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「君と別れた後に、どうして泣くのか。」
「いつでも彼女は僕の口を押し上げてくれる。」
「贅沢」
「愛と憎しみと音楽」
「犬好きは寂しがりや」



















 君と別れた後に、どうして泣くのか。


 彼女とはもう4年も付き合っている。 倦怠期というものを感じたことは無い、僕は彼女と毎日のように遊ぶ。 僕も彼女も友達が極めて少ない、というのも理由としてはあるけれど、 僕にとって彼女は、空気のような当たり前の存在で、 旅行も、映画も、ショッピングも、ただ彼女と一緒にいる口実でしかない。 僕らはとても自然に、いつも一緒にいる。そこに変な決まりごとや約束は無い。


 その日はお昼に待ち合わせ。 赤いヴェルヴェットクラッシュのTシャツ。栗色の髪によく映える。 それから僕らは公園に行って、ご飯を食べて、普通のありふれた一日を過ごす。 ありふれた一日の、ありふれた6時間はあっという間に過ぎて、僕らは駅へ向かう。 君は西武線、僕は東武東上線。 織姫と彦星みたいだねと言って笑う。僕は未練たらしく、別れる瞬間まで、君のうなじに顔を寄せる。 君の匂いだ。


 − 君の指から僕の指がするりと抜ける。 −


 とても楽しかった。僕も君も笑った。その後にどうして泣きそうになるのか。


 僕は覚悟している。覚悟の無いことが原因でどうしようもない失敗をしているから。 だから、これでもう終わりだということを覚悟する。死にそうな気分で、僕は笑顔で。


 もうきみに会えない。一生、会えない。


 そう思ってバイバイ。でもまたしばらくして遊ぶ約束をしたりしてね。まったく、 訳のわからないことをしているもんだと思うよ。だから匂いを嗅ぎたくなる。嗅覚には自身があるんだ。 この大きな鼻は君を忘れない。


 どうして泣くのか、と聞かれたら、匂いしか残らないから。ということ。


 僕の鼻は終わりを嗅ぐことは出来ないから。ということ。



















 僕の心臓は動いている。目も動くし耳も聞こえる。 ただ僕の口は死んでいる。



 誰でもコンプレックスがあるというのは本当だろうか。 僕は自分の口が大嫌いだ。別に大きいわけでもないし小さいわけでもない。 歯並びも自慢ではないけど良いほうだ。ただ僕の口には感情と言うものが無い。 病気だろうかわからないけれど不気味なほど愛想が悪い。 どんなに頑張っても、僕の唇はなかなか持ち上がってくれなかった。 可笑しいときも悲しいときも僕の口は役立たずで 頬をひくひくさせるぐらいが関の山だ。 いつも周囲の人に笑われていた。 僕が何かしゃべればみんなはそれを真似して笑う。 僕は口を開くのが怖くていつも押し黙っていた。 変なあだ名もつけられた。 平たく言えば僕はみんなから嫌われている。


 僕はこの口を遺伝じゃないかと考え、親を嫌った。 飼い犬は僕を笑わないから好きだった。 大抵のものは嫌いだけれど、他にも好きなものは幾つかある。 なかでも一番好きなのはひとつ上の幼馴染だ。 僕はいつも彼女のあとを追いかけ、彼女は僕の面倒を良く見てくれた。 いつか彼女を笑わせたいと僕はひそかに思っていた。


 僕は彼女を笑わせようと動かない口を必死に動かして 話すけれど、彼女は大抵笑ってくれなかった。笑わないどころか 反応を返すことさえ少なかった。 うんとか相槌を打てば良い方で、僕たちの関係は 僕が彼女の横顔に一方的に語りかけ、彼女はそれを聞いているのか聞いていないのか、 いつも前を向いていた。 彼女は僕の目を決して見てくれなかった。


 この関係は僕が18で彼女が19になった今も変わらない。 僕は東京に出て彼女は地元に残っていたので距離は少しだけ開いてしまったけれど、 僕らの関係になんら支障は無かった。 僕は暇さえあれば彼女に会いに行ったし、彼女も迎え入れてくれた。 僕は彼女が大好きだからだ。距離なんて関係ない。


僕が上京して何度目だろうか。休日に僕は彼女に会いに行き、 学校や始めたアルバイトのことをおもしろおかしく話した。 彼女を笑わせようと頑張った。 それはいつものように失敗に終わるのだけれど 楽しい時間で、楽しい時間はあっという間に過ぎるのが常だ。


「〜だと思わない?」

帰りのバスの中でいつものように彼女に語りかける。 相変わらず、僕はなかなか笑顔を作れずに頬をひくつかせている。 彼女は僕の問いかけに否定も肯定もせずバスの外を眺めている。 返事を求めるように無言で彼女の横顔を見つめるが 彼女からの応答は無い。


