目の前に男の顔が迫っている。まだ若い。顔立ちは整っていて、人懐っこそうな水色の瞳が興味深そうにルルーシュの顔を覗き込んでいる――というシチュエーションは前にもあった。
「ジノ様……」
ルルーシュは以前と同じように相手の名前を呼んだ。
「気がついたんですね、ルルーシュ先輩っ」
弾むようにジノが答えたのも同じだ。
ただ違うのは、自分の記憶が確かなら、ここに至るまでの記憶がまるでないということだ。というか、たったいま気が付いたといっていい。
不審に感じつつ身を起こしたルルーシュは、脚の間にある違和にギクリとなった。
まさかと思う。そんなはずは…っとも思う。しかしどう考えてもこれはっ……!である。
いつもはめまぐるしく動く優秀な頭脳が、オーバーフローを起こしてルルーシュの頭は真っ白になった。
しばしの硬直。
目の前で固まるルルーシュを、つんつんとジノがつついた。
「センパイ?」
ジノに呼ばれ、恐る恐るといった顔でルルーシュがジノを見上げる。不測の事態に弱いルルーシュだが、完全にパニくると、動きも緩慢になるらしい。
「ジ、ジノさま……」
どこか怯えたような紫の目で見上げられ、上機嫌でジノがにちゃっと笑った。
「なんです? センパイ」
「は、はいってる……」
脚の間、いや、腰のあたりに何かが。
すでにルルーシュは涙目で、その涙に滲んだ目線の先を追ったジノは、ああと納得してフツーに答えた。
「入ってますね」
「なんで、はいって……」
「入れたから?かな」
「どうして、いれ……」
「覚えてないんですか? センパイ」
当然、覚えてなどいるはずがなかった。
確か賭けチェスの話をしていたんだと思う。連れて行って貰う前に知識が必要だといって、クラブハウスに押しかけられた。そこで何を賭けているかという話になって、最高額はいくらだったとか、負けたことはあるかとか、危なくないのかとか、確かそういう話になった
「いままであぶない目にあったことってなかったんですか、センパイ」
そう聞かれ、相変わらず好奇心旺盛だと思いながら、ルルーシュは当たり障りのない答えを返した。
「まあ、それなりには」
「ふーん」
テーブルの上にはチェスボード。リヴァルから数々の逆転劇を聞いてきたらしい。そのときのようすを見せてくださいよと言われ、出してきたものだ。
「この状態から――」
過去の棋譜はすべて頭の中に入っている。その中でももっともジノが興味を示した対局を、ルルーシュは再現した。
「予言したんですよね? どうしてわかったんです?」
リヴァルとの出会いの対局だった。
と言ってもリヴァルと対局していたのはルルーシュではなく、悪趣味な貴族だ。なまじ強かった分、自分の濃い敗色を悟ったリヴァルは、ただ支払わねばならない賭け金に気を取られ、近付いてきたルルーシュに気付きもしなかった。
その頃ルルーシュはリヴァルと面識がなく、別に他人の勝負など放っておいてもよかったのだ。調子に乗って賭け金を増やしたのはリヴァル本人で、そんな覚悟もなく相手の手に乗ったのも自業自得としかいいようがない。なのにどうして口を挟んだかと言えば、ただ相手が気に入らなかった、その一点につきた。
――どけよ、俺が替わる。
負けた方が3回回ってワンと鳴くという話を勝手にまとめて代打ちにおさまり、ゲームを再開する前にメモを書いた。それはなんだと聞くリヴァルに、平然とルルーシュは答えた。
――預言書。
メモはこれから展開するであろう棋譜を記したものだった。相手の手筋はすでに把握している。セオリー通りの素直な手筋は、戦術も戦略も読むに容易い。果たしてリヴァルに渡したメモ通りにゲームは進んだ。
「見たかったなあ、それ!」
