第一話
六月にもなれば、中学生気分が抜けない一年生にもグループが出来上がる。
大人から見れば、うすっぺらくて独善的なものだが、プライド高く潔癖な一年生にとっては、この三年間を面白おかしく過ごすために欠かせないもの。
そんな薫の言葉を、俺は少し実感した。
小難しい言い回しだったが、それはずっと前から味わい続けた感覚だった。
いや、どちらかといえばわからなくもない、か。
どうでもいいな。
そんな、実感しつつもくだらないと思っていたはずだが、俺は部活に入ってしまった。薫に誘われて、民俗文化研究会、民研なんてわけのわからない部活だから気が滅入る。
薫が部長で、先月にあんな記事がなければ入ってなかったのにな。
入部してから放課後は、民研の部室に行くようになった。
行かないと後がこわい。そんな奴だからだ。
部室は教室がある棟からはす向かいにある棟の四階で、あまり移動教室に使わない、どちらかといえば選択授業をする教室が多い。そして、いつも人気がない。
第二美術準備室と書かれたプレートを見る限り、とても美術部以外の部活の部室に見えないのが、俺のやるせなさの一つだ。
まったく、あいつは変なところで適当なことする。
しかし、ドアを開けるとそんな呆れも吹き飛んでしまった。まさかのゲストの登場に、胸糞が悪くなった。
部室の中央にまとめて据えられたデスクに、男が二人向かい合って座っていた。背の高い新聞部の部長の背中越しに、かなり小柄な薫の姿が見える。
新聞部はもう一人いて、新聞部の部長の隣に張り付いていた。
「民族学研究会の設立は、最初の会長である好摩さんに校長先生がとても共感されたことがきっかけでした」
親友で、今の会長がのんびりと語る。それもまた俺のイライラを助長させた。当の被害者がそんな態度だと、図に乗るにきまっているだろうに。
「他の先生方は反対のようでした。校長先生が顧問になることに強く反対してましたが、好摩さんはあまり優等生と言える立場でもなかったからです。一か月のも会議の末、部費の大部分の削減により一応の設立はできましたが、やはり最初は風当たりも強く、活動には困難を極めました。しかしながら、私たち民俗学研究会は十年が経過しましたが、今もその条件の下、活動を続けています。不満は特にありませんね。先生方も他の生徒型もお願いすれば備品などを貸してくれますし」
「だから、予算の水増ししてるんでしょう?」
「そのことは、先程も言いましたが、生徒会か先生方にお尋ねになった方がよろしいと思います」
「あてになるものか。そのあたりも抜かりがないだろうに。生徒会長という立場はおいしいでしょう? 好摩のコネもたくさん使ってるんでしょうね〜」
新聞部の部長もといクソ野郎は、鼻にかかったようないやらしい笑みを薫に近づけた。
反射的に俺は拳を握りしめた。体はすでに前屈みになっている。
逆に薫は全くこいつらしく笑うばかりだ。実際はかなり憤慨してるはずなのにだ。そればかりか、冷静に指摘し始めてさえいた。
「生徒会長は推薦ですから、そのあたりはとても効率が悪いですよ。コネだって当然足がつくと思いますし」
「はっ。御託を並べれば引き下がると思ったか。ジャーナリズムをなめるな。ロマンみたいに言うのは勝手だが、俺の言葉は全校の総意なんだぞ。そんなぺらっぺらの発言は許されない行為だぞ。大層なものなんだろうな、お前のコネは?」
唾を耳にこすりつけるような声で、クソ野郎は馬鹿みたいに笑って、流石に我慢できなくなった俺は、その後ろから襟を引っ掴んで、無理やり立たせた。がたたん! と、椅子が床を数回はねた。
掴んでいたのはその時だけなのだが、振り返って俺の顔を見た瞬間、今にも崩れ落ちそうな顔をした。それがまた不愉快で、まるで臭う気がして顔をしかめると、飛び上がるようにして仕事道具を抱えて飛び出していった。腰巾着みたいなやつも、その後を追っていく。
少しだけ、それを背中越しに眺め、薫に近寄りため息交じりに言った。
