「おじいさん、そんなところにいると、風邪をひきますよ」

将晴の背中にかけられた声は、二人の間を遮るガラス戸の存在もあって、くぐもって聞こえた。

「ん……ああ」

雨が降りしきる庭に目を向ける将晴の声が、加奈に聞こえたかどうかは定かではない。

加奈の気配が遠ざかる。台所にでも戻ったのだろう。

「ふぅ……」

背中を曲げて縁側に腰掛ける将晴の背中には、確かな老いがのしかかっている。

将晴が歳をとったという事実は、誰よりも将晴自身がわかっていた。

冬の雨に晒されている、昔と変わらぬ庭を見ていると、将晴はどうしても時の流れを意識せずにはいられなかった。



あの日も、同じように冷たい雨が降っていた。

静かに、しかし着実に地面を濡らしていったあの雨を、将晴は今も思い出すことができる。



「む……」

将棋盤越しに苦い声を漏らしたのは、当時友達だった由夫だった。

由夫は毎日将晴の家に来ては一緒に遊んでいた、将晴の親友だ。

「待ったは無しだぞ?」

にやりと笑みを浮かべつつ由夫に目を向ける将晴。

「おめーはホントに強いなぁ」

息を吐きながら縁側の冷たい廊下に背を投げ出す由夫。

両手で顔を覆うこの格好では、由夫の表情は読み取れない。

一見降参したように見えるかも知れないが、これは、いつもの由夫が熟考する体勢だった。

こうなった由夫は、なかなか起きあがらない。

二人の将棋に時間制限はないので、最高の一手を思いつくまでずっとこうして考え続けるのだ。

「んじゃ、ちょっと小便……」

「おう」

冷えた尻を持ち上げて、将晴は厠に向かった。



そして、それから将晴が戻るまでのわずかな時間に、取り返しのつかない事件が起こってしまったのだ。



小便を済ませた将晴は、微かな物音を耳にした。

今日は母親は出かけているし、父親はまだ仕事で、誰もいない。

由夫は将棋盤の前で大の字になっているはずだし、物音の存在は将晴を緊張させた。

将晴は足を忍ばせて、物音のする居間へ向かう。

一歩進むごとに人の気配は近づき、将晴が障子に耳を付けると、人の呼吸まで聞こえてきた。

―泥棒か?―

将晴の心臓は早鐘をうち、緊張に喉が干上がる。

それでも将晴は、留守を預かる者として、居間に上がった人物を確認せずには居られなかった。

「うわぁぁぁぁあ!!」

恐怖を閉じこめ、障子を力任せに開けて、人影めがけて体当たりする。

人影は想像していたよりも軽く、反対側の壁まで吹っ飛んだ。

そのあっけなさに、強く瞑っていた将晴の目が開けられる。

「いってぇ……」

聞き慣れた声、見慣れた顔に、将晴は咄嗟にわけがわからなくなる。

そこで頭を抑えていたのは、縁側で寝転がっているとばかり思っていた由夫だった。

信じて疑わなかった親友の手に、タンスに仕舞われた大切な封筒が―大金が、つかまれていた。

将晴は考えるよりも先にその封筒を由夫の手から奪い取った。

それ以上、何も考えが浮かばない将晴は、呆然と由夫を見下ろしていた。

由夫は、しばらく将晴を見つめ返していたが、やがて無言で立ち去っていった。



それ以来、将晴は由夫と話すことはなかった。

実際には、何も盗られなかったわけだったし、復縁しようと思えばいくらでも出来た。

しかし、頑なな将晴には、由夫に歩み寄ることは出来なかった。

そしてもう、六十年以上が経った。

冷たい雨が、庭を打つ。

「……よし……」

将晴は重々しく立ち上がり、ガラス戸を引いた。

もう何年も着こんだジャンパーに腕を通し、ジッパーを上げる。

「どこへ行くんですか?」

靴を履いて傘を手にしたところで、加奈に呼び止められた。

将晴はどう言ったものかと一瞬逡巡したが、加奈も由夫とは幼なじみだったことを思い出す。

「ちょっと、由夫の所へ行こうと思ってね」

できる限り自然を装った声音で言ったが、加奈は少し、寂しそうな顔をした。

「由夫って……梅本さんですよね」

「ああ、梅本由夫だ。それがどうかしたのか?」

「一年ほど前……亡くなられた、と聞きましたよ」

将晴は傘を開こうとしていた手を止めて、ゆっくりと玄関の扉を閉めなおした。

「そうか……先に逝ったか」

傘立てに傘を戻して、靴を脱ぐ将晴の背中は、いつもよりも小さく見えた。



加奈はもう、床についている。

冬の夜に虫の鳴き声はない。静かな空気が、ただそこにある。

縁側に腰掛ける将晴の前に、将棋盤。

将棋盤の上には、由夫と打った最後の一局が並べられていた。

―由夫は、次はどこに打つつもりだったのだろうか?―

瞼の裏に思い出される、寝転がって熟考する由夫の表情はわからない。顔を両手で覆っているからだ。

庭を打つ雨音が強くなった。

碁盤から目を離した将晴は、雨があられに変わったことを認めた。

変わった。

そう、もう、なにもかも、変わったのだ。

今さらながらにそう認める将晴だったが、もう、どうしようもない。

強く、重く、激しいあられの音が、将晴を責め立てる。

しかし、そのあられも、すぐにとけて水になる。

そう、何一つ、変わらないものはないのだ。

将晴は薄く笑い、将棋盤に目を戻すのだった。