朝の水やりをしながら、アスランは空を見上げた。
高く青い空には一筋の飛行機雲。北へ向かう旅客機が、いまどきめずらしい大きな音を立てて、雲の隙間を飛んでいる。
プラントも月も、空と呼ばれるものはこれを模したのだと地球に来て実感したが、さすがに雲のバリエーションだけは追いつかなかったと見えて、空を見上げる度、アスランには新しい発見がある。
<アスラーン、ジカーン>
タイマーをセットしていたハロが呼びに来て、アスランは空から足元へと視線を移した。
「ありがとう、ハロ」
<オマエモナー>
ラベンダー色のハロが、言うだけ言うとコロコロ勝手にころがって家の中へと戻っていく。その後ろに続いたアスランは、さてと袖をたくし上げた。
キラが帰って来るまでに、しなければいけないことは山のようにある。
ハロに両手をつけるべきだったと思いながら、アスランは水やりの間に自動クリーナーがきれいにしてくれた床を満足げに見渡し、食器洗い乾燥機から皿やコップを取り出して棚へと片付ける。どうせ使うんだからとキラはこの行程を飛ばしてそのままにするが、アスランは苦にならない。
キッチンが済むと、アスランはベッドルームへと向かう。
掃除の間、二階でおとなしくしていたハロたちが集団でアスランとすれ違い、それを笑みで見送ったあと、ランドリーボックスを手に階段を上がった。
家事の重労働から女性が開放されたのは二十世紀からだと言われているが、メイドシステムと呼ばれる全自動化の基本は、二十一世紀にはほぼ出揃っている。
勝手に床やテーブルを掃除してくれるクリーナーや食器洗い乾燥機、自動洗濯乾燥機などなど。当時の女性からすれば画期的なそれらは、“メイドをひとり雇ったような”という謳い文句から、最初はMaid
of Allworks、もしくはハウスキーパーと呼ばれ、のちに総じてメイドシステムと呼ばれるようになった。
細かい仕事は結局人間がしなければならず、それならMaid of Allworks(雑役女中)やハウスキーパー(家政婦)ではなく、細かく作業を分類されたメイドたち、すなわちクリーナー=ハウスメイド、食器洗い乾燥機=キッチンメイド、自動洗濯乾燥機=ランドリーメイドだろうというところからだ。
C.E.と呼ばれるようになったいまも、そうしたシステムに大きな違いはない。幾つもの改善と改良は見られたものの、食器を乾燥機に入れる、衣服を洗濯機に入れるといった細かな選別や作業は人間の仕事であり、日々進んでいく機械化への抵抗から揺り返しが起こったこともあって、家事には人の手が不可欠だった。
そのひとつであるベッドメイクに、アスランはいまだ慣れずにいる。
作業ではなく、その過程において。
ふたりで借りた小さな家にはそれぞれの個室もあるが、キラのたっての希望(我がままともいう)で、ベッドルームは共有となった。つまり同じ部屋にベッドが、デンとふたつ並んだ状態だ。キラはWベッドを置きたがったが、さすがにこれだけは譲れず、アスランががんばった結果、シングルが二つとなったのだ。
しかしである。
「はぁ」
小さく落ちた溜め息は、昨夜の記憶とともに羞恥を呼び、アスランは、カァーッと耳が熱くなるのがわかった。
「だめだ、俺……」
汚れたシーツを洗濯機に入れる。ただこれだけの作業が、どうしてもアスランは慣れない。昨夜のことを思い出してしまうからだ。
いっぱい声をあげて、いっぱい泣いて、いっぱいねだった。こんなときだけ意地悪になる幼なじみは、泣いて頼んでも許してくれず、いつもアスランは自己嫌悪に陥る。なまじ優秀なコーディネイターだけに、記憶だけは鮮明で。突き付けられた状況証拠とともに、いたたまれない気持ちになった。
それでも意を決して、自分が汚したシーツをもぎ取り、ランドリーボックスに突っ込んだ。
MSを駆るときみたいに気持ちを切り換え、テキパキと新しいシーツをメイクしていく。
