先生の事情





数日前、バイト帰りの森田は目を疑うような光景に遭遇してしまった。
近道をするためにいつも通る道とは違う方面を歩いていると、大きな料亭のそばに出た。
そこの出入り口から姿を現したのは、担任の平井だった。
学校での落ち着いたイメージとはかけ離れたスーツを着ていたので、見間違いかと思った。
その後をついてきたのは、テレビで何度か顔を見た有名な政治家。 そんな人物が、ただの高校教師であるはずの平井に媚びるような表情を向けたり、頭を下げたりしている。
平井は書類のようなものと引き換えに、政治家から銀色の大きなトランクを受け取った。
いくら視力の良い森田でも、ここからその中身を確認することはできない。 しかし、ある予感があった。多分トランクの中には溢れんばかりの金が詰まっている。この状況から考えられるのはそれしかない。
料亭の前に停めてある車に乗りこむ平井と目が合いそうになった途端、森田は我に返って夢中で逃げた。
俺は何も見ていない、と自分に言い聞かせながら。


***


平井は先月、森田の通う高校に赴任してきた教師だ。
はっきりとした年齢は分からないが、決して若くはない。それでも年老いた雰囲気は一切感じさせないところが、不思議でたまらない。 色々と謎が多く、平凡な生き方をしてきた森田とは違う世界の住人であることは明らかだった。
授業中、教壇に立つ平井の視線を感じた。居眠りやよそ見はしていなくても、心が授業以外のほうへ向いていたのを見透かされたような 気がした。
その口元に浮かべた微かな笑みが深く記憶に刻み込まれて、しばらく忘れられなかった。


***


「ここまで付き合ってもらって悪いな、森田」

屋上から見える景色はどこか澄んでいて眩しい。晴れているせいもあるだろうし、ここに来るまでは建物の中に閉じ込められて いたせいでもある。今は陽の光や穏やかな風を遮るものは何もない。屋上に出た瞬間、世界が広がったかのようだ。
放課後、鞄を掴んで教室を出ようとした森田を引き止めたのは平井だった。
どこの部活にも入っていない森田の放課後は、バイトに行くか家に帰るかのどちらかしかない。 ちなみに今日は後者のほうで、暇を持て余していた。
それにしても平井はどういう目的で、ここに連れてきたのだろう。 教師が生徒を呼び出す場所と言えば定番は職員室だが、そこではまずい話なのか。
平井はフェンスにもたれかかると、スーツのネクタイを緩めた。その仕草に釘付けになる。
森田をプライベートの相手と勘違いしているのかと疑った。まず有り得ないと思うが。

「お前、知ってるんだろ。俺のもうひとつの仕事のこと」

質問はあまりにも単刀直入すぎて、森田は驚きを隠せない。
やはり気付かれていたのか。あの時はすぐに逃げたものの、漫画のように一瞬でその場から姿を消したわけではない。
当然ながら、逃げる背中はしっかりと見られていたようだ。もう言い逃れはできない。

「……誰にも言いません、忘れるようにします」
「やけに素直だな」

そう言って平井は低く笑うと、上着の内側から煙草を取り出して火をつけた。
吸い込んだ後で深く息をつくと淡い煙が平井のそばを漂い、空気に溶けて消えていく。

「別に責めてるわけじゃねえよ、忘れる必要もない」

フェンスから離れた平井がこちらへ近づいてくる。煙草の匂いを強く感じるほど森田に接近すると、耳元に唇を寄せてきた。

「卒業したら、俺と組まねえか?」

囁くような声で言われたそれは全く予想外のもので、森田は返す言葉が見つからなかった。
あの夜のことを口止めするどころか、平井は森田を仲間に引き入れようとしている。
平井は一体、森田の何を見込んでそんなことを言うのか。今日のこの時まで、あまり深く関わったこともないのに。

「お前のことは調べさせてもらった。両親とは死別、兄弟も居ない……まさに好都合だ」

担任なのだから、そのくらいは知っていてもおかしくない。しかしそれ以上のことまで調べられていそうで、落ち着かなかった。
この男は、他の教師達とは違う。有名な政治家と付き合いがあって、とんでもない額の金を動かせる。
教師として赴任してきたのも、何か裏の目的があるような気がした。

「まあ、不審に思われても無理はないさ。今はな」
「……先生?」
「もし俺の仕事に興味があるなら、いつでも声をかけてくれ」

今は深く関わることはなくても、森田の決断次第で平井が生きるもうひとつの世界を覗ける。
学校とバイトを行き来するだけの退屈な日常が、一気に霞むくらいの刺激を。
来年の春に卒業したら、適当に就職して適当に暮らしていければいいと思っていた。 ある程度の稼ぎがあれば、普通に生きていけるからだ。
しかし、そんな考えを改めるチャンスが現れた。決めるなら今しかない。
挨拶代わりに片手を上げて屋上を後にする平井の背中を、森田は急いで追った。
これまでの日常と別れを告げる、大きな決断と共に。




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2006/12/26