「大丈夫か? つーか、いつまで部室に入れるつもりだ? 懲りないのはわかってるだろ。俺も迷惑なんだが? まさか、お前が香織さんのことで、復讐したろとか思ってるはずもないだろうし。……わかんねぇなぁ」
あんな記事を信じるやつはいない。それは薫もわかってるはずだ。それでも激昂するやつは五万といるだろうが、その中に薫がいると思えない。正直、俺はあの記事を引きずっているが。
「あいつを嫌っている奴は多いんだから、追い返して大丈夫だろ。はんぺんに殴られて、停学食らってあれだぞ」
「安平先生だよ。それにそんなことしたら、エスカレートするよ。何事も穏便かつ速やかに」
「見て腹立つだろ」
「水面下って言葉はどういう意味を表してると思う?」
また、ごまかすような口ぶりだ。しかし、薫のどこか冷えた目に、無視という選択肢は消えていた。
「……俺に頼るのが嫌だってか?」
「わかりやすいやり方は、弊害が大きいんだよ」
「……いつものことか」
「まだ何も」
本当にいつもの切り返しに、頭が沸騰しかけたが、慌てて深呼吸をした。
「からかうなっ。くそ鬱陶しいっ」
逆に薫はくすくすと笑い声を立てていた。
「それだったら、ここまで野ざらしにしてないよ。でも、心配してくれてありがとう。大丈夫。すぐに終わらせるよ」
手伝うという俺の気持ちを無視して何をほざいてやがる。
その言葉は俺の心の中で何度も反響した。小さな親友は、昔から腹の立つ奴だ。
「……どうでもいいんだな」
「どうして? 浩之くんは自分にできることをしてよ。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないだろ!」
「ありがとう」
声がつまる。なんでもわかってるくせに、いつも俺を裏切りやがる。
「…………だからっ。それが勝手だってつってんだろ!」
何度、こんな喧嘩をしてきたか。
「俺の責任もしょいこんで、一体何をするつもりだ!」
「ごめん。今度、ちゃんと話すから」
……はぁ。どこまでも一貫してやがる。
「それで何度目だ」
「嘘じゃないよ」
「んなこと言って、いつも終わった後に聞かせるだろうがっ。先月のだって、あいつが新聞ばらまいて気づいたんだぞ!」
「あれは……、ぼくも参ったね。想像を絶したよ」
「笑って済ませるな!」
「……その熱意を、自分のことに回してみたら? 浩之くんにはまだできることがあるはずだよ」
「………………それは今関係ないだろっ」
その穏やかな笑いは、馬鹿にされているようにしか見えなかった。
やがて、会話は続かなくなって、俺はもう無視してデスクに腰掛けた。
とたん、それまで肩身を狭そうにしていたらしいクラスメイトの伊藤えみりが、隣でびくっと肩をはね上げた。
伊藤、今度はお前かと、向けてはいけない苛立ちが湧き始め、もう一度深呼吸をした。なんだか、むなしくなってきた。
伊藤はもう俺を見ておらず、ひたすら小さなノートに何かを描きこんでいる。どう見ても、気にしないように頑張っている顔だった。そして、それがイラついた。
俺はすぐに頭を冷やす。しかし、何を派せばいいのかわからなかった。
そういえば、伊藤がかけている水色の下縁メガネは、薫と全く同じだ。そう思ってすぐに思い出した。以前それを尋ねて鳴かれたのだ。高校生になって、初めて泣かれて俺はひどく焦った覚えがある。
だからといって、このまま黙りこくるのも気が引けた。
「……何を書いてるんだ?」
「………………っ」
あからさまにびくつかれた。
「祭りとか着物とか、方言も調べるんだろ? それをメモってるのか?」
「………………………………………………………………」
今にも泣かれそうだ。
「こら。何を追いこんでるの」
薫は見かねたらしく、少し眉を怒らせていた。
俺は若干呆れ口調で返す。
「俺のせいか?」
「話すのはいいけど、そんな顔されたら誰でも怖いよー。笑顔笑顔」
見せつけるように笑われるのは、正直うざい。
「付き合い長いんだから、お前はわかるだろっ」
「僕だけわかったんじゃあ意味ないじゃない」
「あ、あの…………っ」
薫と同時に見ると、またびくりと伊藤は後ずさった。
こいつ、高校生だよな?