バスから降り。切符を買う。 ホームにはもう電車が待っていた。僕は急いでそれに乗り込み。 窓越しの彼女にまた来るからと伝えた。 出発を告げる車掌の声。それに紛れて彼女が口を開いた。


 「返事を返さないのは大切だから」


目を丸くする僕をおかまいなしに、 音を立てながら扉は閉じる。階段を上る彼女の後姿。彼女は決して振り向かない。 加速していく電車の中で僕はにやりと笑う。


 いつでも彼女は僕の口を押し上げてくれる。



















 夕方の匂いがすっかり秋になってしまった。去年もこんなに早く秋が到来したのだろうか。暦の通りに季節が変わるのはなんだかしっくりしない。


 友達に一緒に勉強しようとメールで誘われ11時に家を出た。11時といったらいつもはまだ寝てる時間。12時過ぎまで寝ることがどれほど時間を無駄にしているか知らしめられた。高崎線の窓をぼけっと眺める。中学生だろうか田んぼの間自転車で駆け抜ける少年。散歩中のおじいさん。マンションに干された布団が光を反射してオブジェのようで綺麗だった。電車から降り携帯電話をのぞくと待ち合わせ時間を10分ほど過ぎている。急ぎ足で友人宅へ向かう。友達は少ないくせにやたら知り合いに会うこの町はあまり得意ではない。嫌いではなく、得意ではない。


 想像通り待ち合わせ場所には自分が最後。遅いと叩く面々には懐かしい顔がちらほら。久しぶりに会うと新密度がリセットされたようで初対面のように接してしまう。でも遊んだ記憶も持っていて不思議と照れる。くすぐったいなぁ。コンビニでちょこちょこ買って友人宅へ。そのあとは大きく文型組と理系組に机を分けて勉強開始。やっぱり周りが勉強しているとはかどる。応用問題を数問やり終えて答え合わせをしているときに、このメンバーで真面目に勉強している事実に今更ながら吹きだしそうになった。笑いをこらえながらの答え合わせ。2時間して友達と煙草を吸いに外出。家の前は困るだろうと思い少し歩いた。


 ここ数日の間、自分の感覚は鬱屈してしまい、欲求不満と言葉に表せない衝動を抱え生活していた。一日はまるで30時間に感じる。その中で自分には敵も味方もいなかった。他人さえもいなかった。そこから感じる孤独感は寂しさよりも虚無感を生んだ。


 煙草を吸いに向かった土手で話す内容と言ったら、くだらないの一言。あいつの眼鏡かけるところはじめて見たとか、久しぶりに会うあの人は綺麗になっていたとか。内面に迫る会話は何一つも無かったけれど、言葉の一つ一つが耳を通り、てっぺんからつま先まで伝わり満たした。あぁ自分はなんて単純なんだろうと呆れるけれど、それも自分に優しい呆れ方で。


 自分の妄想に、悩み、恐れ、打ち震えていたのだろう。自分は一人だという考えにとらわれ、そこから抜け出すことが出来なかったんだ。他の人の持つ日常がのどから手が出るほど羨ましくて。


そろそろ戻ろうと二人で立ち上がったところに散歩中の犬が駆け寄ってくる。困り顔で笑いながら謝る飼い主、ブロックの上の猫はだるそうにこちらを見ている。帰り道の信号待ちで目を閉じ、開く。空は青い。信号は赤から青へ変わる。動き出す車。全て日常だ。狂うほど欲しがった日常はこんなにそばにあった。


自分はひどく贅沢だ。



















 あなたは何もわかっていないと言い彼女は僕から離れていった。そこはいつものようなデートのあとに入ったレストランで、彼女がいつもの声で言うものだから、僕は何かの間違いじゃないかと思った。けれど彼女はうろたえる僕をちらりとも見ずに一方的にレストランから出て行った。目の前には食べかけのカレーライスと薄いブルーのグラスが残り、混乱しながらも僕はそれを食べ終え店を出た。彼女がいないだけで渋谷の町並みは別世界のようだ。歩きながら何度も繰り返してみる。大切な人が目の前から消える。アナタハナニモワカッテナイ。


 僕はいままで恋人と別れても悲しんだり悔やんだりしたことはなかった。ところが今回はひどかった。家に帰ると僕は涙を流す代わりにギターを取り出し、近くの公園で朝まで歌った。他にも鍋が黄色くなるほどの量のパスタをゆでてみたり、友達を殴りつけたり後輩をどなったり人妻とセックスしたり、僕は生活から君の匂いが取れるまで、でたらめなことをたくさんした。僕はそれぐらい彼女が好きだった。今まで付き合った誰よりも僕は彼女を愛した自身があるし、そうしたいと思える人に出会ったのは彼女が初めてだった。嬉しくて恋愛というのはこういうことだと友達に言いふらしたぐらいだ。


