できることなら関わりたくないと思っていたのに。 「あんたのこと、もっと知りたい。教えてよ……矢木さん」 かすれた声でそう言うと、赤木は視線を落とす。 その先では、赤木と抱き合った時に煽られた欲望が形になって、ズボンの生地を押し上げていた。 伸びてきた指が、ゆっくりとじらすように辿っていく。 懸命に理性を繋ぎとめようとする矢木を見て、赤木は楽しげに指を動かし続ける。 赤木の頬に触れて、迷いを振り切るように深く口付ける。舌が絡み合い、溢れた唾液が赤木の唇の端から流れ落ちていった。 もう、遠慮はしない。する必要はなくなった。 背後から包みこむように抱き締めた後、赤木が甘えるようにもたれかかってきた。 白い髪が、さらさらと揺れる。 赤木の唇を撫でる指に、ゆるやかな息づかいを感じた。 「痛くねえように慣らしてやるから、舐めろ」 普段よりも低い声で囁くと、赤木の身体が竦んだ。 らしくない反応に思わず苦笑してしまう。 「それとも、自分で慣らすところを俺に見ていてほしいか」 「……矢木さん?」 今の赤木は一体、どんな顔をしているのか。 面白がっているかもしれない、本当に動揺しているかもしれない。 その声色から、多少の驚きが混じっているのは何となく分かった。 もっと俺のことが知りたいんだろう、と改めて問いかける。声には出さずに。 「どんなふうにされたいのか……選べよ、赤木」 矢木はそう言って、指を少し強めに中へ押し込んだ。 指先に触れる感覚はかすかに震える息から、生温かく濡れたものになる。 ある一線を超えなければ知らずに済んだこと、超えたからこそ知ってしまったこと。 どちらのほうがいいとは言い切れない。ただ、求めているものの違いだけで。 もう後戻りはできないという気持ちが、胸の奥までも満たして止まらない。 しかしそれは気が遠くなるほど、果てしなく甘い痛みだった。 |