実にたのしそうにジノが言い、ほんとに鳴いたんですか?と聞く。
「ああ。約束通り鳴いて貰ったよ」
さすがに3回回ることはなかったが、捨て台詞の前にワンとは言った。そのときの相手の顔を思い出し、ルルーシュは薄く笑う。
「仕返しされませんでした?」
それで恨みを買ったのは事実だが、そうした報復も予想のうちだ。
「――別に」
平然と答えたルルーシュの顔をジノが覗き込できた。何を探っているのか、それともただの興味か感心か。目の前に笑っていない水色の瞳がある。その目を見返したルルーシュに、ようやくジノの目がゆるんだ。
「もし負けてたら、センパイがわんって鳴いたんですよね」
「そうなるのかな」
「ヤバイことも何回かあったって!?」
「どこで覚えたんです? そんな言葉」
ジノ・ヴァインベルグ。言わずと知れたナイトオブスリーだが、大貴族の出身でもある。転入当時の様子を見るに、ヤバイなどと、そんな言葉遣いなどしていなかったはずだ。
明快にジノが答える。
「もちろんここで。貞操の危機が何度かあったっていうのも聞きました」
貞操……。
リヴァルのヤツと大袈裟な親友を心の中で罵りながら、それでもルルーシュが表情ひとつ変えることはない。ルルーシュは平然と余裕の笑みさえ浮かべて、指の動きとともにジノに顔を向けた。
「危機なんてありませんよ。負けたことがありませんから」
へえーとジノが感心して肩を竦める。
「じゃあ、やっぱり何回かあったんだ」
「ジノ様……」
話にならない。
ルルーシュは形のいい指を額にあて、呆れたように息をついた。
前に話したときもこうだった。ジノとは、いやラウンズとはというべきか。ラウンズたちとは言葉が通じないとルルーシュは思う。
しかしジノはおかまいなしで、ポケットに手を突っ込んだまま長身を折り曲げ、ひょいとルルーシュに顔を近付けた。突然のことに仰け反るルルーシュの目の前で、にゃはっと笑う。
「賭けたの、お金だけじゃなかったんでしょう? センパイ」
長い腕で引き寄せられ、意味ありげに耳もとでジノが囁く。
確かにジノの言う通り、悪趣味な貴族や金持ちから、金ではなくルルーシュ本人をと希望されたことはある。女性だけでなく若い男を好む輩は上流階級者ほど多く、チェスに関係なく一晩いくらかと聞かれたこともあれば、チェスより稼げるからと、そうしたクラブにスカウトされたこともあった。ワンと鳴いた貴族も、リヴァルに言わせると、ルルーシュを舐めるように見ていたらしい。
涼しい顔でルルーシュは答えた。
「何を賭けようと勝てば問題ありませんよ」
それがルルーシュ自身であろうと大金であろうと、負けさえしなければ払う必要がない。しごく当然のことだが、ジノは変わらずルルーシュを意味ありげに覗き込んでいて、さりげなく外そうとした腕は動かなかった。
「ジノ様?」
目の前でおもしろそうにラウンズが笑っている。
ナイトオブスリー。大貴族の出身でありながら実力だけでラウンズにのし上がった変り種。外見と言動のせいで軽薄な印象を受けるが、中身まで軽薄ではないことをその経歴が物語っている。
「でも、力づくじゃかなわないでしょう?」
いつのまにか抱き込まれた身体が壁に押し付けられていた。
確かに組み伏せられればその通りだが、貴族も金持ちも徒党を組むものだと決まっている。それなら戦術的に戦争とたいして違わない。人気のないところには近寄らず、ボーイや常連客に味方を増やし、逃走ルートを幾つか確保しておくだけでほとんどの危険は回避できる。事実、そうしてルルーシュは、ギアスを得る前から切り抜けてきた。だが、こうして組み伏せられれば、体力のないルルーシュは圧倒的に不利なことも否めない。
ギアスを使うか?
