第三章

 空を見上げても星一つ見あたらない。いつまで経っても止む気配すら見せない雨。
 その雨の質が、ミトンとドイルが荒野のど真ん中を歩いている最中に変わった。
「黒い雨ね……」
 空を見上げて呟いたミトンの顔を雨が汚す。嫌な臭いのする、黒い雨が降り始めたのだ。
 黒い雨はドイルの毛に染みこんで、身体を重くする。さらに悪いことに、この黒い雨は放射能を含んでいるので長時間浴び続けることは死を招く。ドイルはそのことをわかっているかのように、しきりに身体を振って雨を散らす。体力を消耗する行為だが、毒の雨に蝕まれるかの二択となれば仕方のない選択と言える。
 前の街を出てから三日。ミトンの記憶には雨が降っている日々しか残っていない。太陽がどんなものであるかさえ、ミトンは忘れてしまったのだ。それでも一切休まずに、前だけを見据えて歩き続ける。
「もうすぐ街が見えるわ。そしたらまた宿に入りましょう。また一緒にお風呂に入って、スープを頼んで」
 足取りが弱々しくなってきたドイルに言葉をかける。ミトンは次の街が近いかどうかなど全く知らなかったが、それでもミトンの脳はドイルを励ます言葉を口に出させたのだ。しかし言葉はかけてもとペースを落とすことはない。グランドアッシュを目指すことが、ミトンの何よりの優先事項なのだ。
「ハッハッハッ……」
 短く息をつきながらついてくるドイル。なだらかな傾斜を登っているので、遠い先は見えない。人間ならば、傾斜を登り切ったところで街を見下ろせることを想像して一歩を重ねたことだろう。しかしミトンはそんな想像はしない。グランドアッシュに到着するまでならいつまででも歩き続ける。それがミトンの鉄でできた強靱な思考なのだ。
 硬い土のみでできた小高い丘陵の頂上に近づく。ミトンの背中からは太陽が昇ってこようかという時刻だが、わずかに空が白みがかるに留まっている。分厚い雲が光を遮っている。
「さあ頂上よ。きっと街が見下ろせるわ」
 ミトンの口が半ば自動的に開き、音を発する。そんな言葉に励まされて、ドイルは繰り出す足に力を込める。
 そして二人は、丘陵の頂上にたどり着いた。
 なだらかな下り坂が西へと広がっている。
 ドイルの瞳はその先に街を探したが、薄暗い世界にそんなものは見あたらない。
 その代わりにあったのは、空を届けとばかりに積み上げられた鉄屑の山だった。
 それを目にしたミトンの朱色の眼球が、その無機物でできた山を分析する。そして、ミトンの主記憶装置があっけなく答えを下す。
「ここがグランドアッシュ……」
 なだらかな坂を一歩二歩と下りていく。のろのろと歩くミトンを追い越して、ドイルは勢いよく駆けだした。地面を見ると、そこに褐色の土はなく一面を灰が埋め尽くしていた。
「戦地じゃなかったのね」
 ミトンの口から独り言が漏れた。キティドールが独り言を呟くことは理論上可能ではあるが、極めて稀なことだ。黒い雨が彼女の人工表皮を打ち、音もなく流れていく。
 灰色が視界を支配している。鉄屑の灰、雲の灰。そして、大地の灰。
 ミトンはとうとう灰色の地に到着したのだ。到着してしまったのだ。
 ドイルは鉄屑の山の麓に到達し、そのまま山を駆け登っていく。それでもミトンはゆっくりとしたペースを変えることはない。
 ミトンは主記憶装置の最も深い部分から最後の情報を引き出そうとしていた。この地を目にしたことが鍵となって、今まで鍵のかけられていた最奥部の情報を紐解くのだ。そこには、グランドアッシュですべき事が記されているはずだった。
 主記憶装置のプロテクトを次々と解除していく。この地で行うミッションを知るために、ミトンは自らの最も深い部分に潜っていく。
 そして――
 最期のプロテクトが解除されて、ミトンはこの地に来た意味を知った。
 理解した事実を、ミトンは無感情に一人呟いた。
「墓場だったのね」
 ミトンの顔に表情は浮かばない。しかし独り言は続けられる。
「果てる場所という意味では、戦地も墓場も同じようなものだけれど」
 答えを知ったミトンは、唐突に足を速めた。彼女の朱の瞳は山を駆けのぼるドイルを凝視している。
「ドイル!」
 ミトンの最大音量の叫びにも振り向かずに、ドイルは必死で山を登る。足元に転がる人形のなれの果てを蹴りながら、ドイルはひたすら頂上を目指す。
「待ってドイル、あなた、まさか!」
 ミトンはさらに加速する。動作設定を通常モードから戦闘モードへとシフトして、最大のスピードでドイルを追う。ミトンの足が瓦礫を踏むたびに、人形の鉄骨が砕け、音を立てて下へと転がり落ちていく。
 しかし、ドイルはミトンが追いつくよりも先に頂上へとたどり着いた。人形達でできた山の頂上に、ドイルは静かにしゃがみ込んだ。そして、そのまま動かなくなった。
「ドイル!」
 遅れて到着したミトンはドイルに呼びかける。しかしドイルはピクリとも反応しない。
「ドイル?」
 抱きかかえても動かない。鼓動も呼吸も感じられない。わずかに残った体温が静かに冷えていくのが、人工表皮を通して伝わるだけだ。
 ドイルは、死んでいた。
「あなたも、機械だったの?」
 ミトンの問いかけに、答えるものはいない。黒い雨を浴び続けたドイルは、前に抱いた時よりも少し重く感じた。人間は死ぬと二十一グラム軽くなると言うが、犬の場合はどうなのだろう。そんなことを、ミトンが知るはずもなかった。
「あなたも、グランドアッシュを目指していたのね」
 ミトンの目元から黒い水が流れ落ちる。顎を伝って落ちた雫は、ドイルの瞼を優しく濡らす。
「私たち、戦友だったのね」
 独白を続けるミトンに変化が起きた。突然背筋を伸ばして天を仰ぐ。最期のプログラムが起動し始めたのだ。
 それは、死への準備だった。
 ビクン――
 また一度跳ね上がるミトン。抱えていたドイルが彼女の膝からずり落ちた。
 ビクン――
 鉄屑に戻るための準備が、着々と進む。
 ビクン――
 自らの人工表皮を溶かす溶液を、体内で生成する。
 ビクン――
 ビクン――
 ビクン――
 雨が、止む。
 雲がゆっくりと流れ、ミトンは記憶する限り初めての青空を、そして太陽を目にする。
 太陽の光は眩しくて、鉄屑に反射する光はもっと眩しくて、ミトンは朱色の瞳をわずかに細めた。
 最期の景色としては、悪くない。
 そう思うことさえプログラムされたものだとしても、ミトンはそれはそれで良いと思えた。
 悪くない。
 まばゆい光に包まれた灰色の世界で、ミトンの意識は薄れていく。
 しかし、ミトンの眠りを遮る音が太陽の見える方角から聞こえてきた。
 ミトンは太陽の下を走る物体に目をやった。
 そこには、灰の荒野を走るジープが一台。
 ミトンの三日分の記憶から零れ落ちてしまったジープだ。
 既に死ぬ準備は整っている。しかし、なぜかミトンは最期の命令を下せずにいた。
 ジープが真っ直ぐに近づいてくる。やがて山の麓に到着し、ドアを開いて出てきた男が何かを引きずって山を登り始める。ゆっくり、ゆっくりと登り始める。
 ミトンはただ見つめていた。彼のことも彼女のことも忘れたミトンには、男の行動の意味はわからない。しかしそれでも惹きつけられるものがあった。まるで人間のように、理由もなく彼らを見つめるミトンだった。

