それは二年に一度、行われるアンケートだった。
「キスの経験はあるか、またそれはいつか。性交渉の経験はあるか、またそれはいつか――ですか」
ニコルがノートに呼び出したアンケートを読み上げる。
二年に一度、無作為に実施されるリポートと言う名のアンケートは、戦時下においても健在だったらしい。
ニコルはパイロットルームで、ぼーっと宇宙(そら)を見ているアスランに向かって聞いた。
「アスランもこのアンケートに答えたこと、あります?」
「――え?」
「アンケートですよ。ファーストキスとか性体験の」
おとなしい顔をしてサラリと言う。
同じ室内にいたイザークとディアッカは、驚いたようにニコルを見た。
この手の話に興味津々なお年頃ではあるが、それをここまで堂々と人に、ましてアスランに聞けるツワモノもそうはいないだろう。
しかも人前で。
アスラン・ザラ。国防委員長の子息にして、いずれ最高評議会議長の婿になろうという筋金入りの箱入り、もといエリート中のエリート。親の地位は実力主義のプラントにおいて、そのまま優秀な遺伝子を持つことを意味するが、編入後、僅か数ヶ月でエースパイロットに昇りつめた彼は、自らそれを証明したとも言えるだろう。
「――あるよ」
アスランは穏やかな笑みを返した。
その場にいた全員が、一瞬、アスランの顔に釘付けになる。
重力のせいだろうか。
月育ちは線が細く、繊細でやさしい貌立ちが多いという。
遺伝子操作をして生まれたコーディネーターは総じて美形が多いが、アスランを取り巻くのはそうしたやわらかい空気みたいなものだ。硬質で少女めいた貌立ちをしているが、ニコルのような甘さも、イザーク程のきつさもない。
だいたいアスランが編入してきた時は大騒ぎだった。
血のバレンタインから志願兵は後を立たないが、パイロットコースに編入されるなど異例のことだ。まして数ヶ月でエースに昇りつめるなど。
が――もちろんそれだけではなかった。
海軍士官学校はプラントでも一、二を争うエリート校だが、同時に男ばかりの学校でもあった。
能力が拡大されるコーディネーターにおいては適性が最も重要とされ、性別の差はすなわち適性の差であり、それ以上でもそれ以下でもない。男女の比率が片寄るのも仕方がないと言えたが、何しろやわらかさと華やかさに欠けた。
そこに現れたのがアスランだ。イザークは美人だが性格がきつくておっかなく、ニコルはかわいいが子ども過ぎる。アイドルの婚約者なんだから夫婦揃ってアイドルにしてしまえ――とかなんとか。もはや伝説とも言える優秀さも合間って、アスランはザフト海軍士官学校の花となった。なってしまった。
ちなみに海軍と言ってもプラントに本物の海はないから、これは宇宙軍のことを指し、地球上、すなわち大気圏内での任務を主とするものを(これには本物の海戦も含まれる)ザフトでは便宜上、地上軍、或いは陸軍と呼ぶ。
さて、そうした経緯を含めてアイドルとなったアスランは、海軍学校内では不可侵な存在だった。実際には抜け駆けが横行していたとはいうものの。
ニコルはにっこりと微笑んだ。
「へーえ、なんて答えたんですか?」
ニコルおそるべし。
誰もが知りたくて聞きえなかったことを、こうも簡単に口にするとは。しかもちゃっかりメモまで手にしている。
しかしイザークとディアッカは、対するアスランの言葉にさらに驚愕することとなった。
「えーと、どっちのことかな」
えーと?
どっちのことかな?
答えるつもりなのか、アスラン?
真面目すぎるぞ、アスラン?
って言うか、その気安い口調はなんなんだ、アスラン……?
別に答える必要はないんだぞと、わざわざおしえてやるほど、親しくもなければ親切心に溢れてもいないディアッカとイザークである。アスランのプライベート(含・婚約者)に興味があったことも手伝って、二人は沈黙を決め込んだ。
「どっちもって言ったら怒ります? まずファーストキスはいつでした?」
「え?」
「ファーストキスですよ、アスラン」
やじ馬よろしく傍観者を決め込んだディアッカとイザークは、しかしその一瞬後、揃って顎を落としそうになった。
単刀直入にして、強行かつ強攻かつ強硬なニコルの質問にではない。いや、それにも驚いたが、へたに遠回りな言い方をすれば鈍いアスランには通じない恐れがあるから、ニコルは正解だ。二人が顎を落としそうになったのは、アスランに対してだった。
二人の視線は、もの凄い勢いで自軍のエースパイロットに集中する。
「あ……」
少し俯き、視線を落とす、きれいな横顔。形のいい額に掛かる濃紺の髪。濃い影を落とす同じ色の長い睫。鶺鴒(せきれい)の羽の色だと、詩人気取りの男は言った。
アスランは。
どこか懐かしむように愛しむように、やさしげな視線を床へと落とし、躊躇いがちに指でそっと自分の唇の先に触れた。人形めいて硬質な彼の貌にあって、唯一やわらかなラインを描く、淡い色のそれ。甘そうだと言ったのは誰だったか……。
っていうか、誰を思い出している!アスラン・ザラ!