なんだか、だんだんと疲れてきた。
「怖いよねー。でも、これで意外とナイーブなんだよ?」
「そ、そうなんですか…………?」
顔を寄せてとんでもない告白をする薫に、伊藤の顔はゆでたこのように真赤だ。
「…………」
伊藤のチラ見が腹正しい。
「誰がナイーブだ。嘘をつくなっ。俺の神経がすり減っているのは誰のせいだ」
「ちんぴらみたーい」
「誰がちんぴらだっ」
「……あのぅ、会長……」
睨みつけるのもつかの間、薫が伊藤に顔を移動させたので、俺は手持無沙汰になってしまい、もう寝ようかと思い、デスクに突っ伏した。
「…………そのぅ」
しばらくして、消え入りそうな声が聞こえてきた。あまりにも近くで聞こえてきたので、顔をあげてみると伊藤だった。半分寝ていた俺は顔をしかめてみると、伊藤の肩が縮こまるのが見えて、我に返る。
「その…………っ! ……あの、その…………ごめんなさい……」
間違いがなく俺が悪い。
「…………なんで謝るんだ」
こんなこと慣れてる俺には、むしろ謝られる方が苦しい。
「でも…………っ」
しかし、伊藤は食い下がってきた。俺はそれに少し面喰いながらも、言い返す。
「気にするな」
「伊藤くん。浩之くんは浩之くんなりに謝ってるんだよ。そうは見えないけどね。だから、その辺で勘弁してあげて」
半分余計だと思いながらもほっとしていると、
「…………でも」
伊藤がしぶる様子を見せた。案外、頑なな奴らしい。
「大丈夫大丈夫」
「軽いな。とりあえず、伊藤、もういいから」
「…………うん」
うなだれるようにして頷く伊藤に、薫は笑いかけながら言った。
「ぶっきらぼうだけど、根気よくすれば仲良くできるから。よろしくね」
「俺は犬か!」
ささやかにだが、伊藤が笑ったので、それ以上言うのは勘弁してやろうと思った。
人間、笑ってなんぼだな。
それからしばらく経ったが二年生は来なくて、俺はとうとうしびれを切らした。
「あいつら何をしてるんだ」
「先輩をあいつら呼ばわりしない」
「……別にいないんだし、いいだろ」
「いたらつけるの?」
「どうでもいいだろ」
「よくないよ」
薫は少しきつめに言うと、ころりと笑って、
「先に始めようか。新入部員にイロハを教えるいい機会だし」
真面目にするつもりがない俺としては、迷惑極まりない言葉だ。
しかし、薫がいそいそと準備を始めた頃、コンコンとノックの音が聞こえた。全員の視線が入口に向かい、薫は「どうぞ」と返事をした。
「こんにちはー。うちの部長から伝言頼まれてきたんですけど、大丈夫ですかー?