もう片方の一応自分用となっているベッドの方は、コトが済んでから、ふたりで抱き合って眠ったもので、左側に残る大きなバスタオルに、これまたアスランははずかしくなった。
昨夜シャワーを浴びたあと、キラが自分を包んでくれたものだ。
大切なプレゼントみたいにバスタオルにくるまれ、こわれもののように扱われて、何だかくすぐったいような気持ちになった。それをうれしいと感じる自分がはずかしくて、アスランは項まで赤くなる。
一緒に暮らしはじめて三ヵ月が経とうというのに、いったいいつになったら慣れるのだろう。戦場でも何度か抱き合ったけれど、極限状態だったあのときには感じなかったさまざまなことが、いまはどうしようもなくはずかしい。
<アスラン、ジカン、ジカン>
足もとで跳びはねるアクアブルーのハロに、アスランは我に返った。再びのタイマーはキラが帰宅する一時間前にセットしてある。
「あ、ごめん」
キラはお昼には帰ってくる。ポテト・パンケーキかスタッフドポテトが食べたいというキラのリクエストに、応えなければいけない。ぐずぐずしている暇はなかった。
「ハロ?」
アスランが慌ててシーツをバスタオルごと引っ張っていると、ハロが耳をパタパタしながら、キラのベッドの下へところがっていく。
部屋中好き勝手に徘徊しているハロではあるが、クリーナーを掛ける時間には移動すようにしてあって、すぐに下へと降りていくはずなのだ。
不審に思って覗き込むと、アクアブルーとは別に、もう一体、ハロがベッドの下に鎮座していた。
「おいで」
アスランが呼ぶとアクアブルーの方は飛んで来たが、もうひとつは目をチカチカと光らせ、耳をパタパタするばかりで、こちらへ来る気配がない。
故障だろうか。
アスランが呼ぶと一応反応はしたから電気系統の故障ではなさそうだが、言語を理解しないのならOSの方のトラブルかもしれない。それとも重心移動だろうか。
跪き、ベッドの下に手を伸ばして、アスランはハロを取った。
暗くてよくわからなかったハロは桜色で、あまり馴染みのないその色の記憶を探る。
アスランはハロのカバーを外し、メンテナンス用のパスワードを入力した。
どうもロックが掛かっていたらしい。ロックを掛けた記憶もなければ、キラがロックをしなければならない理由も思い当たらず、入力ミスか何かだろうとアスランは深く考えずに解除した。途端にハロの耳がパタパタと上下運動を繰り返す。
<ハロ、ハロ、テヤンデー>
それに笑みを浮かべたアスランの手のひらで、ハロは目のライトを点滅させた。
ライトの色は赤。
そう言えば伝言用のハロだったと思い至り、赤いライトはメッセージが録音されていることだったと思い出す。
キラからの伝言だろうか。
一緒に暮らしはじめてから離れることがほとんどない分、使ってなかった機能だ。
ロックを外されたハロはアスランの声に反応し、再び耳を上下する。
<ハロ、ハロ、サイセイ――>
いったいどんな伝言だろうと、気恥しく思い、苦笑を浮かべかけたアスランの口許が次の瞬間凍り付いた。
音は最初、微かな雑音が聴こえるのみで、コーディネイターの耳をもってしてもよく聞き取れなかった。
アスランはハロに耳を近付けた。
『…………っ』
「――?」
が――
『……あ、んんっ』
ハロから聞こえるのは、くぐもって掠れた甘い声。
『や、そこいやだ、や……っ』
『こんなにトロトロになってるのに?』
「――!」
『そこ……』
『なに、アスラン? ちゃんと言ってくれなきゃわからないよ?』
『そこ、じゃな……や。きら、ゆびいやだ……』
『指がいやなら何がいいの、アスラン?』
『あ――』
『ちゃんと言わなきゃあげないよ?』
『きら……きらの……』
『僕の何?』
「――!!!」
そのとき、階下にキラの声が響き渡った。
「ただいまー」
当然のことながら、向こう三日間、キラはお昼を作ってもらうどころか、アスランに口すら聞いて貰えなかったという。
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