アイレンの花束
「いらっしゃいませ。どういった物をお探しですか?」
「ああ……ウェディング用の、花束を」
店に入るなり、女の店員が、満面の笑顔で俺を出迎えてくれた。
その表情に多少とまどいつつ、用件を伝える。
「ウェディング用ですね、かしこまりました」
店員が、まるで自分が祝ってもらっているような、明るい笑顔でさほど広くはない店内を動きまわる。
――今、俺は花屋にいる。
こういった店は俺には似合わないし、来ることもないだろうと思っていた。
まして、昔の女の結婚式に、花束を贈るような、格好の悪い男を演じるためにやってくるとは――
……あの人が、今よりもっと、遠い存在になってしまう。
愛して止まない、あの人が。
由紀……俺が初めて、そして唯一、本気で愛した、女。
「なにか希望の花はありますか?」
店員がそう訊いてくるが、俺も花にはそんなに詳しくはない。
それらしい花を見繕ってくれればそれでよかった。
「適当に、あんたのお薦めの花で――いや、アイレン。アイレンの花束を」
そのとき、店員が手に持っていたのは白いバラ。
たぶん、それが彼女のお薦めなのだろう。
俺は彼女のお薦めの白バラを求め――ふと、昔ドラマか何かで聞いた言葉を思い出し、アイレンの花を指定した。
「アイレン……花言葉は幸せになってください。結婚式に手渡すにはちょうどいい花ですね」
「彼女には幸せになってほしいんだ。本当に……」
もうあきらめがついたと思っていた胸に、熱い想いがこみあげてくる。
「それでは、ラッピングをしますので、その間にメッセージカードをお書きになってお待ちください」
「ああ……」
カードを受け取ったものの、何を書けばいいのかわからない。
For 由紀
そう書いて、ペンの動きを止める。
由紀は……どんな言葉を選ぶと、一番喜んでくれるだろうか……?
真っ白なカードを前に、俺は由紀と過ごした日々を思い出していた。
由紀との出会いは、中三の夏。
勉強しろ、勉強しろとうるさかった両親に対する反発心は、積もりに積もって山となり、逆に悪い方向に成績に表れていた。
そんな俺に、強制的につけられた家庭教師が、由紀だった。
当時、由紀は北海道の方から上京してきた大学二回生。
「……X=2Y?」
「違う」
ごんっ
「痛ってぇ! 参考書の角で殴るな!」
「なーに言ってんの。こんな初歩の問題でつまずいてるような子には、体で覚えさせるしかないのよ。ほら」
意地悪く笑いながら、由紀は俺からシャーペンを奪うと、ノートに公式と問題の途中経過をすらすらと書き込んでいく。
間近で見る由紀の横顔は、きれいだった。
知っている他の誰よりも、笑顔が似合うと思った。
大人びた雰囲気もあったが、まだあどけない少女の心も同居していて。
心を奪われるとはこのことを言うのだろうか?
目の前の由紀以外、何も目に入らなかった。
「ね、ここはこっちの公式を使って――ほら、ちゃんとXの値がでたでしょ?」
「あ、ああ……」
「むっ」
ごんっ
上の空で返事をした俺を、由紀がまた参考書で叩いた。
「痛ってぇ!」
「集中しないと、今度は広辞苑でいくわよ?」
「わーたよ! まじめにやるってーの! ……ったく、あんたがそんなにかわいい顔してるから集中できねぇんだよ」
「ん? 何か言った?」
「いーえ、何も言ってませんよ〜」
年齢があまり離れていないせいだろうか? それとも、ただ中学生の俺を男としてみていなかっただけなのか。
由紀は、まるで昔からの友達のように接してくれた。
だからこそ、初めは家庭教師なんてめんどくさいと思っていた俺も、少しずつ惹かれていったのかもしれない。
勉強もでき、(一部を除いて)性格もよくて顔もいい。
自慢の先生だった。
だが、初めはあこがれのようだったその感情も、日を追うごとに、愛という感情に変わっていった。
「ふーん、まあまあね」
あれは、クリスマスのこと。
由紀が俺の期末テストの結果を見ながらそう言った。
「まあ、これだけの成績がとれれば第一志望の高校には入れるでしょうね」
「……」
ほめられても、嬉しくはなかった。
「あんたもがんばったし、クリスマスもかねて、なんかプレゼントでもしてあげましょうかねぇ」
「プレゼント……」
「遠慮しなくてもいいのよ、結構いい給料もらってるんだから」
「……俺なんかの相手してないで、クリスマスぐらい、彼氏と過ごせよ」
「あんたねぇ、もしかして、あたしに彼氏がいないことを知ってて言ってる?」