「ぜんぜん大丈夫。適当に腰掛けて」
まず大きな声で挨拶してきたのは、シーズーみたいな髪型をした岡田菜々子。人を子馬鹿にしたような笑顔と口調が、今日もまたうざい。
もう一人の女、絵巻秋子は、見るからにやぼったい恰好をした奴だ。四角く分厚い黒縁メガネが、染付のない黒髪と合わさってある意味よく目立つ。
「うわぁっ。いやらしい目ぇ」
いつものように岡田が俺を見てにやけてきた。
「何、怒ってるの。もっと嬉しがりなさいよ」
「お前じゃなければな」
「あぁ? 失礼なことを言うのはこの口ぃ?」
怖くねえっつうの。
手を突き出してくる岡田の攻撃をひらいと避けて、軽く溜息をこぼす。
「それで元剣道部かよ。弱いくせに粋がってるとか始末に負えねえな。そんなんじゃ、あたっても痛くねえよ」
「だったら大人しくしろ!」
もう一度間合いを詰めてくるが、ひらりと避ける。真っすぐ突っ込んでくるだけだから、まさしく牛かイノシシ。それで無意味さを知ったのか、睨みつけてくるも、岡田は腰を落ち着けた。それに合わせて俺も座ってほっと一息ついた。
とたん、首をがっと掴まれた。締め上げてくるのは、もちろん岡田だ。とっさに顎を引いたから全く苦しくない。
俺のそんな態度に気付いたのか、すぐに解放された。岡田は忌々しそうに俺を睨みつけている。
「はいはい。二人ともじゃれあうのは、そこまでにしてね」
「なんでこんな奴と!」
俺もそう思う。だったら、突っかかってくるなと思うんだがな。
岡田は切り替えるように居住まいを正していたが、まだ物足りない顔をしている。そして、薫に向き直りとうとうと喋り始めた。
「あいつのことです。新聞部の部長。さっきすれ違いましたよ。また来てたんですよね」
「そうだよー」
薫のそんな態度に岡田は半ば呆れた顔をしながら続けた。
「厚かましくないですか? うちの部長からも聞いてるはずですよね? うちにも来てるって」
「教室で愚痴られているよ。相当参ってるね」
「人ごとですか?」
だいぶ呑気な口調で言われ、岡田の声には苛立ちが混じり始めてきてるのが、すぐにわかった。身内ごとなんだなと、俺は勘づく。
「そうじゃないよ。様子を見てるんだよ。大迫くんにはちゃんと言っておくよ」
平然と言うが、当然誰も納得できないだろう。もちろん、岡田は嫌みたっぷりにかみついて、
「らしくないですねー。みんなが頼りにしてる生徒会長が、全然役に立たないなんて。いつもの早業はどこですか? やっぱり後ろ暗いところがあるんじゃないですか? みんなが我慢しろって言うから、何もしませんでしたけど、今から私が張り倒してもいいんですよ?」
「何を偉そうに」
「うっさい!」
「ここではお静かに」
また血がのぼった俺たちを、薫がやんわりと止めに入る。見え隠れする感情は恐ろしかったが、見なかったことにした。それにしsても、岡田はいつもよりもイラついてるな。あれか、うちのババアと喧嘩でもしたか?
「だめだよ、岡田くん。それだと大迫くんに睨まれちゃう。無謀なことはやめて?」
「だったら会長のだってむぼ」
「それと、会長って呼ぶのやめてくれない? 嫌いなんだ、その呼ばれ方」
思わず傍で見ていた俺にまで背筋に悪寒が走った。岡田も不服そうだが若干引いている。
「……田沢先輩も無謀じゃないですか? できるかどうかもわからないことをするするって言うだけで」
「菜々子」
「何?」
静かに口を開いたのは絵巻で、岡田は思い切り睨みつけた。
「菜々子なら、できるの?」
「やってみないとわかんないじゃない」
それだけ自信満々なのは、ある意味うらやましいが、ただのバカだ。そして絵巻は感情を見せないまま言った。
「ここぞというときに踏み込めないのに、説得力ない。その前に部長が許さないよ。話し合いっていうより、部長の伝言をしにきてるだけなんだから」
「何よ、秋子まで邪魔するの?」
「部長も含んでるよ?」
その言葉に岡田は押し黙った。少しして座り、また居住まいを正した。
全く、熱血はよそでしてもらいたい。
俺は薫を睨みながら、
「肩書き嫌いなのはわかるけど、お前だってそもそも人の親切無視してるじゃねえか。だから、信用されないんだろ。勝手すぎだ」
「物事をかえってかき回すようなことを、親切っていわないんだよ。岡田くんの気持ちは嬉しいし、浩之くんのもそうだけど、これは僕の問題で、僕がやるのが一番いいんだよ。それに、まだ何するか決まってないし」