当然出てくる選択肢は、もっと有効に使うべきだという最もな理由で却下となった。
ここは何とか切り抜けてシャワー室で咲世子と――
入れ替わる。が、これもすぐに却下となった。
完ぺきに影武者を演じていてはくれるが、咲世子は女性だ。ラウンズ相手でも逃げおおせられはするだろうが、何といっても室内、身体に接触されないとは限らない。しかも咲世子は天然、もしこれ以上先に進まれてはたいへんまずい。
えーい、こんなときロロがいれば……。
あいにくロロは野外授業で帰りは遅い。監視カメラはジノが現れたときに切り換え、この映像を映しているはずだが、当の監視員たちに異常は見逃せというギアスをかけてある。残るはヴィレッタだが、彼女は水泳部顧問としてプールにいる時間だった。
めまぐるしくルルーシュの頭脳が動く。
一旦目を伏せたルルーシュは、相手を逃がさないようにと壁につかれたジノの手を取り、嫣然と微笑んだ。
「……力づく、ですか?」
誘うように唇を薄く開き、掠れた甘い声で囁くように言った。
たらしこむのがうまいと言ったのは誰だったか。笑顔ひとつで国が取れるんじゃないー?なんて冗談を言っていたのは生徒会長のミレイだが、ルルーシュには笑顔と演技で相手の心を掌握してきた事実がある。
いままで幾度となく誘われ、賭けの対象を身体でと言われことが一度や二度ではないルルーシュだ。当然セクハラまがいのことも受けている。したがって。経験は浅くともあしらいには慣れていた。気の弱い相手なら強気で突っぱねるのも手だが、貴族や金持ちといった連中には逆効果なこともルルーシュは知っている。
相手のプライドを刺激しないように、あくまで物腰はやわらかく強行な手段には出ない。振り払えば反感を買うが、するりと逃げれば関心を誘う。
嫣然とほほえんだまま、ルルーシュは効果的に小さく肩を竦めて見せた。
「怖いな」
呟くように言ったルルーシュの言葉が気に入ったらしい。おもしろそうに目尻が上がり、水色の目が細められた。
カジノにいる連中のねっとりとした視線でも、学園の生徒たちのような羨望の眼差しでもない。そこにあるのは、おそらく単純な興味と純粋な好奇心だ。
確かに、とルルーシュは続けた。
「確かに力付くではかなわないかもしれませんが、ようはそうした事態に持って行かなければいいだけの話ですよ」
逃げるのも戦略のうちだ。
ルルーシュが言うと、今度はジノの口許がおもしろそうに上がった。
「でも、こうされたら逃げようがないんじゃない?」
壁に両手を付き、ルルーシュが逃げられないようにその腕の中に封じ込める。じりじりとジノの身体が近付くのを感じながら、それでもルルーシュは平然とした態度を崩さなかった。
「ないこともないですが、相手によるかな」
体力はないが瞬発力は人並みだ。
身体を沈めて腕から逃れ、相手の虚を付いてドアに駆け寄るか、状況しだいで体当たりしてもいい。近くに使える道具があればそれを使って目潰しという手もあるし、タバコを吸う相手なら火を使ってスプリンクラーを作動させることもできる。
が、屈強な相手、ましてラウンズ相手に通じるとは思えない。
「じゃあオレは?」
相手によるといったことに対する問いだろう。そう聞かれ、ルルーシュは観念したように肩の力を抜いた。
「無駄なことはしない主義なんです」
それを同意と取ったらしい。いきなり抱き上げられ、にゃははと笑いながらベッドに放り投げられた。どこまでも遊び感覚らしい。ベッドのスプリングに跳ねる身体を押さえ込まれ、逃げられなくなったルルーシュは、しかし口舌だけは無駄な抵抗をやめなかった。
「その、ジノ様、シャワーに……」
「うん、あとでね」
「服は自分で」
「遠慮はしないでくれたまえ」
「素面ではなんですから、せめてワインくらい」
「開放的な気分になりたいならいいものがありますよ、センパイっ」
「んんーっ」
なんだかよくわからないものを口移しで飲み込まされ、ルルーシュは涙目でげほげほと咳き込んだ。
「な、なに」
「軍で流行ってるらしいんだけど、使うのははじめてなんだよねー」
そんなあやしげなものを……っ
と思ったが、もう遅い。
相手の意に従う振りをしながら、油断させておいて逃げ出す。ルルーシュが何度か使った手段だが、今回ばかりは勝手が違った。
シャワーを浴びるといってスプリンクラーを作動させたこともあれば、シャワー室から電話でルームサービスや救急車を呼んだこともある。相手のデータがあればルームサービスではなく夫人に連絡して、あとは時間を稼ぐだけでいい。
今回もまた必要なのは時間だった。気付いたところでヴィレッタが来るかどうかはあやしいが、ロロなら飛んで来るだろう。帰宅して真っ直ぐ地下に行ったとしても、この様子を見れば駆けつけてくることは間違いない。
が、時間を稼ぐどころか加速させているような気がするのは気のせいだろうか。
セクハラのあしらいに慣れていると思ったのは過信だったらしい。太腿に手を置かれたり、腰を抱き寄せられたり、手を握られたりする程度のことであれば冷静に働く頭も、本格的なアレコレになると思考がいちいち停止してしまう。
「はうあっ」
脇腹を撫で上げられ、ルルーシュは叫んだ。すでに上着は脱がされ、はだけたシャツがズボンからはみ出している。そのシャツの裾から侵入した手に薄い肌を撫でられて、ルルーシュは身体をよじった。
「変わった声をあげるんですね」
「その、すまない」
って、あやまってる場合かー!
「しかも慣れてない?」
「慣れてるわけないだろう」
「もしかして、スザクを出し抜いちゃったかなー」
どうしてそこでスザクの名が!