「いないのか?」
「いたらいまごろこんなところにいないわよ」
「そうか……」
由紀には悪いと思ったが、正直、ほっとした。
「さ、何か欲しいものはないの?」
「……何でもいいのか?」
「あんまり、高いものはダメだけどね」
「さっきは遠慮なんかしなくてもいいっていったのに」
意地悪く、そう言ってみる。
高価なものを貰うつもりはない。
俺が欲しいものはただ一つ。
もう、想いを抑えることはできなかった。
「由紀……」
「ん?」
「由紀が欲しい」
あまりにも予想外すぎる答えだったためか、由紀が俺の方を見たまま黙ってしまった。
「由紀……」
「ち、ちょっと」
とまどう由紀を半ば強引にベット押し倒し、唇を奪う。
「ダメよ……人志……」
押し倒した由紀のか弱さに、さらに激しい感情が、溢れ出る。
最低な男だと思う。
「お願いだ、少しでも……ほんの少しでも俺のことが好きなら、このまま……」
「人志……そんな言い方……ずるいじゃない……」
本当に、由紀に俺を受け入れるつもりがあったのかはわからない。
由紀は潤んだ瞳で俺を見つめ、腕を、首に回してきた。
それにこたえて、俺は、今度は優しく由紀にキスをした。
――その後、俺たちは何度も逢瀬を重ね、季節はいつの間にか、春になっていた。
「やっほ、どう調子は? 高校の勉強についていけてる?」
「まあね。そっちは?」
「うーん、去年の後期は人志と遊びまくって単位落としちゃったからね」
「それは、自業自得じゃない?」
「むぅ……」
先生から、恋人になった由紀は前よりももっと、いろんな表情を見せてくれるようになった。
「ま、すんだことは気にしなーい。とりあえず、遊びに行くわよ」
「ち、ちょっと待てよ、俺まだ制服のまんま……」
「気にしない気にしない。オネーサンのいうことはきくものよ」
だけど、年の差は変わらない。
なんで、もう五年早く生まれてこなかったのだろう?
そうすれば、もっと対等に、もっと同じ時間を過ごせただろうに。
由紀が俺を子供扱いするたびに感じる焦燥感。
それが、俺をあんなに焦らせていたのかもしれない。
俺が由紀にあの話をしたのは、高二の夏。
思えば、あれが、終局のはじまりだったのだろう。
「――俺、高校辞めて働こうと思ってる」
「え……?」
あのときの由紀の顔が、今でも忘れられない。
由紀は止めたが、俺はそれをきかなかった。
俺はバイトを始め、学校にあまり顔を出さなくなった。
別に金が欲しかったわけじゃない。
由紀に、大人として扱ってもらいたいがために。
本物の一人の男として、見てもらいたいがために。
ただそのためだけにがむしゃらに働いた。
それに伴い、毎日のように会っていた日が、週に二、三度になり、ついには週に一度となった。
――そんな日がしばらく続いたある日、由紀から一本の電話がかかってきた。
それは、短く、とても重みのある言葉だった。
「終わりにしましょう。これ以上あたしがそばにいるとあなたはダメになってしまうから……」
俺は、その言葉の意味が理解できず、何も言わない電話の前でただ立ちつくすしかなかった。
その日を最後に、由紀は俺の前から姿を消した。
「はぁ……」
いやなことを思いだしちまったな……
あのときの俺にはわからなかったが、今なら、由紀が俺に別れを告げた理由もわかる。
愛は、諸刃の剣のようなものだから。
とても大切な物だけど、ときには、自分自身を傷つけてしまう。
愛が暴走して、取り返しのつかなくなる前に、由紀は、俺を救おうとしてくれたのだろう。
全ては、幼稚で、自分勝手な俺が招いた破局だったのだ。
「はぁ……」
もう一度ため息をついて、書きかけのカードを握りつぶす。
ちゃんと、卒業しないとな……
「すいません、書き損じてしまったのでもう一枚カードもらえますか?」
「あ、はい、わかりました」
新しいカードにはこう書いた。
For 先生
お幸せに
「お花、できましたよ」
「ありがとう」
代金を支払い、カードを差した花束を肩にかついで、式場へと向かう。
「さて、と……格好の悪い男を演じてくるか……」
――アイレンの花言葉は、幸せになってください。
そしてもう一つ、隠された花言葉がある。
あなたを、今でも愛しています。
あのドラマの男優のように演じきれるかどうかはわからない。
だが、演じられる限りの笑顔で由紀……いや、先生を祝おう。
あの人から、本当に、卒業できるように。
ありがとう、そして、さようなら、先生――