っていうか、誘ってんのか!アスラン・ザラ!
うっすらと開いたピンクの唇。それをなぞる白い指先。焦点が定まらない碧の眸は、どこを見ているかわからない。
あ…、とか、うん…、とか。
そこだけふっくらとした唇から吐息みたいに掠れた声が洩れ、折り曲げた人差し指の間接を唇で軽く噛む。落ちた髪から覗く首筋は白く細く、折れてしまいそうに頼りない。
ヤバイってそれ……。
一般にコーディネーターは性的に淡白だと言われているが、皆無というわけでは〈もちろん〉ない。ましてここは男ばかりの戦艦だ。こんなものを放置しとけば、どういうことになるか。犯す!と具体的な言葉が出てこなかったのは、彼らの忍耐強度のせいではなく、チームワークの方に問題があったに他ならない。
「1じゃなかったのか……」
「趣味の悪い冗談だな」
混乱するあまり検討違いな暴言を吐くディアッカに、イザークが的確かつ最もな悪態をついた。これはこれで気の合う二人ではあったが、それはさておき。
1があれば2があり3もある。
彼は、アスランは、賭けの――そう、彼と婚約者、歌姫にして最高評議会議長の愛娘であるラクス・クライン嬢の交際は、プラント内において不謹慎にも賭けの対象であった。
「1清い」「2チューまで」「3いたしている」の三択。
全プラント内においては2と3が圧倒的な数を占めるが、アスランを知るものはまず1、次いで2を選ぶという対照的な結果だった。しかもおそらく、いや間違いなく前者と後者では、2のランクにたいへんな隔たりがあると推測される。
アスランだからな。
誰もがそう言えば納得した。すべての記録を塗り替えた士官学校時代、上級生同級生下級生教官問わず口説かれまくったアスラン・ザラは、しかし口説かれたことにすら気付かない、たいへんうかつな神経の持ち主でもあった。
紳士だから婚約者に手を出さないのではない。ぼんやりしているから気が付かないのだ。
その彼が初体験は?と聞かれて考え込んでいる。
ということは、だ。いたしたことがあるということだ。
あのアスランが。
二人は顔を見合わせた。
アスランの整った横顔は、変わらずもの想いに沈んでいるように見える。
落とした視線の先にあるのは誰の顔なのだろうか。いつもは穏やかな彼の眉が曇り、透明な眸が蔭って見える。アスランにあんな顔をさせる存在が想像できない。
「……ラクス嬢でないことは確かだな」
視線をアスランに向けたまま、ぼそりとイザークが呟いた。
「なんでそう思う?」
聞いたのはディアッカだ。
「そんなもの決まっている。カンだ」
何がそんなもので、何が決まっているのかは定かでなかったが、大威張りでイザークが即答した。
おもしろくないディアッカは、フンと鼻の先で笑う。
「カンも何も、アスランがアンケートに答えたのって少なくとも二年前ってことだろ? ってことは、ラクスと婚約前じゃねえか」
ごもっとも、である。アスランはアンケートになんと答えたかと聞かれて、それに想いを馳せている。ということはだ。十四か、それ以前の経験談ということだ。
ディアッカの言葉を受けて、イザークがふふん、と笑い返した。
「十四なら、いくらアスランでもキスくらい済ませているだろう。まあ、俺は十歳のときだったが」
「フーン、俺は八つの時だ」
「……実は七歳だ」
「じゃあ、俺は五つだな」
「誰もお前の体験談など聞いていないが?ディアッカ」
「先にはじめたのはそっちだろ」
「――静かにしてくださいませんか、二人とも」
ニコルが制するが、アスランの方はそんなやり取りも耳に入ってなかったらしい。
唇から小さな溜め息が零れた。笑む。
「あ…と、ごめん。どっちだっけ?」
ニコルがアスランの指を自分の手に握り込み、噛んではいけませんよ、とやさしく諭した。
「指の形が悪くなりますからね」
そして笑う。
「どっちもですよ、アスラン」
ああ、とアスランが晴れやかに微笑み返した。
理不尽なことを聞かれているという自覚がまるでないらしい、聖女のごとき清らかな笑顔だ。ついでに女の子扱いされているという事実にも気付いていない。しかも人前だという認識すら薄い。
ここに至るまでの経緯と、今現在の状況を思いやったイザークは、心の底から嘆息した。
「……ディアッカ」
「……なんだ」
「……俺は何でコイツに負けたんだ?」
「……知るか」
アスランが第二声を発するまでの数分間、ひたすら待っていたニコルの辛抱強さもかなりなものだが、真意はどうあれ、真摯な質問には誠意をもって答えなければと思い込んでいるらしいアスランの、このどうしようもないくらい糞真面目に哀しい性もどうにかしてやってくれ――と二人は願わずにはいられない。
何かを思い出すように、ようやくアスランが口を開いた。
「何か赤ちゃんの時に終わってそうな気もするけど」
アスランが今更のようにコメントしているのは、ファーストキスうんぬんについてのことだ。たぶん。
「まあ、そうでしょうね。アスランが赤ちゃんのときってかわいかっただろうなあ。でも、こういうのって性的なことを指してるんだと僕は思いますけど」
だって、そんな母親とのキスなんて、アンケートを取っても意味ないでしょう?
