寒空の下で 時間が経つにつれて指先の感覚が鈍く、重くなっていく。長い間冷たい空気を吸い込んでいるせいか、鼻の奥が痺れて痛い。 吐き出すたびに白くなって舞い上がり消えていく息を、平井はこの場所に立ったままずっと眺めていた。夕方近くの街は賑やかで、人通りが途切れることはない。 今日、3日ぶりにあの男に会う。同じマンションで暮らしているはずが、仕事の関係でずっと離れて過ごしお互いに顔を合わせる暇もなかった。 待ち合わせには数十分ほど遅れるという連絡が携帯に入ったが、平井はこの寒い中でもひたすら男が現れるのを待ち続けている。 マンションを出る時はそれほど寒くなかったので、スーツの上には何も着ないで出てきた。しかし次第に気温は下がり始め、自分の判断が珍しく間違っていた ことを腹立たしく感じた。雪が降っていないことは唯一の救いだ。 近くにある喫茶店で、窓際に座っていればやがて来る男の姿が見えるだろう。そうしないのは、一時でも早く男の顔を見たいという気持ちがあったからだ。 こちらへ向かう姿がだんだん近くなり、目の前に立つその瞬間がたまらなく待ち遠しい。 いい年をしてこんなことで浮かれている自分を少しだけ恥じた。俯いて落とすため息すらも白く染まる。 「こんなところでお前を待たせるなんざ、一体どこの大物だ?」 顔を上げた平井の正面に立っていたのは、白のロングコートを身に纏った赤木だった。いつの間に現れたのか、本当に油断ならない。 赤木とは古い知り合いで、時々会っては飲みに行くような関係だ。ふたりは10年ほどの年の差があるが、赤木は年上の平井に対しておかしな遠慮は一切せずに接してくる。 赤木しげると言えば裏の麻雀界では名の知れた代打ちで、若い頃は相当な無茶を続けてきたらしい。金だけではなく自らの血液まで賭けた麻雀という、まともな精神では 受けないようなものまで。平井は見たことのない10代の赤木は、よほど勝負の熱に飢えていたようだ。 平井自身は付き合い程度に軽く打つくらいならたまにあるが、赤木の前で胸を張って得意だとは言い切れない。 運の要素にも大きく左右される麻雀ならば、未だにこの場所に姿を見せないあの男のほうが向いているのではないかと思う。 「大物どころか、まだケツの青いガキさ」 「そう言いながらも、相当入れ込んでる様子じゃねえか。これから更にお前好みに仕立てるつもりなんだろ?」 「……冷やかし目的なら、さっさと帰りな」 凄んで見せても赤木は少しも動じない。むしろ面白がりながら、平井の反応を眺めている。相変わらず憎たらしい奴だ。 そんなことを考えていると、赤木は自分のコートを脱ぎ始めた。口には出さずとも寒くて凍えそうな平井の目には信じられない光景として映る。 平井の手に、赤木の脱いだコートが強引に押し付けられる。それは手触りの良い、かなり上質のものだった。 「お前にやるよ。知り合いの組長からの贈り物だが、どうも俺の趣味じゃねえんだ」 お前の大物によろしくな、と言い残して赤木はゆっくり歩きながら去っていく。向かうその先をよく見ると、黒い車が停まっていた。今までの間ずっと待たせていたようだ。 寒さなど感じさせず、のんびりと歩いていく赤木に対するつまらない意地のせいで、受け取ったそれを着る気にはなれなかった。 今度会った時にでも突き返してやろうと思っていると、遠くからひとりの男がこちらに走ってくるのが見えた。平井よりも長身で、肩幅も広い。 色もデザインも何もかもが野暮ったいジャケットを羽織り、ジーンズは何年も穿き続けているのか明らかに色褪せている。 競馬場で初めて声をかけた時の格好を思い出させた。あれと全く同じではないが、雰囲気は似たようなものだ。 「銀さん、遅くなってすみません!」 男は懸命に走ってきたのか、肩を激しく上下させながら呼吸を整えている。 「久し振りだな、森田」 「まさかずっとここで待ってたんですか!? どこかの店にでも入ってれば良かったのに」 そう言って森田は、平井の手を取ると包み込むように強く握った。その手は少しだけ冷えていたが、平井に比べれば充分に温かく感じる。 まるで温度を確かめるように、両手でまさぐってくる。こんな場所でためらいもなく男の手を握る森田の大胆さに密かに驚いた。 「……いや、俺も来たばかりだ」 「えっ、本当に?」 そう言った平井の手を握ったままの森田は、疑いの眼差しを向けてくる。言葉とは裏腹に手は感覚が鈍るほど冷え切っているので、無理もない。 長い時間ここで森田を待っていた事実を曲げて何故嘘をついたのか、自分でも分からなかった。本当のことを言って余計な気を遣わせたくなかったのだろうか。 「少し早いが、どこかに寄って夕飯にするか。森田、お前は何が食いたい?」 「あっ、じゃあ久し振りに銀さんの作ったカレーで」 「外食じゃねえのか……まあ、別にいいけどな」 赤木に押し付けられたコートには袖を通さず、それを小脇に抱えたまま歩き出す。早足で追いついてきた森田は寒さのせいか大きなくしゃみをして、平井の隣に並んだ。 もしかすると赤木は、平井が待ち続けていた相手が森田だと感付いていたのかもしれない。交わした会話の流れは、どう考えてもそれを思わせるものだった。 「銀さん、寒くないですか?」 「さっきまでは寒かったが、多分もう大丈夫だ」 ジャケットのポケットに両手を突っ込んで震えながら歩く森田を横目で見ていると、平井は無意識に表情が緩むのを感じた。 |