「立場が嫌いなのに、コネを遣うのって、矛盾してませんか?」
それはただのガキの戯言だ。
「黙ってろ」
「なんか言った?」
「軽すぎだって言ったんだ!」
「誰が軽いって!?」
「お前だ!」
「そんなこと言うなら自分をどうにかしろ!」
「んだとっ!」
「子どもみたいな拗ねかたすんな!」
「それはお前だ!」
そうやつてガンを飛ばしていると、くすくすと笑い声が聞こえてきた。笑い声は薫で、菜々子は呆れていた。
「そろそろやめたら菜々子」
「ここまでくると、ちょっとしたコントだね」
「…………」
一気に冷めてしまった。
不意に、絵巻がすっと立ち上がり、
「そろそろ失礼します。あまり長居すると、部長に怒られますから。ね、菜々子?」
「…………そうね」
岡田は何かを思い出したようにげんなりしていた。
……どっちが怖いんだろうな。ま、やれやれ、だ。
薫を横目に見ながらそう思った。
「ははは。厳しいねー。僕が付き合わせてたって言っておいて」
「そうします」
絵巻は迷いなく返事をする。
「そうそう、次の出展はいつ?」
「来月の第二土曜日です。上森美術館でします。また、来てくれるんですか?」
「みんなレベル高いからねー。ぜひ、行くよ」
「みんな、すごく喜びますよ」
絵巻はくすりと笑い、岡田を連れて部室を後にした。そして、薫はぐるりと振り返って、
「浩之くんと岡田くんは仲が良いな」
「もうその目、潰せ。使い物にならないんだろ?」
「えー。意地っ張り。これじゃあ、浩之くん大好き! って娘がかわいそうだよ」
ぶりっこきもすぎる。俺は心も体も震えあがりながら引いた。
「奇声あげんじゃねぇ。大体、どこにいんだよ、そんな奴」
「どこだろ?」
「……鬱陶しい。いたら、相当奇特な奴だろうな、そいつは」
「そうかなぁ?」
俺はもう取り合わなかった。
「さて、資料を運ぼうか」
「あん?」
意味がわからない。
「資料を遣って活動の概要を説明するんだよ。ここの活動目的は覚えてる?」
「そのままじゃねえか」
「そうだね。基本的には市内の民間伝承なんかを報告書にまとめるのが、民研の目的。その報告書に慣れてもらうために、これからどんどん書いてもらうよ」
指差す先には、壁一面を覆い尽くすほどの紙束を抱えたスチール製の棚。
「手始めに、っていうか基本も応用もあれなんだけどね。あれ以外にもあるけど、収まりきらないから図書室の書庫の一部を借りて置かせてもらってる。ここにあるのはよく使うものだから、今後も目を通しておくといいよ」
「……そんな調子で読み切れるのか?」
「これぐらいならすぐだよ」
心底げんなりしながら抵抗してみるが、張り合ってすらくれなかった。
「……で、何するんだ?」
「資料を見て大事だと思うところを書きうつす作業だよ。調査や取材するにあたって見聞きするべきところを把握してもらうためにね。あとは、報告書。先輩たちの報告書もあるだろうから、それを参考にしながら書いていって。最初だし、書くだけ書いてってレベルでいいけよ。ただし、何もかも適当にすると、あとあと徹夜する羽目になるから、しっかり適当にね?」
「……………………やめたい」
「覚悟してね?」
やたら楽しそうな薫を見下ろして、スパルタ野郎と内心毒づき、薫に手招きした。
「さっさと運ぼうぜ……」
「わ、私も手伝います……!」
「は?」
薫に遅れて伊藤まで立ち上がるので、俺は眉をひそめた。さっきまで、びくびくしてたくせに。つか、今もびくびくしながら何を言っているんだろ。
俺は「手伝います」と連呼する伊藤を見下ろしながら、
「お前は座ってろ。怪我をされたら迷惑だ」
伊藤がびくっとした。
そんなきつく言ったつもりはなかのだが、ま、なんだ。慣れてくれよ。
「言葉づかい」
ふいに口挟んできた、その癪に触る言い方に腹を立てたが、すでに薫は伊藤に優しく語りかけていて、あまりの扱いの違いにますますむかついたが、子どもっぽい気がしてやめた。
それに口で負けしな。
「浩之くんの言った通り、僕たちに任せておいてよ。こういうのは男の仕事だし、見栄もあるんだよ」
「でも……」
またか。でもでもうるさい。
「怪我なんてしたら、お前が描きにくいだろ。俺が運ぶ。俺はお前らに教えてもらわないと書けないんだし、それでちゃらな」