「そうか、先に来ていたか」
 ようやく山を登り切った男は、ミトンを見るなりそう言った。
「あなたは私を知っているのですか?」
 座り込んだまま、ミトンは男を見上げて訊ねた。男は肩に担いだキティドールをミトンの隣に座らせて、重々しく頷いた。
「ああ。しかし、三日以上前のことでね。残念だよ」
「そうですか。失礼ですが、もう一度名前を聞いても良いですか?」
 ミトンの問いかけに男は素直に答える。
「私はジキル。そっちのキティドールがエルだ。エルは君に壊された」
「私が?」
「そうだ」
 ジキルは愉快そうに笑った。その笑顔は純粋なもので、偽りではない。
「君には感謝しても感謝しきれないよ」
「なぜですか?」
 ジキルの言葉に反応を返すミトン。彼女の無表情にエルの面影を見たジキルは、苦笑せずにはいられない。
「このままの姿で、こいつを弔ってやれるから」
 忘れてしまったミトンは気づかなかったが、エルの顔からはミトンに破壊された跡がなくなっていた。ジキルがどこかで修理してきたのだ。
「姿を残すことに意味があるのですか?」
 ミトンの質問に、ジキルは唇を噛む。
「死者にとっては、意味はない。だが、残された私たちには意味があると私は思っている」
「そうですか」
「君はずいぶん前にここに到着していたようだけど」
 急に話を変えるジキルにも、ミトンの脳は素速く反応する。
「はい。ジキルさんが到着する十九分と六秒前に到着していました」
「なぜ、まだ死んでいない?」
 人間に言ったならば、ジキルの言葉は極めて残酷だっただろう。しかしミトンは静かに首を振るだけだ。
「わかりません。ただ、あなたのジープが見えたから」
 その言葉を聞いたジキルは、しゃがんでミトンと目線を合わせた。
「君は、まだ生きたいのかい?」
 ジキルの突然の言葉に、ミトンは口をぽかんと開ける。
「え?」
 さらに追い打ちをかけるように、ジキルはゆっくりと口を開く。
「君は、人形じゃない」
 キティドールのミトンが、全く予期していなかった言葉の配列。
 その断言に対する返答を、ミトンは持ち合わせていない。
「話を変えよう」
 元は人形だった鉄骨に静かに腰を下ろして、ジキルは説明を始める。
「キティドールというシリーズ名の意味を、知ってるかい?」
 ミトンはかろうじて首を振る。ジキルも知らないことを前提に話しているので、小さく頷いて話を続ける。
「キティドール。すなわち子猫の人形。これは、実は言葉通りの意味なんだ」
「言葉、通り?」
「ああ。実はキティドールの試作器は、猫の脳を基盤に作られたんだ」
 ジキルの突飛な話に、ミトンは自然な反応を返す。
「猫の脳を基盤に、人形が作れるのですか?」
 キティドールは人語を操る。他にも高度な思考や無意識下での制御も必要だし、とても猫の小さな脳で戦闘人形を統制できるとは思えない。思えないが、ジキルの口調は真剣そのものだ。
「作れる。足りない分は機械で補助すればなんとかなる」
「それで、猫の脳を基盤に作った話が、私が人形じゃないことにどう繋がるのですか?」
 ミトンの言葉に目を細めて、ジキルは次の瞬間、決定的な言葉を口にした。
「君がその試作器だ」
「私の脳が、猫のものだと言うのですか?」
「そうだ」
「でも、私は……」
 ミトンはそれ以上言葉を重ねることができなかった。反論する材料がないのだ。そんなミトンを静かに見守って、ジキルは淡々と語り始める。
「戦争が泥沼化し始めた頃。政府は戦闘人形の制作を急いでいた。その頃は人工知能の完成にはまだ少し時間がいる時期だった。そんな時、猫の脳を利用して戦闘人形を作れないだろうかという考えをしたろくでもない科学者がいた。そしてその科学者は、実際に猫の脳を使って戦闘人形を作り上げたんだ……」
 黙って聞くミトンを見て、ジキルは肩をすくめた。
「エルの脳は人工知能だ。彼女は人形だ。少なくとも科学者はそう断言する」
「あなたは、エルさんのことを人形だと思わないのですか?」
 ミトンの問いに、ジキルは口をつぐんだ。組んだ自分の手を見つめて、覚悟を決めて告白する。
「私は科学者だ。しかも、飛びっきりろくでもない、ね」
「私を作った、科学者なんですか?」
 ミトンの感情のない声に、ジキルは重い頷きを返す。
「私の、生みの親なんですね」
「違う! 私は君の一生を奪った仇だ!」
 語気を荒げるジキルに、ミトンは静かに首を振る。
「今の私はあなたに作られました」
「……え?」
 ミトンの言葉に目を見開くジキル。彼女の言葉は完全にジキルの予想の範疇を超えていた。
「今の私の親は、あなたです」
 ジキルは身動きができない。ミトンを見つめたまま、ジキルは音もなく涙を流した。
 ミトンがそんなことを言うことこそが、彼女が完全な作りものではないことの何よりの証拠だった。ジキルにはその事実が辛くて悲しくて、それ以上に希望に満ち溢れていて、涙をぽろぽろと零さずにはいられなかった。
「……あり、がとう」
 ジキルの言葉にミトンは無表情で頷きを返した。
 それが、今の彼女にできる精一杯の感情表現だった。

