自分にと与えられた部屋に戻ったアスランは、閉まると同時にドアに背中を預けた。
左手を襟元にやり、右手で口を抑える。軍服は乱れ、髪も納まっていない。誰かに見られたら言い訳できない状態だ。倒れそうだとアスランは思った。
強引に入り込んで来たキラの舌の感触が、いまも生々しく口の中に残っている。
――キラとやってしまった。
いまになって、自分がとんでもないことをしでかしたのではないかという気がしてくる。
足に力が入らない。そのままズルズルとへたり込み、床に尻もちをついた途端に疼痛が走って、いたたまれない気持ちになった。
どうしよう。
自分の身体に残るさまざまな跡が、これが夢ではないことを告げている。
どうしよう……。
奥に残るぬるりとした感覚に、混乱した頭が泣きそうだった。
だって、明らかにキラは誰かと間違えていたのだから。
ラクスからキラが眠ったとおしえられたのは、あれから――キラが倒れてから、しばらくしてからだ。
眠られましたわとラクスが言い、そうですかとアスランは答えた。
キラの部屋は隣だ。ちょうど左右対称になっているから、アスランのベッドとキラのベッドは壁を挟んで隣接する形になっている。とは言っても防音は完璧だから、隣からは何も聞こえない。――はずだった。
ベッドに横になり、眠っていたアスランは、ふとキラの声が聞こえたような気がして目を覚ました。
もともと眠りは浅い。
正規軍ではないが、一応戦艦内だからとアスランは軍服を着て、隣に向かった。
「キラ?」
ドアの外から呼んでもいらえはなく、初期パスワードでロックを外した。
ベッドの中でキラがうなされている。
何があったかはわからない。ただ戻ってきた時から様子がおかしかった。
ザフトとの接触で何かあったのだろうか。同行したフラガはその時に負傷している。ディアッカに聞いても、彼はキラとはすぐに別れたという話だった。
「キラ」
うなされるキラの名を呼んで、アスランはその手を握った。せめて側にいてやりたいと思う。うまい言葉ひとつ掛けてやれなくても。
「ごめん……」
「キラ?」
「ごめん、ごめんっ……」
「痛……」
握った手を痛いほど握り返され、アスランは顔を顰めた。
謝っているのはあの女の子に対してだろうか。ポッドの中にいた、フレイという名の。キラは自分が傷付けたから、守ってやらなければならないと言った。
「…………っ」
少しだけ胸が痛い。自分の知らないところでキラが恋をして大人になってしまったことを、少しだけ淋しいと感じてしまう。
四歳から十三歳までの九年間と、十三から十六までの三年間では、どちらがより重いのだろう。
キラにとって。
自分の中では、もう答えが出ている。
「あ……」
キラが目を開けて、アスランは、ほっと息をついた。
こんなとき、起こした方がいいのか,、起こさない方がいいのかよくわからなくて、途方に暮れていたのだ。
「……キラ?」
けれどもキラの目は焦点が合っていず、意識はまだはっきりとしていないように見える。
のろのろとアスランの方へ向けたキラの顔が、大きく歪んだ。
「――ごめん」
「キラ?」
「ごめん、ごめ……」
ただ謝って泣くだけのキラを、アスランは少し迷ってから抱きしめた。
「大丈夫だ」
「あ……」
「彼女もわかってくれるさ」
カガリの話では、彼女とはもう終わっているはずだということだった。元々は友人の恋人だったらしいとか、三角関係だとか、何だかアスランにはよくわからない話が展開していたように思う。ただ、キラが彼女を傷付けたと言っているなら、そうなのだろうとアスランは結論付けた。事実はどうあれ、アスランにとって、キラがどう思っているかが、いつだっていちばん重要なことだったから。
キラを落ち着かせるように、アスランは背中をぽんぽんと叩いてやった。
「大丈夫だ、キラ」
昔、母がよくこうしてくれた。
「彼女は救助された。無事だよ」