吐き捨てるように言うと、伊藤はどことなくほうけていた。俺はそれすらもむかついたが黙ってると、伊藤は我に返ったようにごめんなさいを何度も繰り返してきた。照れているような顔がやけに気になったが、
「なんで謝るんだ」
やっぱり吐き捨てたほうが都合が良いと思った。それでも伊藤は繰り返してきて、だんだんうんざりして、薫が吹いてきた。
「察してあげないよ」
「…………そうだな」
何をだ?と、問いかけようとして、思いとどまる。また怒られそうな予感がした。
釈然としないまま俺は伊藤を放って、薫と棚に向かう。
「ほんとはわかってるんじゃないの?」
「何を言ってるんだ」
「ふふ」
「ひっかきまわしやがって」
それ以降も余計なことを言われるたびに不平不満をこぼしながら、指示に従って資料を抜き取り運んで行く。そんな作業にもまた、鬱憤がたまっていく。
「だるいわー…………」
「運びきる頃にはへとへとになってるんじゃない? でもすごいね。伝統だとまず途中でへばるんだけど。やっぱり毎日女の子の手伝いしてるおかげ?」
「人聞きの悪いことを言ってんじゃねえ!」
「怒鳴ってるところ追加ね。まだまだ余裕なところよろしくー」
「書く前にばてさせる気か!」
帰宅したのは七時を過ぎた頃だった。全身がだるい。
慣れない作業で書き損じるなどのミス連発。長時間ってのもきつかった。しかも目の前で手際の良さを見せられて、焦る焦る。
…………全く、ろくでもない。
二年生は結局、俺がノートの半分を消費した頃にやってきた。
うすぼんやりと明るい空を背に玄関をくぐり、きっちり靴を揃えて自室に向かった。
そこで舌打ちをした。できる限り顔を合わせたくない奴が目の前から歩いてきていた。
向かい合うように立ち止まると、ババアは苛立ちをにじませて言ってきた。
「帰ってきたら、ただいまの一言ぐらい言ったらどう?」
「ただいま。で?」
「あんた、親になんて態度とってるの!」
近所迷惑だ。
つりあがった目尻とヒステリックな声でわめきはじめて、俺はこめかみはぴくぴくと震えた。
「いつもこんなんだろ」
しかし、母親は嫌みたらしく首を横に振った。
「いーや。昔は素直だった。今のあんたは人の気持ちを考えない人間になってる!」
「どこをどう見て素直だったんだ? お前らにとって都合がよかっただけだろ」
ロボットみたいなものだ。
「扱いやすかっただろ?」
「あんたねぇ……っ。そんなに家族が嫌い? お母さんがあんたたちのためにどれだけ苦労してるか、骨折ってるか、わかってないでしょっ!?」
「押しつけてくんな。お前のしたことがいつも俺のためになったわけじゃないだろ! 思いあがんなっ。理解してねえのはお前だろ!お前らがどれだけ偉いんだ!」
「あんたこそ何様のつもり!? 働いたこともないからそんなことが言えるのよ! 大田さんの子どもなんか家のためにバイト代を全部納めてるのよ!? 部活も続けられない人間が何ができるの! そんな甘い考えだからバイトできないのよ! バイトしないから人の気持ちがわからないのよ! こんな情けないのが自分の子どもだなんて、情けないわ…………っ」
見せつけるように涙ぐむというのができるのが、親の卑怯なところだ。親というだけで抗えがたい強制力があり、何があっても俺が悪いのだ。親の言うことが聞けない子どもは、社会的弱者と同じだ。そしてこんなことをする親は決まって人の話を聞かない。何もかも全て自分の感情で自己完結するうえ、無自覚なのだ。しかも失敗しても覚えることもできない。
それで俺がどれだけ荒んできたわからないのは当然だ。だから、もう聞きたくもない。
そして俺の頭の中は軋み、視界は遠く狭まった。
だから、殴りかからないうちにと、自室へ逃げた。すぐに後ろ手で自前のカギでドアを閉める。すると、言葉にできない感情が胸から喉へせり上がり、痛くて痛くて気持ち悪い。
とっくの昔に死んだ奴のことを今更持ち出して、引っ張って、巻き込んで、縛り付ける。それが教育だと豪語する。
「親だから注意してあげてるんでしょ! なんで素直に聞けないの! 気に入らないなら出て行け! こっちだってあんたの顔を見るたびイライラしてるしてるのよ! ちょっとはお母さんの立場も考えなさい!」
ドンドンドンッ!
