あの日から、部屋が寂しく感じるようになった。

あの日から、光のない場所にいられなくなった。

あの日から、静寂が怖くなった。

・・・あの日から・・・・・・




「ここ、試験に出るぞ〜」


先生が黒板に平手をあてながら、今日何度目かの言葉を放つ。
リズミカルに鳴っていたチョークの音はいつの間にか止み、それに呼応するように教室内が少し騒がしくなる。
そんな生徒たちを叱るでもなく、先生は教室に備え付けの壁時計を一瞥すると、今年はこれで終わりだと一言残して教室から出て行った。


キーンコーン―――


チャイムが鳴り、今日のお勤めもこれで終わり。
そういえば、学年末試験を間近に、そのまま試験勉強を始める人間が増えてきた気がする。
それでも、普段から勉強という二文字からは縁遠い人間は変わらず、集まって雑談を始めるか、そのまま岐路に着くかのどちらかだ。
そういった奴らに限って、目だけは異様に活き活きとしている。
特に試験の前や連休前になると、水を得た魚の如く活発になるのだ。
僕はというと、そんな空気に馴染めず、そそくさと教室を出て行くタイプだったりする。
だが、今日は違った。
今もまだ椅子に座ったまま頬杖をつき、何をするでもなく室内を眺めている。


「はぁ、帰りたくないなぁ・・・」


そんな独り言をため息と共に漏らす。
別に家族が嫌いなわけではない。
むしろ、家庭環境は良い方だと、自分でも誇らしげに言えるぐらいである。
ただ、今となってはその楽しい家庭も、僕を苦しめる要因にしかならなかった。
僕はもう一度だけため息を吐くと、机の上に顔を伏せて目を閉じた。



何時間そうしていたのだろう。
さっきまで聞こえていたと思っていた喧騒も、いつの間にかその息を途絶えている。
空も暗くなり、電気の消えた教室に僕一人だけが残されていた。
僕は仕方なく、帰る支度を始めた。


「さてと、帰りますか・・・・・・・・・!?」


鞄を背負った直後、背後に何かの気配を感じた。
驚いて振り向くが、そこには誰もいない。
疲れているのだろう、そう思って一度全身をグッと伸ばす。
だが、その気配は消えることはなかった。
辺りを見回しても誰もいない。
少なくとも僕には誰の姿も確認できない。


ドクン


心音が、身体を揺らすほどに大きく聞こえる。
暗いから見える。
静かだから聞こえる。
そんな錯覚が、僕を狂わせていった。


「うぅ・・・うわああぁぁぁぁああああ!!!」


静寂をかき消すように叫び、教室の全ての灯りをつける。
気付けば、肩で息をしていた。
完全に血の気が引いているのが自分でもわかる。
嫌な汗。
何かが僕に近づいてくる。
何かが僕に寄り添っている。
何かが僕を消し去ろうとしている。
ありえない気配に恐怖を植えつけられた脳は、イメージをマイナス方向へと捻じ曲げていく。


「く、来るなっ、寄るなぁっ!!」


裏返った声で、ひたすらに同じことを叫びながら、僕は教室から走り去った。
暗い廊下を走りぬけ、その走路にある電灯のスイッチを全て入れる。
そのまま靴箱の前をぬけ、靴も履き替えずに外へと飛び出した。



何処をどう走ったかも覚えていない。
気付けば、家の近くの公園に立っていた。
幾本も立つ電灯の灯りに、救いを求めたのだろうか。
それとも、暗くなってもこの公園で遊んでいる子供たちの声に魅かれたからだろうか。
僕は一番近い電灯の下まで歩いていった。
ちょっとした安心感のある、柔らかい光。
光の真下まで辿り着くと、電灯にもたれかかりながらうずくまった。
ふっと何かが切れたような感覚。
それと同時に、僕の目に涙が溢れた。


「うっ・・・ううぅぅぅぅ・・・」


流れ落ちる涙と共に、いろんな光景が浮かんでは消えた。
それは、全てが僕の記憶していた映像。
悔しかった。
その記憶の大半は、僕が家族と一緒にいる光景だったのだ。
確かに家以外では、ほとんどが惰性でつまらないものだった、それは認める。
だが、それだけ価値のない生き方をしていたのかと思うと、今更ながらに嫌になる。
自己嫌悪、そんなものでは語りきれない憎悪が僕を支配していくのを感じた。


どうして僕なんだ。
どうして他の奴らじゃないんだ。
生きる価値のない奴らなんていくらでもいるじゃないか。
そいつらこそ死んでしまえばいいんだ。
どうして、ぼくだけが・・・・・・


抑えられないほどの情動が、僕という器から溢れ出す。
理性という名の枷は、既にどこにもなかった。


「わぁ、もうまっくらだよぉ〜」


ふと、声が聞こえた。
自然と声のした方向に顔を向ける。
虚ろなこの双眸に映ったのは、真っ黒な空を見上げてはしゃぐ子供たちの姿。
溢れていた情動が、胸の辺りに収束する。
どうしてそんなに嬉しそうなんだ?
僕が死ぬのがそんなに嬉しいか?
身体が熱い。
僕の中で、収束した情動が燃えている。
その時、僕の心にもう一人の「僕」が生まれた。
彼が語りかけてくる。
涙はもう流し終わったか?
よし、ならば立て・・・・・・そして・・・


「ねぇ、君たち・・・楽しそうだねぇ・・・ふふ・・・」
「え、なぁに?」
「このおにいちゃん、なんか、へんだよ?」
「ふふふ・・・ねぇ、僕と・・・遊ばないか?」


僕の記憶はそこで途切れた。



もうすぐ、このつまらなかった一年が終わる。
思い起こせば、本当に何もなかったと思う。
だが一つだけ、僕を変えるきっかけになったことがある。
・・・・・・余命一年。
病名なんて覚えていない、覚える意味もない。
ただ、僕に残された時間は、一年だけだということだ。
これからの一年、僕がくたばるまでに、いったいどれだけのことができるだろうか。


真っ赤に染まった身体。
もう、二度と暗闇を、静寂を恐れることはないだろう。
全てはこの瞬間から始まる。


「みんな、僕はここだ! ここにいるぞ!! さぁ、捕まえてみろ、鬼ごっこだ!! ハハ、あッはハハは―――!!」


愉快だ。
今まで生きてきた中で、どんな時よりも気持ちが高ぶり、そして何より、生きていることを実感している。
空を見上げたまま直立不動、今の僕の顔は、とても清々しいものに違いない。
もはや、この高揚感を止められるものなどいないのだ。


夜の闇。
無人の公園に佇む男、甲高く響き渡る笑い声。
無邪気にはしゃぐ男の頭上で、皮肉なほど上品に月が笑っている。





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