かげりゆく部屋



平井の説得も実を結ばず、森田は引退の決意を翻すことはなかった。
せめてその顔を胸に焼き付けておこうかと思ったが、平井と目を合わせようとはせずに森田はただ、沈黙を守りながら俯いていた。 時間にすれば数分にも満たないそれは、平井にとって果てしなく長いものに感じた。
病室を出る前に1度だけ振り返ってみても、やはり森田はこちらを見ていなかった。
森田の頭に巻かれた包帯を見て、あれは俺が原因で傷つけたようなものだ、と平井は思った。 頭だけではなく、心までも深く。易々とは埋まらない傷を。
欲望という闇の中、森田は生死をさまよいながら戦った。 一緒に行って支えてやれば良かった、と今更悔いてもどうにもならないことに支配されて止められなかった。


***


森田が居なくなった空間は、やけに広く無機質なものに感じた。
自宅であるマンションにひとり帰ってきた平井は、身体に馴染んだ大きなソファに腰掛ける。
以前、酔いつぶれた森田が安田に連れられてこの家を訪れたことがあった。
そして翌朝、どうやら何か悩みがあるらしい森田にそれを訊ねてみると、好きな人が居るんです、という唐突な言葉が返ってきた。
平井は口や態度には出さなかったが、もしかすると自分のことかもしれないと自惚れた。 そうであってほしいという願望も混ざっていた。
その時の森田の態度や言葉はあまりにも思わせぶりで、平井に期待を持たせた。あれは無意識にやって見せていたのだろうか。
自分が、森田の心を占める存在であればいい。競馬場で目をつけた時には、こんな気持ちになるとは思っていなかった。
なのにまさか、森田が離れていくとは。別れる日が来るとは。
結局、『好きな人』の正体を聞けぬまま、この日を迎えてしまった。

『もし翼を失っても、銀さんならきっと……』

いつかの森田が口にした言葉を思い出すたびに、平井は苦い気持ちになる。
……森田は何も分かっていない。俺の翼は永遠にお前だけだ、誰も代わりになどなれない。

『言っただろ、俺は近い将来に国を買うと。そのためにはお前の翼が必要だ』
『本当に、夢みたいだ……俺が銀さんと、国を』
『俺とお前が組めば、夢だけじゃ終わらない。ずっと俺のそばに居ろ、森田』

森田と初めてくちづけを交わしたこのソファに横たわると、うっすらと部屋の中に陰りが落ちているのに気付く。
いつの間にか、窓の外の太陽が沈み始めていた。
愛しいあの男の匂いを、温もりを、出来る限り鮮明に思い出して身体の底から熱さを引き出す。 まるで傍らに森田が居る、せめて今だけでもそんな甘い夢を見られるように。
そうすればきっと、この胸に残る森田との日々まで陰ることはない。




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2006/6/11