ドアをぶち抜きそうな勢いで殴る音と一緒に金切り声まで響いてきた。
俺は頭痛を覚えながら、とりあえずヘッドフォンで耳をふさぐ。そして、ベットの上で壁に背中を押しつけ、目を閉じ、思い切り壁を横殴りした。
「どいつもこいつも…………っ!」
流れない涙で、胸が濡れている気がした。
それからしばらくして、家族が親を引っ張っていって、どうにか家の中が落ち着きを取り戻すのを見計らって、俺は部屋出て、途中、今をのぞき親の姿を確認した。
「……薫の家に行ってくる」
「……こんな時間にお邪魔したら、迷惑よ。また今度にしなさい」
隠すならもっともらしい顔を取り繕えよ。あからさまに電話したくないって顔しやがって。
早々に俺が玄関へ向かうと、親の罵声が聞こえてきた。
「待ちなさい、浩之!」
家を出て少しして、背後にひたすら民家が続いているのを確認して、ひとまず薫に電話をかけた。
いつも通りワンコールだった。
「もしもし、どうしたの?」
「で、どこに行けばいいんだ?」
「……困るよ。ちゃんと覚えてもらわないと」
若干低くなった声音にやや引きながら、俺は言い訳した。
「悪かったって。喧嘩したら忘れてた。つか、そっちはそっちで大丈夫なのか?」
「……ごめん。大丈夫だった? 殴られてない?」
「……別に大丈夫だ」
電話越しにほっと息が漏れる音が聞こえてきて、無性に腹が立った。
「ところで、何が大丈夫なの?」
「は? だからマグられてないって」
「ちがうちがう。僕に聞いてきたじゃない、大丈夫かって」
「……あぁ。俺がお前の家に泊まっても、うちや町の奴らに何も言われないかってことだ」
「心配しなくても大丈夫だよ。僕に抜かりがあるわけないじゃない」
「どうせまた拾って帰るとか言ってんだろ?」
「浩之くんをペット扱いする僕って、結構勇気あるよね」
「人をペット扱いすんじゃねぇよ」
「無意味なことは嫌いだからね」
「待て。今、話が飛んだぞ」
「迷惑かけたね」
「……バカか。迷惑かけてるのはこっちだ」
「じゃあ、お互い様?」
薫は笑った。
「分校に九時ね。走らないと間に合わないよ?」
「はいはい」
適当に相槌を打って電話を切る。
それにしても何の用だろうな。頼みごとなんていつものことだが、部室で頼まれるなんて初めてだった。だから聞いてみたがはぐらかされてしまい、何にもわからないままである。隠し事もいつものことといえばそうなのだが。
そんなこんなで俺はろくに前を向いていなかったので、ついつい山道を通り過ぎるところだった。木々でうっそうと生い茂って、街灯がほとんどない町の道よりも濃い暗闇に覆われていて、登り切ると、古臭い木造の校舎が出迎えてきた。
俺は一番奥の校舎の二階へ向かう。
予想通り、二階の教室の一つから明りが洩れていた。右手のジーショックは、八時五十七分を差し、とりあえず遅刻しなかったことに喜んだ。
がたがたと取りつけの悪いドアを横に引き、教室へ足を踏み入れる。すると、まず木とほこりのにおいが鼻についた。
薫は教室の出入り口に向かい合うように窓際に立っていて、ランタンでオレンジ色に染まった姿はまるで座敷わらしのようだ。
いつもなら、そのにこやかな顔に向かって悪態の一つでも吐くのだが、俺の視線は薫の近くの机に腰掛けた女へそれていた。
