「日誌・・・出し忘れた・・・」




鞄に収まった日誌を取り出し、みつめ、溜息。

日直の仕事を終えて教室を出たわたし。

職員室に日誌を届なきゃいけないのをすっかり忘れていた。

昇降口を出てすぐ気がついたのは、運が良かったとしか言いようがない。






























【 それじゃあ、また明日・3 】

































「失礼します」

さすがに放課後だけあって、職員室には教師の姿が多い。

担任のマリア先生はすぐにみつかった。
マリア先生もわたしに気付いて、デスクから顔を上げた。

「アラ、サン」

こちらを見る碧眼がとても綺麗で、ぎくりとする。
マリア・アルガード先生は、イギリス出身で英語の教師。

先生は椅子に座っていて、立っているわたしの位置からだと胸元がまる見え。
透けるような白い肌と、ふくよかな谷間があらわで同性のわたしでもどきどきしてしまう。

男子生徒ならイチコロだろうなあ・・・。

「・・・どうかした?」

「い、いえっ」

あわわ、埒もないことを考えてしまった。
慌ててかぶりを振るわたしに、マリア先生はなにか言いたげに首を傾げた。
その表情、たしかさっき緋勇君もしてたっけ・・・。

「あ、あの・・・日誌、持ってきました」
おずおずと日誌を差し出す。

「ご苦労様」
マリア先生は受け取った日誌を開けてさっと目を通してから閉じて、膝の上に置いた。

サン」

「は、はいっ?」

サンは・・・ああ、そうだわ。進路希望、まだ出していないわね?」

「あ、う、すいません・・・」
言って、身をすくませる。

あああ、そんなもの、存在すら忘れていたよ・・・。

「別に怒っているわけではないのよ。まだ提出期限までは何日かあるし。進学にしても就職にしても、大事なのはどこに入るか、じゃなくてどういった道を進みたいか、なのだから・・・・」

いいこと言うなー、さすがマリア先生。

「焦らす、じっくりと、ね?」

「・・・はい」

「それと・・・・サンは緋勇君とは仲がいい?」

「え、い、いえ・・・普通、です」

普通ってなんだ?と突っ込まれそうだけど。
仲が良い悪いと言えるほど親しくないのは事実だ。

「そう・・・彼は、クラスに馴染んでいるかしら?」

「あ、はい、それは」

わたしよりずっと馴染んでいるような気がする。

いつの間にか人の輪の中心に居る。無意識に。

緋勇君はそういうタイプだ。

ぶっきらぼうだし、乱暴なトコがあるけど、憎めない。




そう言うと、マリア先生は笑った。

「そう。それならよかったわ」

「あ、はい・・・」

どうしてマリア先生はわたしにそんなことを訊くんだろう?
緋勇君が転校して来てから、もうずいぶん経つのに。

怪訝な顔をするわたしに気付いたのか、マリア先生は言った。

「フフ、澳奈先生にアナタのことは聞いていたの」

澳奈先生は、去年定年退職した古典教諭だ。2年の時の担任でもあった。

「わたしのことを、ですか・・・?」
飄々としたおじいちゃんで、わたしはけっこう好きだった。授業も面白かったなあ・・・。

サンは、敏い、人を見る目のある子だ、って・・・」

「か、買いかぶりですっ、誤解です!」

な、なんてことを言ってるんだ、あの先生は!?
歳を疑われるほどの物忘れと粗忽さは、澳奈先生が一番よく知っているはずだ。
わたしはやんちゃな男子生徒より備品をよく壊していたのだから。

「そうかしら・・・?」
どこか、含みのあるマリア先生の笑み。

濡れたような赤い唇は弓形。吸いこまれるような瞳は、綺麗だけれど少し怖い。




「アナタは、気付いているのかしら?それとも・・・」

まるで、耳元で語られるように声が頭に響く。




足元が、ぐらつく。




そういえば、さっきまでにぎやかだった先生たちの声が聞こえない。

職員室はタバコの匂いがきつくて、あまり好きじゃないんだけど・・・・。




なにも、感じない。






おかしい、な・・・










ガラッ!