記憶の中の、やさしかった母の仕種を思い出しながら、正確になぞらえる。
ぽんぽん、ぽんぽん。
たぶん、心音と同じリズム。人がいちばん心地いいと感じる速度。
「いまは眠った方がいい。ついててやるから」
言ってベッドにキラを横たえる。毛布を掛けてやると、キラが強くアスランの手を掴んだ。
「……怖いんだ」
キラがアスランを縋るように見た。
「僕は本当は……」
それに、アスランは安心させるように笑んだ。
「先が見えないんだ。誰だって怖いさ」
「違う!」
キラが大きくかぶりを振った。
「違う、違う、違う! 違うんだ、僕は……」
キラの目に涙が盛りあがり、嗚咽に言葉が途切れる。
「どうした?」
昔からキラには少し情緒の不安定なところがあった。
よく言えば感受性が豊かで表情がよく変わり、自分よりよほど子どもらしい子どもと言えた。
ナチュラルの戦艦で、ひとりパイロットとして戦ってたときの様子も、カガリやラクスから聞いている。孤独であったろうそのときに、ついててやれなかったことに胸が痛みもしたが、それにしてもこの状態はどうしたことだろう。
それでも、何があったとはアスランには聞けなかった。
「……けて……」
「きら?」
「怖いんだ。こわい。僕はどうしたら……!」
「大丈夫だ。俺がいる。お前はひとりじゃない。そうだろう?」
キラが顔を上げる。
「守ってやるから」
キーワード。それがキラの琴線に触れたことに、アスランは気付かなかった。
「あ――」
キラの目が、アスランに向けられる。
「キ、キラっ!?」
思いの外強い力でしがみついてきたキラに押し倒されて、アスランは慌てた。
胸に顔を埋められ、手が乱暴に裾を割り込んでくる。誰かと間違われているのは明らかだった。
「やめろ、キラ!」
アスランは必死で制止の言葉を発するが、混乱したキラの耳には届かない。
「キラッ!」
「ごめん。ごめん、ごめ……」
傷を――
「キラ……」
傷を舐め合うような関係だったと、そう聞いた。
ポッドの中の彼女とキラの関係は。だからうまくいかなかったと。
それならキラは、彼女の温もりに救いと慰めを求めたのだろうか。彼女に慰めて貰って。
そういう関係もあるのだと、おぼろげながらアスランも知ってはいる。アスランには理解できないけれど、そうやって互いを支えなければ歩けない人間もいるのだと。
助けを求めてしがみついてきたキラに、名前を呼ばれたような気がして、アスランは肩の力を抜いた。
最後まで、アスランはキラの手を振り払うことができなかった。突き放すことも。できたはずなのに、しなかった。
自分の発した甘ったるい声と、容赦なくあばかれ、開かれた身体に、自己嫌悪だけが記憶に残る。
「キラ、慣れてた……」
唇も指もキスも愛撫も、キラから与えられたのは、苦痛ではないもうひとつの感覚。何度も声をあげて、やめてほしいと泣いたけれど、それは未知の感覚に追い詰められるのが怖かったからだ。
自分はたぶん。
アスランは思う。
キラが好きなのだろう。
こういう関係を望んでいたのかどうかは、いまとなってはわからない。けれども、友だちではないと気付いてしまった。
抱きしめられてうれしかったとは思わない。思わないが、厭でもなかった。ただ、こうしてキラの下にいる自分が、キラの求める少女ではないことを悲しいと思った。キラの望みは何でも叶えてやりたかったから。
それでもようやく眠りについたキラに、ほっとしてアスランは部屋を離れた。
あとは忘れるだけだ。
キラは夢だと思っている。それなら自分も夢を見たと思えばいい。
キラの触れた唇を、アスランは指でなぞった。じんじんする。
「あ……」
そして気付く。
「キラの部屋に靴下忘れた……」
履いているのは片っぽだけだ。
翌日、夢か現かおぼろげだったキラは、アスランの忘れ物で現実だと知った。
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