ベッドから掠れた声が聞こえる。柔らかな唇は甘い喘ぎを洩らし、柳眉が苦悶ではない何かに歪んだ。だが、彼は一度としてミーノスの名を呼んだことも、背中に腕を回してきたこともない。
名前どころか――
ミーノスは皮肉に口の端を歪めた。
甦ってより一度として、彼は意味をもつ言葉を発したことも、意思をもって表情を変えたこともなかった。ただ抜け殻がたゆたっているだけだ。
聖域(サンクチュアリ)でのあの闘いでミーノスは敗れ、彼も、アルバフィカもまた命を落とした。彼と自分がいま現世にあるのは、アテナの結界を破ったハーデスに呼び戻されたからだ。
冥界の王であり、神であるハーデスが死者を甦らせることは容易い。冥王がアルバフィカまで呼び戻したのは、アテナの聖闘士(セイント)を冥闘士(スペクター)にという気まぐれを起こしたからに過ぎず、ミーノスに褒賞として与えたのもまた、神の気まぐれだった。
「随分と気に入っていたであろう?」
冷たくも優しい笑みを浮かべて、冥王は玩具に飽きた子どものように、ミーノスにアルバフィカを与えた。
聖闘士の中でも最強を誇る12人の黄金聖闘士(ゴールドセイント)。そのひとりである魚座(ビスケス)を冥闘士の配下にといった趣向だったのだろうが、しかし甦ったアルバフィカは意思を持たない人形だった。
最初のうちは、あの誇り高い魚座(ビスケス)の聖闘士を自由にできることを愉しんだ。見えない糸で自在に手足を動かし、操り人形のように望む動きを取らせる。きれいなを脚を開かせ、屈辱的なポーズを取らせて、自らを慰めさせ。
孤高の聖闘士であった魚座の身体に触れたものはおそらくいない。毒の薔薇を武器として扱う彼は、その身体に流れる血さえ猛毒なのだと言った。その特異な体質ゆえに、人を遠ざけ生きてきた彼は、自身の美しささえ疎んじていたのだろう。ミーノスが美しいと誉めそやすたびに綺麗な顔を強張らせ、静かなその怒りは蒼白い炎のようですらあった。
「素晴らしい傀儡でしたよ、君は」
魚座との戦いをミーノスは思い出す。
呪詛のように、ミーノスの名を繰り返し呼んだ声は睦言のように甘く、まだ戦えると言った声はどんな女の喘ぎ声よりもゾクゾクさせた。
全身を砕かれ、血と泥にまみれ、それでも怯むことなく対峙した彼の強い意志こそが美しかったのだと、そう感じた自分にミーノスは気付いていない。
魚座が黄金聖闘士と言えど、ミーノスには自分が上だという自負があった。たかが聖闘士ひとりに、軽口で見逃してやると揶揄するほど気押されていたのだと、冥界最強と謳われた三巨頭であるミーノスには認められないことだった。
「ほうら、突いてさしあげますよ。酷くされる方がいいのでしょう?」
「あ――」
ベッドに投げ出された白い腕がシーツを掴む。それにミーノスが嗤った。
見えない糸で相手を自在に操るコズミックマリオネーション。ミーノスが傀儡使いと呼ばれるゆえんだが、シーツを掴むようになどミーノスは操っていない。
まぎれもない魚座の意思。いや、意思とまではいかなくても、アルバフィカ自らが取った行動であるとは言えた。
「もっとも、いまのあなたは無意識なんでしょうけれど」
その無意識の行動すら、以前の魚座からは考えられないことだった。
「それだけ身体におしえこまれたということですか。アルバフィカ?」
「あ、あっ」
「腰が揺れてますよ?」
嘲笑を浴びせながら激しく腰を突き上げる。よく慣らさず入ったせいでミーノスのものがアルバフィカを傷付け、シーツが血で汚れた。
猛毒である彼の血は、毒の根源でもある薔薇と同じく甘いのだろう。
だが、いま、彼を孤高にし、孤独にした毒が彼を護ることはない。ハーデスの闇の力で効力を失い、僅かに残った毒も、薔薇から遠ざけられたことでほとんどが抜けた。
「まさにいまの君は貧弱な毒花一輪。いや、闇に染まる可憐な花といったところですか」
あの戦いの中で、魔宮薔薇(デモンローズ)の園を失った彼に放った揶揄を、ミーノスは再びアルバフィカに向けた。
冥闘士として甦ったいまも、アルバフィカの外見は変わっていない。ただ明るい髪は灰に染まり、深い海のようだった瞳は闇に煙っている。あの鮮やかな色は失われたが、その分妖艶さは増したといえた。
だが、もうあの目でミーノスを睨め付けることも、あの声で挑んでくることもない。
圧倒的に不利な状況でも、彼は戦いを諦めなかった。ミーノスの技を破るために自ら右腕を折り、全身を砕かれても立ち上がり、血と泥にまみれながら誇りを失わず。
誇り高い魚座の聖闘士。その彼を汚す悦びはミーノスを満足させたが、だが、あの戦い以上の高揚をもたらすことはなかった。
「イキたいですか、アルバフィカ」
うつろな目が、はじめてミーノスを映す。それに満足げに頷いて、ミーノスはアルバフィカの耳元に囁いた。
「そう。ならば、自ら腰を振ってご覧なさい」
「…………」
一瞬、アルバフィカの何かが揺れる。うつろな表情ではなく、絶望に似た諦めではなく、誇りを傷付けられた悲しみでもない、ゆらりとした炎に似た何か。だが、それはすぐに消え、人形のように途方に暮れた顔で見上げてくる。
「しょせんは、冥闘士に堕ちた身ということですか」
しかもその身まで汚されて。
アルバフィカの身の上を嘲笑いながら、自分の声に失望が混じっていることにミーノスは気付いていない。ミーノスを苛立たせた反抗的な目も挑発的な言葉も、いまとなっては懐かしんでいるのだと、そう思っていることにすら。
「正直、従順なあなたがこんなにもつまらないとは思わなかった」
そんなことを言いながら、ミーノスの指はひどくやさしい。ひどくやさしく、アルバフィカの白い頬を撫でる。
「残念ですよ、アルバフィカ」
頬から滑らせた指で唇を辿ると、誘うようにアルバフィカが唇を薄く開いた。それに嘲笑で歪めた自身のそれを重ねて、ミーノスは強くアルバフィカを突き上げる。
「――ッ」
毒を消され、冥闘士として甦った彼ではなく、あの戦いの中の彼であったなら、最高の傀儡になっただろうとミーノスは思う。
呪詛のように名前を呼ばれながら力で捻じ伏せ、手足の自由を奪ってアテナの聖闘士を犯す。美しいという言葉が彼の誇りを傷付けるなら、その美しさ故に陵辱されるのだと身体に思い知らせてやるのは、さぞ愉しい趣向だっただろう。
が。
「棘のない薔薇などつまらない」
摘まれるために棘を抜かれ、毒を消された花など。
それでも、一瞬見せた彼の中に潜む何かに、ミーノスは囚われている。毒薔薇の園を失い手足の自由を奪われても尚、怯むことなく戦いに挑んできたように、棘を抜かれ毒を消され冥闘士に堕とされても汚しきれない何かが彼の中にあるのだと。
「そのときこそ、完全に潰して差し上げます」
それがハーデスの意に叛くことを知りながら、ミーノスは薄く嗤った。
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