「今なら君にしてやれることがある」
 ジキルの言葉を、ミトンは瓦礫の頂上に腰をかけたまま聞いていた。
「君はまだ死ななくても良い。作った私がそう言うんだ。保証する」
「でも……」
「頼む。私にやらせてくれ。君にはまだ生きて欲しいんだ」
 ミトンは返事をできない。なぜなら、ジキルの言葉に頷けば自分の根源が下した命令に逆らうことになるからだ。
「……わかった。じっとしていなさい」
 ジキルはミトンの返事を待たず、勝手に後ろへ回り込んで、ミトンの背骨にあるコネクタに情報端末を差し込んだ。ミトンは抵抗一つせずに、ジキルのするがままに中枢の情報を書き換えられていく。
「よし、これで良い。もう立てるはずだ」
 情報端末を引き抜いたジキルは、ミトンに手を差し出した。ミトンはその手を握って、ゆっくりと立ち上がる。
「さあ行こう。君にしてやりたいことが沢山ある。脳を制御しているパーツを解放するんだ」
「待って下さい」
 手を引くジキルを制して、ミトンはドイルに歩み寄った。横たわっていたドイルを抱いて、静かに座っているエルの膝に乗せてやった。
 ジキルの方に振り向いたミトンは、太陽の光に目がくらんだ。仲間の屍を、一歩、また一歩と下って太陽を目指す。
 これからは、東を目指す。
 一日一日を、心に刻みつけながら。
 ミトンが大切な想い出をつくることも、さほど遠い話ではない。

(了)
 






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