「日誌・・・出し忘れた・・・」 日直の仕事を終えて教室を出たわたし。 職員室に日誌を届なきゃいけないのをすっかり忘れていた。 昇降口を出てすぐ気がついたのは、運が良かったとしか言いようがない。 【 それじゃあ、また明日・3 】
さすがに放課後だけあって、職員室には教師の姿が多い。 担任のマリア先生はすぐにみつかった。 「アラ、サン」 こちらを見る碧眼がとても綺麗で、ぎくりとする。 先生は椅子に座っていて、立っているわたしの位置からだと胸元がまる見え。 男子生徒ならイチコロだろうなあ・・・。 「・・・どうかした?」 「い、いえっ」 あわわ、埒もないことを考えてしまった。 「あ、あの・・・日誌、持ってきました」 「ご苦労様」 「サン」 「は、はいっ?」 「サンは・・・ああ、そうだわ。進路希望、まだ出していないわね?」 「あ、う、すいません・・・」 あああ、そんなもの、存在すら忘れていたよ・・・。 「別に怒っているわけではないのよ。まだ提出期限までは何日かあるし。進学にしても就職にしても、大事なのはどこに入るか、じゃなくてどういった道を進みたいか、なのだから・・・・」 いいこと言うなー、さすがマリア先生。 「焦らす、じっくりと、ね?」 「・・・はい」 「それと・・・・サンは緋勇君とは仲がいい?」 「え、い、いえ・・・普通、です」 普通ってなんだ?と突っ込まれそうだけど。 「そう・・・彼は、クラスに馴染んでいるかしら?」 「あ、はい、それは」 わたしよりずっと馴染んでいるような気がする。 いつの間にか人の輪の中心に居る。無意識に。 緋勇君はそういうタイプだ。 ぶっきらぼうだし、乱暴なトコがあるけど、憎めない。 「そう。それならよかったわ」 「あ、はい・・・」 どうしてマリア先生はわたしにそんなことを訊くんだろう? 怪訝な顔をするわたしに気付いたのか、マリア先生は言った。 「フフ、澳奈先生にアナタのことは聞いていたの」 澳奈先生は、去年定年退職した古典教諭だ。2年の時の担任でもあった。 「わたしのことを、ですか・・・?」 「サンは、敏い、人を見る目のある子だ、って・・・」 「か、買いかぶりですっ、誤解です!」 な、なんてことを言ってるんだ、あの先生は!? 「そうかしら・・・?」 濡れたような赤い唇は弓形。吸いこまれるような瞳は、綺麗だけれど少し怖い。 まるで、耳元で語られるように声が頭に響く。 職員室はタバコの匂いがきつくて、あまり好きじゃないんだけど・・・・。 ドアを開けたのは、犬神先生だった。 その姿を見たとたん周りの声が、紙とインクと煙草の混じった職員室独特の匂いが、一気に押し寄せてきた。 「・・・引きとめてしまったわね。もう、帰っていいわよ」 一瞬、その瞳に剣呑な光が宿ったようだった。 「・・・は、はぃ」 ・・・な、なんだろ、急にどっと疲れが押し寄せてきた。 犬神先生はなぜかまだドアの所に居て、ふらふら歩くわたしを見ている。 「・・・」 「はひ?」 どうも全身がだるくて気の抜けた返事になってしまった。 「まっすぐ帰れよ」 「・・・・・・・あ、はい」 気をつけて帰れよ、が普通だと思うのだけど。 校則で禁止されている寄り道だって、そりゃちょっとはしてるけど、せいぜい本屋か雑貨屋、ファーストフード店だ。 腑に落ちないわたしの様子を感じたらしい犬神先生は、 ぎくっ な、なんでそれを知ってるんだろう・・・。 わたしは方向オンチだ。しかも極度の。 実際、過去に学校へ行こうと近道をして迷って、結局遅刻してしまった覚えがある。 「何だ図星か」 違います、と言おうとしたが犬神先生から漂う煙草の匂いが痛い。咽喉に刺さるようだ。 一体どこのメーカーのを吸ってるんだろう、この人は。 そして、後悔した。 それだけ言って、わたしは逃げるように職員室を去った。 「そんな目をしては、生徒が怯えてしまうわ」 「・・・なにを、しようとした?」 犬神の鋭い視線をマリアは正面から受けた。 「あの子はワタシの生徒よ。なにをするというの?」 「・・・ああいう人間は、昔多かった」 「そうね。敏感で、好奇心が旺盛で、異物は排除することしか知らない野蛮な生物・・・」 「ただ、あの生徒は少し違うな。妙に【間】を心得ている」 「違う存在に敏感で異常に萎縮しているが、ヒステリックな攻撃性が皆無だ。好奇心よりも警戒心が勝っているのは闇の深さを知って、距離を保つことを知っているからだ。古い血筋の先祖返りだろう、おそらくは」 「やっぱり気づいているのね。ワタシたちのことを・・・・・」 「お互い様だ。構わないことだな」 「・・・おかしな子だわ。行動が読めない」 「行動など、起こす気がないんだろう。読めなくて当然だ」 「・・・ああいう人間も、いるのね」 「・・・・・・・」 達筆ではないが、読みやすい柔らかい文字。 日直による最後のまとめてして、備考のスペースに一言添えなければいけないのだが、彼女は授業のことや休み時間にあった些細な出来事まで書いている。 あくまで客観的に書かれた淡々とした文章だが、それを読めば澳奈教諭の言葉の意味が良くわかる。 わたしにしては用意がいいことに、折りたたみ傘を持っていたりする。 誰にともなく自慢気に傘を開いて差した。 「あ痛!?」 傘の先端が、髪をひっかけた。 あわてて外すと、カシャンというなにかが落ちる音と共に、髪が解けた。 「あ〜あ、もう・・・」 「あ!?」 こ、壊れてる・・・! 「ああ〜〜」 結構気に入っていたのに・・・・このちょうちょのバレッタ。 ホントどうしてこう粗忽なんだろ、わたしは・・・。 でも、壊れてしまったものはしょうがない。 そばにあったゴミ箱に欠けたバレッタを捨て、手櫛で髪を整える。 そうだ、帰りに雑貨屋さんに寄って、新しいバレッタを買おう。 うん、そうしよう。 壊れたバレッタもそこで買ったものだ。 きっとまた、可愛いのが入荷しているにちがいない。 「〜♪」 犬神先生の、その言葉を。 「あの、すみません」 その角を曲がれば目当ての雑貨屋さん、という所で声を掛けられた。 この雨に傘も差さずに、いる。 違う、と思った。 痩せた男だった。 薄暗くても分かる、不健康な青白い肌。 言葉を紡ぐ唇は紫。 ばしゃん。 水溜りを構わず、男は一歩踏み出した。 なぜ、この人は、はだしなのだろう? 濁った目が、わたしを見ている。 一歩。 それとも、いつの間にか震えているわたしの、歯の根が噛み合わない音だろうか。 血管が浮き上がり、赤褐色へと変わる肌。 筋肉は隆起し、ジャージを引き裂いた。 (06/06/28) |