民俗学に興味があるイザークの部屋には、大きな本棚と昔ながらの本が大量にある。休みの日には、紅茶を煎れて本を開くのが日課で、それはイザークの、もっともお気に入りの休日の過ごし方だった。
地球に下りれば古書店めぐりをすることもあるが、別に古書に拘っているわけではない。復刻版もかなりの割合を占めている。簡単に情報が取り出せるデータベースも便利でいいが、紙の匂いも悪くない。
今日はイザークにとって久しぶりの休日だった。順調に出世している自分自身の優秀さを自負しているが、それに比例して時間が取れなくなっている。本を読むのも久しぶりで、今日は一日部屋に篭って、買ったまま積み上げていた古書を読むと決めていた。
椅子ではなく床にそのまま腰を下ろし、壁に凭れて本を開く。煎れたばかりの紅茶も床の上で、カップの横には母が送ってくれたクッキーなんかも置いてある。
優雅な休日。窓から入る風は、どのプラントもそうであるようにいつもやさしい。厳しい自然に曝される地球と違って、プラントには不快な、例えば本を傷めるような強い風も急な雨も存在しない。――が、悲しいかな、不快なものがまったく存在しないわけではないのだ。
手にしていた本が揺れる。
揺れるというより波打つと言った方が正しい動きは一定のリズムで、イザークの邪魔をする。視線が定まらないイザークは苛々と眉間に皺を寄せ、ピクピクと頬を引き攣らせた。
「……貴様、何をしている」
波打つように動く本を意地でも離さず、イザークが低い声で唸る。
「退屈しているなら退屈していると、そう言え、アスラン!」
本を視界から下げると、イザークは自分の膝へと視線を落とした。片膝を立てて座るイザークの、もう片方の足は曲げて胡坐を組む形になっている。その脚の上に、つまらなそうな顔をしたアスランの顔があった。
「あ。」
イザークの脚を枕にして寝転んでいたアスランは、本をつんつん突付いていた指の形そのままに、イザークを見上げた。
「本を読んでいればよかったのに」
「貴様が邪魔したんだろうが!」
急に訪ねて来たと思ったらこれだ。
朝早くから無表情にやって来たアスランは、特に何をするでもなく、イザークの部屋の隅に腰を下ろした。
ふたりはたぶん、恋人同士という関係なのだろうとは思う。アスランの口から甘い言葉など一度も聞いたことはないが、それでも時々こうしてやって来ては、勝手にくつろいで帰っていく。イザークもイザークでアスランを招き入れてやりはするが、気を遣うこともない。
ある日、どうして来るのかとアスランに聞いたことがあった。
アスランは、いまもオーブにいる。プラントには偽名のままやって来るが、手続き上問題がなくても(何しろアスランはプラントとオーブ、両方の最高権力者と顔なじみだ)距離と時間の問題がある。
イザークが聞くと、いつも乏しい表情をさらに乏しくしてアスランが答えた。
「はじめて来たあのときは」
「何年前の話だ」
「マイクロユニットの部品を切らして」
「何の話をしている」
「何もすることがなかった
「どういう意味だ、それは」
アスランは、一瞬考えたようだった。
「暇だから?」
「きっさま〜ッ」
胸元を掴んで怒鳴ると、表情も変えずにアスランが見上げてくる。
緑の瞳。その目の中に、怒る自分の顔が映っている。その姿を映し込んだまま、平然とアスランが言った。
「暇になったらお前の顔を思い出した。それだけだ」
それが告白に近いセリフだと気付いているのかどうか。
以来アスランは、年に一度か二度、こうしてふらりとやってくる。その間、連絡を取り合うこともない。当然アスランがやってくるのも、イザークが休日の日だけとは限らなかったが、彼が気にした様子はなかった。
おそらく、とイザークは思う。部屋にイザークがいないときには、待つこともなくアスランは帰って行くのだろう。彼に確かめたわけではないが、イザークはそう確信している。そしてそれを、アスランが気にすることも、おそらくない。
イザークは自分を枕にしている男を見下ろした。
血統書つきの猫みたいに毛並みのいい男の顔には、「つまらない」と書いてある。イザークは息をついた。
「退屈しているなら退屈していると言え」
触られると逃げるくせに、他に関心を持つと邪魔しに来る猫そっくりだ。ふらりとやって来て、勝手にくつろいで行くところも猫に似ている。
緑の目がイザークを見上げてくる。表情のない顔が少し動いた。
「退屈してない」
「してるだろうが」
イザークが腰を下ろして本を手に取ると、なぜかアスランが寄ってきた。「何だ?」と聞いても返事もせずに、いきなりイザークの足を枕にして寝転び、積んである本を手探りで一冊取った。いつの間に持ってきたのか、イザークが入れてやった紅茶も傍らに置いていたから、てっきりアスランも本を読むものだと思っていたのだ。
イザークの愛する民俗学は、アスランの興味を引かなかったらしい。すぐに退屈しはじめたアスランは、目の前にあるイザークの本をつんつん突付いて邪魔をはじめた。
「本なんて非合理的なだけだろう」
重いし、古いし、埃だらけだ、とぶつぶつ続ける。
今度は文句か。
イザークは苦笑した。本という形態についてアスランが本気でそう思っているわけではなく、単に図星を差されたことに対する負け惜しみだと知っているからだ。
もっと素直になればいいものを。
自分のことを棚に上げて、イザークはそう思う。 「ふん」
鼻で笑われたことが気に障ったのか、アスランがむくりと起き上がった。いままでの、つまらなそうな顔に反して、いきなり目尻と口許が同時に上がる。
まったく。
いたずらを企む子どものような顔でアスランは、四つん這いになってイザークの顔を覗き込んだ。
「なあ、イザーク」
「何だ」
なるべく目を合わせないようにするが、もう遅い。
「しよう」
また随分ストレートに来たものだ。
いつも何となく寝ているが、こうしてアスランから誘ってくることはめずらしい。いつも好き勝手されている腹いせに無視を決め込むと、再びつまらなそうな顔でアスランがすぐに引く。
「わかった。ひとりでする」
「――おいっ」
これには、さすがにイザークも焦った。アスランが顔を向ける。
「お前は本を読んでいればいいだろう。俺は俺で勝手にやるさ」
「オレの部屋だぞ」
「安心しろ。お前は使わないから」
どこでそんなセリフを覚えてきたのやら。と言うか、誰を使うつもりだ。
「貴様は……」
イザークが呆れて言葉を失っていると、ニッとアスランが笑った。
「もう一度言う。――してほしい」
そんなことを言われて、降参しない男はいない。
まったく、とイザークは思う。まったく、どこで覚えてきたのか、さっきまでの無関心は演技だったのではないかとすら思ってしまう。気まぐれな猫どころか、これではまるで性悪女そのものだ。
――が、イザークだって負けっぱなしというわけにはいかない。アスランの手首を掴み、今度はニヤリとイザークが笑った。
「オレの趣味を邪魔したからには責任は取って貰う」
「それは困ったな」
ここで、ほんとうに困るのが、アスランがアスランたるゆえんだ。
「やっぱり本を読んでいいぞと言ってもだめか?」
「戦況を見ろ。手遅れだ」
「援軍は望めそうにないな」
「当たり前だ」
そう言って組み伏せると、床に蒼い髪が散らばった。緑の目を細めたアスランが、背中が痛いと文句を言ったが、イザークは無視して白い喉に噛み付いた。
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