 でもぼくはいま彼女に憎しみを抱いている。一方的に別れを告げられたことも腹立たしいけれど、理由がひどい、他の理由ならまだ許せる、何もわかっていないだなんてひどいじゃないか。


 彼女の人間性をうまく説明することは難しい。振られた僕が言うのもあれだけれど決して可愛いというわけじゃなかった。クラスの中にいる地味で目立たない女の子。周囲の幼稚さに半ばあきれるように窓の外を見てため息をつく、僕の彼女に対する第一印象はそんなところだ。友達も少なかったように思える。一言で的確に言うならば、彼女は嵐のようだった。僕はそれに流され、今は大きな海に一人で取り残されている。ただ日差しだけが強い。海底を覗き込んでみると黒い波が僕を呼ぶように渦を作っている。


 何もわかっていないと彼女は言ったけれど、なんとなく、きっとわかっていたんだよ。君のことが好きだったから。みんなわかっていたよ。でも彼女は僕を心のそこから愛していなかったから、きっと何もわかっていない。


 彼女はゴースツアンドウォッカが好きだといっていた。僕も好きだと答えたけれど、正直僕には良さがちっともわからなかった。彼女が好きだというから、僕も好きだといっただけだ。僕は音楽にだけは誠実に生きてきた。でも僕は君のために大好きな音楽に嘘をついたんだ。これがどういうことかわかっているのかい?


 ポケットからプレイヤーを取り出しイヤホンを付ける。数十秒の無音の後、静寂を破るようにギターのアルペジオが始まる。今でも僕はこのディスクを聞く。復讐するように、僕はこの音楽を聴き続ける。



















 夏に入り日差しが強くなった。渋谷は若さであふれ、僕はそれを避けるように大学へ向かう。僕は日陰の住人。じめじめした世界で今日も有機と愛を語る。


 午前の実験をなんとなく終わらせ、いつものようにタバコを吸いに出かける。校舎の前の喫煙ブース。この時期は日差しが強く、外でタバコを吸う人はいない。それでも僕は決まってその場所でタバコを吸う。その場所で彼女を待つ。タバコを取り出し火をつけると校舎の入り口から彼女が出てくるのが見えた。目だけをそちらに向けて、顔は動かさず煙を吐き出す。


 スーハー


僕は毎週の実験の跡にここにきて、彼女の隣でタバコを吸う。初めは偶然だったけれど、今は確信犯だ。僕は三人がけのベンチの端に座り。彼女は反対側にちょこんと座る。


 彼女は高校の時の彼女とよく似ている。あのころの僕は猫っぽい女の子が好きで、大きな鼻の犬顔のあの子は、可愛いといわれていたがタイプではなかった。なんとなく付き合い、僕は受験に失敗して、彼女が大学に入って夏休みが始まったころ、僕は振られた。良い男でも見つけたんだろうな。まったく犬顔の癖に従順じゃないなんて。


 僕はベンチに座り横目で彼女を観察する。実験中は縛っている髪をおろしていて、とがった真っ白な耳が真っ黒の髪からちらちら見え隠れする。去年作った結晶よりもよっぽど綺麗だ。何を考えているのか彼女はぼんやり空を見ながら煙を吐き出す。芸術品のような口から吐き出される煙はなかなかその形を崩さず、天まで届きそうなほど優雅に、ゆらゆらと。


 スーハー


 僕は何とか話しかけようとして話題を必死に考える。こうして何度も顔をあわせているけれど、僕は彼女の声さえ聞いたことがない。彼女はいつもタバコをちょうど4本吸って戻っていくので、僕はそれまでに何か話そうと必死に考える。


 彼女を知るまではだらだらとここでタバコを吸っていたけれど、今では彼女がここを去る、そうだな、五本目に火をつけるころ、僕もラボに戻る。彼女がいないのにここにいても意味がない。気持ち悪いぐらい寂しがりやだ。寂しがりや。ああなんて話しかけようかな、実験上手くいってる?とかどうかな。がり勉みたいで気持ち悪いかな。


 そんなことを考えているうちに、彼女は赤いシガレットケースにタバコをしまい、ぺこりとお辞儀をして4号館に消えていった。その姿が見えなくなるまで彼女を見つめ。空に向けて煙を吐き出す。校舎の後ろから太陽が顔を出す。まだまだ残ったタバコを捨てて、光から逃げるように、彼女を追いかけるように、僕も校舎に戻った。


犬好きは寂しがりや。彼女のことが好きな僕も多分そう。




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