誘惑の甘い罠 「矢木さんお帰り、今日は遅かったね」 そう言う赤木の目は虚ろで、頬がほんのりと赤く染まっていた。 赤木が持っている泡のついたコップと空のビール瓶数本を見て、帰宅直後から絶望的な気分になった。 昨日まとめて買ってきたばかりのビールだ。蒸し暑い今の季節、仕事を終えてから家でゆっくり飲むのが心の癒しだったのに。 給料日まであと何日あっただろうか。肩を落としながら卓袱台の前に座ると、赤木は瓶に残っていたビールをコップに注いで こちらに差し出してきた。 「授業で体育があったから暑くてさ、黙って飲んで悪かったよ。これ最後の1杯」 「あのなあ……ガキのくせに酒なんか飲むんじゃねえよ」 「この前バーで刑事に勧められて飲んだら、まあ悪くない味だなって」 「何だその刑事、最悪だぞ」 中学生に酒を飲ませる刑事が存在している事実に驚きだ。一体どんな奴なのか見てみたいと思った。 赤木を叱っても飲まれたビールが戻ってくるはずもないので、無駄なことはやめておいた。興奮すると余計に暑苦しくなる。 コップの中のぬるくなったビールを飲もうとしたが、思いとどまって卓袱台に置いた。とりあえず、この汗まみれの身体をどうにかしたい。 「……俺、銭湯行ってくるからな」 「じゃあ俺も行くよ」 「それだけ酒飲んで風呂なんて入ったら危ねえだろ、やめとけ」 「大丈夫だって、ほら」 矢木の忠告を聞かずに立ち上がった赤木は、まともに歩くことができずに畳に倒れた。中身が大人びているとはいえ、実際はまだ子供だ。 ビールを何本もひとりで飲んで、平気でいられるはずがない。 倒れた赤木を仰向けにさせると、吐き出される息から強い酒の匂いを感じた。 「しょうがねえ奴だな、水持ってきてやるよ」 台所に向かおうとすると、熱くなった手で腕を引っ張られる。振り向くと赤木が、まっすぐにこちらを見ていた。 「その前に……俺の服、脱がせてよ。暑いんだ」 「どこまで甘える気だ、自分でやれ」 言葉で突き放しても結局、態度には出せなかったようだ。白いシャツのボタンを外して、中に着ていた黒い半袖も捲り上げて脱がせる。 普段は体温の低い肌が、かすかに熱を帯びていた。上半身を晒した赤木の、乱れた呼吸に意識を奪われてしまいそうになった。 酔った赤木に指や舌で愛撫を与えれば、どんな反応を見せるだろうか。 しかし我に返ると、生まれていた下心を慌てて引っ込めた。 いくら何でも、意識がはっきりしない状態の赤木をそんなふうには扱えない。今は手を出さないと固く決意した。 「赤木、少しは楽になったか?」 「うん……」 「吐き気は?」 「ないよ」 赤木は矢木の手を取り、太く固い指を唇に触れさせた。赤木が何を言いたいのかは読み取れないが、心臓の鼓動が激しくなる。 その仕草があまりにも意味深で、まるでこちらを誘うようなものだったからだ。 それでもきっと気のせいだ、と何度も自分に言い聞かせながら耐える。赤木は子供だが、相手が意識せずにはいられない状態に持って行くのが得意なのだ。 初対面の夜に感じた赤木に対する魔物のイメージは、違う意味としても未だに矢木の胸に残り続けて消えていない。 あの追い詰められる恐ろしさは、1度でも赤木と戦わないと分からない。しかし今は恐ろしいだけではなく、手放したくないと本気で思うほどの存在になっていた。 矢木は囁くように赤木の名前を呼びながら、アルコールのまわった細い身体に覆い被さっていく。先ほどの決意は崩れ、そばで見ているうちに我慢できなくなっていた。 くちづけようとして、やっと赤木の異変に気付いた。熱く乱れた呼吸は、いつの間にか穏やかな寝息に変わっていたのだ。 そういえば授業で体育があったと言っていた。酔いだけではなく、純粋に疲れていたのかもしれない。 「……お前には本当に、振り回されっぱなしだよ」 小さく呟くと苦笑して、赤木に軽いくちづけをする。貴重なビールを飲まれてしまった脱力感も何もかも、すっかり忘れ去っていた。 |