しかしルルーシュの怒りは長く続かなかった。強烈な眠気が襲ってきたからだ。
ぴたぴたと誰かに頬を叩かれ、ルルーシュはうっすらと目を開けた。目の前にはいつになく真面目なナイトオブスリーの顔がある。
「ジノ様……?」
ルルーシュが相手を認識すると同時に水色の目が安堵の色を浮かべ、ほっとしたようにジノが息をついた。
「気がついたんですね、ルルーシュ先輩っ」
いったい何がと身体を起こそうとしたルルーシュは、脚の間にある違和に硬直した。
いやな予感がする。いや、どちらかと言えば予感ではなく、これはむしろ確し……。
そのままフリーズしてしまったルルーシュは、つんつんとジノに突付かれ、失敗した子どものように泣き言を言った。
「はいってる……」
何がとはあえて言わなかった。言いたくなかった。言ったら負けだと思った。気付かない振りをしたかった。
そんなルルーシュの言葉を受けて、ジノが的確に状況を断言した。
「入ってますね」
「なんで、はいって……」
「入れたから?かな」
「どうして、いれ……」
「覚えてないんですか? センパイ」
もちろん覚えてなどいるはずがない。ルルーシュの記憶は脇腹あたりで途切れている。気を失ったのか?とも思ったが、どちらかと言えばあれは気を失ったというよりもだ。
落ち着け、考えるんだと自分自身に言い聞かせ、ルルーシュは状況を立て直してやせ我慢のポーカーフェイスで再度挑んだ。
「で、できれば、事情を説明していただきたいのだが」
どうして自分がベッドの上でジノ・ヴァインベルグに伸し掛かられ、あまつさえジノ・ヴァインベルグのものが入っているのか。
ルルーシュの優秀な頭脳は、すでにその可能性を記憶の断片から108通りほど拾い上げていたが、あえてルルーシュは放棄することを選択した。何故なら、どんどん怖い考えになっていくからだ。
人の悪い笑みを浮かべ、たのしそうにジノが聞いた。
「状況ですか? 原因ですか? それとも感想?」
全部だ!と言いたいところだが、取り合えず感想だけはいらなかった。だいたい、こんな状況で感想などもってのほかだとルルーシュは思う。完全なマナー違反だ。
が、あろうことか、ジノはたのしげに、実にたのしげに感想から語り始めた。
「ビンカンなんですね、センパイっ」
狭いし。
と、これはどこの感想なのかと全力でツッコ――みたくない。
「意識を失ってるっていうのも意外にたのしいものだったんですねえ。新境地発見? いや、開拓!?」
「なんの話をしている……!」
ルルーシュの恨めし気な視線を受けて、いやーと頭を掻きつつ、悪気なくナイトオブスリーがあっけらかんと大きな口を開けて笑った。
「あの薬、睡眠薬だったらしくて」
すいみんやく!?
薬というのは口移しで飲まされたあれだろう。あやしげな薬だったことは確かだが、効果についてもあやしげな認識をしていたらしい。
「気持ちよくなる薬だっていうから、てっきり」
きゃはっとでも言い出しそうなかわい子ぶった笑顔を向けられ、ルルーシュの怒りは頂点に達した。
こんなふざけたことがあるかと思う。薬を飲まされたと思ったら睡眠薬で、ぐっすり眠っている間に入ってましただなんて、事後承諾にも程がある。
「い……っ」
「イイ?」
「なんでそうなる」
「気持ち良さそうだったし?」
「〜〜〜〜〜」
ふにゃんとされるがままで、それでいて身体の方は敏感に反応していたと、たのしそうにジノが今度は状況を説明してくれる。
歯軋りしたくなる思いに、ルルーシュは敬語を忘れた。
「い、いいからどけ。いや、抜け! って、動くなっ」
「センパイこそ締め付けないでくださいよ」
「誰が締め付けている」
「眠ってる間は弛んでたけど、目が覚めた途端にこう、ぎゅうぎゅうと」
「言うなっ」
「って、また」
「はうあ!?」
半ば起こしていた身体を再びベッドに押し付けられて、ルルーシュは焦った。気のせいではなく、身体の中のジノが勢いを増している。
「な、な、」
い、生きてる……。
いや、死んでても困るが、こんな勝手に人の中で、許しもなくっ
再び涙目になりつつあるルルーシュに、すみませーんと悪気なくジノが言った。
「抜こうと思ったんですけど、センパイの顔見てたらまた」
「な……っ」
「動いていいですか? センパイ」
ルルーシュはぷるぷると首を振ったが、当然聞いてもらえるはずなどなかった。
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