貴方に逢うまで もし、あの競馬場で平井に出逢わなければ。 今でも無気力で、実りのない日々を送っていたかもしれない。 無限に宙を舞う、金の幻影に溺れながら。 過ぎてみれば、遠い夢のような出来事にも思えた。 少し間違えれば永遠に陽の当たらない地下へ落とされ、生きながら狂っていくという運命が降りかかるところだったのに。 しかし腹に当てていた刃の冷たさや、胸を浅く傷付けた時の痛みはまだ覚えている。これから先、ずっと忘れることはないだろう。 「森田、何を考えている?」 穏やかな声と共に、缶ビールが目の前のテーブルに置かれる。 もうひとつの缶ビールを手にした平井が、自然な動作で森田の隣に腰掛けた。 その身体がソファに沈むのを眺めているうちに、森田はようやく我に返った。 「あ……すみません、ぼんやりしていて」 「いや、いいんだ。今夜はお前の大手柄だったからな」 そう言いながら平井は、森田に缶ビールを手に取るように促す。 森田がそれに従うと2人分のビールの缶が軽くぶつかり、小さな音を立てた。 静かな乾杯の後、平井が缶に口をつけるのを見て、森田もプルタブを開けて一気に半分近く飲み込む。 冷えたビールは心地よく喉を流れ、身体の内側を熱くした。 蔵前との勝負を制した後、森田は平井のマンションへ招かれた。 身体は疲れ果てていたが、平井が用意してくれた缶ビールも言葉も、そんな疲れを癒すには充分すぎるほどだった。 帰りの車内で、蔵前を倒せたのは森田のおかげだと言われたものの、それを素直に受け取ることはできずにいた。 結局は平井の機転で全て救われたのだから。 最後の一瞬、森田にだけ明かしたイカサマの事実。悪魔じみた戦術。 背筋が凍りつくほどの、本物の悪党だ。その領域へは、容易に踏み込むことはできない。 平井の持つ才能が、ありがちで中途半端なものではないからこそ、 どうしようもなく心のどこかで強く惹かれている。焦がれているのだ。 勝負の最中、蔵前が言っていたことを思い出す。 ……人間は、周囲との関係で正気を保っている。 ある意味、平井と出逢うまでの森田は正気ではなかったのかもしれない。 競馬場を舞う外れ馬券が金に見えたこと自体、まさにその証拠ではないか。堕落した自身が生み出した、恐ろしい錯覚だ。 支えてくれる親や兄弟も無く。 平井が口にしていた「身軽」という言葉がそっくりそのまま当てはまるような、適当な生き方をしていた。 自分がいつどこで死のうが、悲しんでくれる人間は誰も居ない。 平井に出逢ったことで、少しずつ目が覚めてきた。自分を取り戻せたような気がした。 時には命の危機に晒されたりもしたが、その経験は決して無駄なものではなかった。 「傷は……」 「えっ?」 「お前が自分で刺した、胸の傷だよ。まだ痛むか?」 「いえ、大丈夫です。あれからはもう、痛みを感じるどころじゃなかったし……」 「見せてみろ」 平井の唐突な要求に、森田は言葉が出ない。 その目が。全てを見透かして操るような、底知れぬ平井の目が。 力ずくで押さえつけられるよりも、ずっと強く森田を縛った。 森田はネクタイを解き、シャツのボタンを上から外していった。乾いた血がついた左胸の傷が露わになる。 身動きを取れずにいる森田の胸に平井が顔を近づけて、傷に舌を這わせた。 驚いて身体が竦む。平井は何故こんなことをするのか。 「銀さん……!」 柔らかく濡れた感触の合間に襲う、ゆるやかな息づかい。まるで愛撫のようだと思った。 充分な手当てをしたわけではない刺し傷は、その行為で再び血がにじんでくる。 無意識に平井の肩に触れた森田の手は、震えていた。 気が遠くなるほど刺激的な時間から解放された頃には、全身の力が抜けていた。 頬が熱い。一気に飲んだビールのせいもあるだろうが、それ以上に……。 あれこれ考えをめぐらせていると、急に視界が回った。 平井に押し倒されたのだと、森田は数秒経ってから理解した。いくら何でも遅すぎる。 「もう心は決まってるんだろ、森田」 「ま……待ってください、まだ、俺は」 まだ、と言ってから後悔した。これではもう一押しされれば落ちますと、口に出して平井に教えているようなものだ。 「ダメダメ……考えているフリをしても。俺から逃げる隙はあったのに、お前はそうしなかった。 時間をいくら引き延ばしても、状況は変わらんさ」 確かに平井から逃げようと思えば、そうすることもできた。 本当に嫌ならあの時、平井を突き放してその意思を示せばよかったのだ。 森田は逃げなかった。酒が入っているとはいえ、缶ビール半分くらいで判断力は鈍らない。 この人のものになりたい。身も心も全て支配されたい。 ささやかな願いは、やがて浅ましい欲望へと塗り替えられる。信じられないほど簡単に。 初めて交わした平井とのくちづけは、かすかに血の味がした。 もし、あの競馬場で平井に出逢わなければ。 森田は生涯、この味を知らずに過ごしていただろう。 死ぬことを決意して、自ら流した血の味を。 |