乱暴に開けられたドアの音に、はっと我に返る。

ドアを開けたのは、犬神先生だった。

その姿を見たとたん周りの声が、紙とインクと煙草の混じった職員室独特の匂いが、一気に押し寄せてきた。

「・・・引きとめてしまったわね。もう、帰っていいわよ」
淡々としたマリア先生の声。

一瞬、その瞳に剣呑な光が宿ったようだった。

「・・・は、はぃ」

・・・な、なんだろ、急にどっと疲れが押し寄せてきた。

犬神先生はなぜかまだドアの所に居て、ふらふら歩くわたしを見ている。

「・・・
すれ違う瞬間、声をかけてきた犬神先生。

「はひ?」

どうも全身がだるくて気の抜けた返事になってしまった。
怒られるかと思いぎくりとしたが、犬神先生は気にした風もなく言った。

「まっすぐ帰れよ」

「・・・・・・・あ、はい」

気をつけて帰れよ、が普通だと思うのだけど。

校則で禁止されている寄り道だって、そりゃちょっとはしてるけど、せいぜい本屋か雑貨屋、ファーストフード店だ。
補導されるほど遅くまでウロウロしてないし。

腑に落ちないわたしの様子を感じたらしい犬神先生は、
「近道しようとして迷子になる、なんてことにならんようにな」

ぎくっ

な、なんでそれを知ってるんだろう・・・。

わたしは方向オンチだ。しかも極度の。

実際、過去に学校へ行こうと近道をして迷って、結局遅刻してしまった覚えがある。

「何だ図星か」

違います、と言おうとしたが犬神先生から漂う煙草の匂いが痛い。咽喉に刺さるようだ。

一体どこのメーカーのを吸ってるんだろう、この人は。




見上げる。

そして、後悔した。






マリア先生の方を向いた犬神先生の瞳は、あきらかに人のそれではなかった。




「ッ失礼します」

それだけ言って、わたしは逃げるように職員室を去った。













咽喉の奥に残る、煙草の匂い。





もしかしたらそれは、別のにおいを消す為かもしれない、と思った。

































犬神のデスクは、マリアの向かいだ。
犬神が席に着くと同時に、マリアが口を開いた。

「そんな目をしては、生徒が怯えてしまうわ」
それは生徒にも、そしてほかの教師たちにも聞かせた事のない冷淡な声だった。

「・・・なにを、しようとした?」

犬神の鋭い視線をマリアは正面から受けた。

「あの子はワタシの生徒よ。なにをするというの?」




無言で、睨み合う二人。




先に視線を外したのは、犬神だった。

「・・・ああいう人間は、昔多かった」

「そうね。敏感で、好奇心が旺盛で、異物は排除することしか知らない野蛮な生物・・・」

「ただ、あの生徒は少し違うな。妙に【間】を心得ている」




「・・・・間?」

「違う存在に敏感で異常に萎縮しているが、ヒステリックな攻撃性が皆無だ。好奇心よりも警戒心が勝っているのは闇の深さを知って、距離を保つことを知っているからだ。古い血筋の先祖返りだろう、おそらくは」

「やっぱり気づいているのね。ワタシたちのことを・・・・・」

「お互い様だ。構わないことだな」

「・・・おかしな子だわ。行動が読めない」

「行動など、起こす気がないんだろう。読めなくて当然だ」

「・・・ああいう人間も、いるのね」




「・・・・・ときどきな」

「・・・・・・・」
マリアはもう一度日誌を開いた。

達筆ではないが、読みやすい柔らかい文字。

日直による最後のまとめてして、備考のスペースに一言添えなければいけないのだが、彼女は授業のことや休み時間にあった些細な出来事まで書いている。

あくまで客観的に書かれた淡々とした文章だが、それを読めば澳奈教諭の言葉の意味が良くわかる。









「だから、アナタなら何か感じたのかと思ったのだけど・・・彼のことを」














緋勇龍麻という少年のことを。



































校舎を出ると、独特の湿気がただよう。
ついさっきは降ってなかった、季節はずれの雨。

わたしにしては用意がいいことに、折りたたみ傘を持っていたりする。
自慢じゃないけど、天気に関してはそこらへんの予報より当たるのだよね。

誰にともなく自慢気に傘を開いて差した。




カツッ

「あ痛!?」

傘の先端が、髪をひっかけた。

あわてて外すと、カシャンというなにかが落ちる音と共に、髪が解けた。




バレッタが外れて落ちたんだ。

「あ〜あ、もう・・・」
しゃがんで外れたバレッタを拾う。

「あ!?」

こ、壊れてる・・・!

「ああ〜〜」

結構気に入っていたのに・・・・このちょうちょのバレッタ。

ホントどうしてこう粗忽なんだろ、わたしは・・・。

でも、壊れてしまったものはしょうがない。
バネがゆるくなってたから、そろそろ使いおさめだったし。

そばにあったゴミ箱に欠けたバレッタを捨て、手櫛で髪を整える。

そうだ、帰りに雑貨屋さんに寄って、新しいバレッタを買おう。

うん、そうしよう。

壊れたバレッタもそこで買ったものだ。

きっとまた、可愛いのが入荷しているにちがいない。




一気に気分が浮上した。

「〜♪」
鼻歌なんか歌ってみたり。




その時にはもう、すっかり忘れていた。









『まっすぐ帰れよ』

犬神先生の、その言葉を。



























雨のせいかあたりはもう薄暗いが、街灯のおかげで独特の明るさがある。

「あの、すみません」

その角を曲がれば目当ての雑貨屋さん、という所で声を掛けられた。
ジャージ姿の男の人だ。

この雨に傘も差さずに、いる。






ざわりと鳥肌が立った。

違う、と思った。




何がと聞かれても困るけど。






男はもう一度すみません、と言った。

痩せた男だった。

薄暗くても分かる、不健康な青白い肌。





「僕と、遊びましょう?」

言葉を紡ぐ唇は紫。

ばしゃん。

水溜りを構わず、男は一歩踏み出した。

なぜ、この人は、はだしなのだろう?






わたしは、動けなかった。





「鬼ごっこです」

濁った目が、わたしを見ている。






動けない。





ばしゃん。

一歩。





ばしゃん。





また、一歩。










カチカチという音は、点滅する街灯だろうか。

それとも、いつの間にか震えているわたしの、歯の根が噛み合わない音だろうか。









「僕が、鬼」









空気が、膨れ上がるようだった。



近づいてくる男から発する、禍々しい気配。








突如、男の額の皮膚を裂いて角が生えた。

血管が浮き上がり、赤褐色へと変わる肌。

筋肉は隆起し、ジャージを引き裂いた。




大きな犬歯がのぞく口からは臭気が漂う。




「・・・・・!」







口元からたれるそれが、長い、人の髪だとわかってようやく。




















わたしは。




























「お前が獲物だ」






目の前の「鬼」が、腕を振り上げた。






子どもの胴ほどもある太い腕を。




その先の、鋭いつめをわたしに向けて。
























「ヒャーハハハハハハッ!!」








笑う。


























【続】





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(06/06/28)