ニコルは幼年科の先生よろしく、ひとつひとつ丁寧に解説していくが、ヤツは以前にもこのアンケートに答えたことがあるんだぞ!とイザークは心の中で糾弾する。
って言うか、ほんとにコイツは、我がザフトが誇るエースパイロットなのか?ただのあほうじゃないかっ!
そんなイザークの心の葛藤など知らないアスランは、ああ、としごく普通に納得したようだった。
「前は覚えてないって書いちゃったな。悪いことしたかな……」
アンケートだから!何万人から取って統計出すだけだから!悪いとかそういうんじゃないから!
もはや泣きたい気持ちになって地団駄を踏むイザークをよそに、アスランはぽつりと爆弾発言を口にした。
「……ちゃんとしたヤツは十三のときかな」
「ちゃんとしたやつ、ですか?」
「うん。舌を入れるような、ちゃんとしたやつは十三のときに、ちゃんとしたのをしようって言われてしたから。……ちがうのか?」
マジマジとした周りの視線に、アスランは突然不安にかられたようだった。戸惑ったように顔を上げ、救いを求めるように周囲を見渡す。頼りなくも、どこか幼く見える眸は小動物の様で、さらに言うなら男がもっとも弱いとされる上目遣いだ。
ぷち。
イザークの中の、何かが切れた。
「うわ! やめろ、イザーク。落ち着け!」
「放せ、ディアッカ! コイツを一発殴ってやらんと俺の気がおさまらんッ」
「気持ちはわかるが落ち着け!」
ギャーギャーワーワー。
「静かにしていただけませんか、二人とも」
二度目ですよとニコルが言い、顔に似合わない舌打ちをする。しかしアスランに対しては、あくまでやさしいニコルであった。
「あれは気にしなくていいですからね。ただの外野です」
そして、聞く。
「十三ってことは月で?」
一言かよっ
ニコルおそるべし。この騒ぎを外野の一言で片付けるとは。
そんなニコルの言葉を受けて、取っ組み合う二人を見遣ったアスランは、一瞬、目を丸くし。それから眩しそうに目細めて破顔した。
「仲がいいんだな」
……どこかうらやましそうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
早送りにした引き潮のように、目に見えない何かが引いて室内を静寂が満たす。
戦況と情勢の把握は冷静にして的確なのに、個人レベルになるとどうしてこうも鈍いのか。他意がまるで感じられないのも怖しい。
いや、確かに間違ってはいない。ある意味、的確に指摘しているとも言える。言えはするが、それを口にしていい時期とか状況とか相手とかタイミングとか、つまりそういうものが世間には確かに存在するのだ。
そうした真冬の釧路湿原(どこだ、それは。アラスカにしとけ)のように、真っ白に凍り付いた辺りの空気に気付いていないのは、その場で、やはり自身も真っ白なアスランだけだった。そしてニコルはといえば、気付いていても気に止めない、たいへんマイペースな神経の持ち主であった。
「ああ、こういうのを古い言葉で、痴話喧嘩って言うらしいですよ」
「へえ」
素直に感心するアスランに、再びイザークの血管がピクリと反応する。
「犬も食わないって言うそうですからね。放っておきましょう」
「犬もくわない?」
「ええ、そう言うそうですよ。どういう意味なんでしょうね」
ニコルとアスランの会話は、何事もなかったように、もはや遠いところで続いていく。
ピクピクと小刻みに震えはじめたイザークを必死で押さえ込みながらディアッカは。
――それを言うなら夫婦喧嘩だ。
心の中でツッコんだ。
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