キャップを目深にかぶり、長い髪を垂らした小柄な女で、そいつが俺に顔を向けてくると、どこからか鈴の音が響いてきた。
「……なんでこいつがここにいるんだ?」
「面識あるの?」
薫に尋ねてみると、意外そうな顔をされた。しかし聞きたいのは俺の方である。
「お前とよく一緒にいる奴だろ。ここは俺とお前との秘密だったはずだったよな?」
「なら、話したことないんだ」
「勝手に納得すんな」
「聞けばわかるよ。そんなに怒らずに、僕からちゃんと説明もするから、ね?」
「だったら早くしてくれ。お前の長話に付き合う気はないからな」
「はいはい」
そんな態度に睨むが、薫は応えた様子を見せず、一言俺に尋ねてきた。
「誰かわかる?」
「……お前またろくなこと考えてないだろ?」
「問題ないよ」
「俺が迷惑だ!」
怒鳴って、一度息を整え、
「知らねえよ。お前の勘違いじゃねえのか」
すると、そいつはちらりと薫を一瞥した。困っているようにも見えたが、よくわからない。
年頃はたぶん俺とそんなに変わらないように見えた。
「浩之くんらしいかなー。薄情だねー。ちゃんと見た?」
「知らねえよ」
「それですまされてもねー」
仕方なく、薫に尋ねてみることにする。
「で、誰なんだ?」
「本人に聞こうよ」
その方が確かに早いだろ。精神衛生的にもだ。ただ、そんな気分にはなれなかった。が、話が進まないし、仕方ないとあきらめて、
「こいつに何かされたのか?」
「おーい。それはひどすぎなーい?」
いつもの仕返しだ。
一方女は、じっと俺を見つめてくると、やっと口を開いて、
「ちがう」
全く話の広がらない一言をこぼすだけだった。
やっぱ知らない奴だな。
それだけはわかった。
しかし、薫は情けない奴を見るような調子で俺に文句を言ってくる。
「あん?」
「人聞き悪いよ。そういうこと、他で言わないでって言わなかった?」
「知るか」
「はぁ……。にぶいねー。我慢しすぎるとにぶくなるものなにかなー?」
「で、誰なんだ」
いい加減誤魔化されるのも癪なので、睨み据えた。しかし、薫は一向に笑うのをやめない。
「それは僕の口からは言えないね。ただ、頃合いかなって思って集めてみた。なら、わかるでしょう?」
「なんだそれ。わけわかんねえ…………、絵巻?」
「正解」
はっとなる俺に対して、薫は鬱陶しいぐらい嬉しそうだ。そして、女の方もあっさりと顔をあげ、薫の言葉が真実だと知って俺はかなり戸惑った。
「……何、考えてんだ?」
「これからのこと」
「どうでもいいだろ……っ。そんなこと。俺らが関わる必要ねえだろ!」
胸が冷えて、頭が熱くなる。それでも奥歯を噛んでこらえた。
「大島くんが納得してないんだから、やっぱりやめたほうがいいんじゃない? ぼくも何も教えてもらってないし。後で教えてよ」
「待って」
「あ?」
「いずれ説明をするつもりだったよ。それが今日なわけだけど」
ということは俺の意見は無視ということか。
「あんまりにみんなが身勝手だから、ちょっとしたいたずら気分も混じっているけどね」
「……そんなことに、俺を巻き込むつもりか? それで、絵巻に変装させていたのか?」
「んー……。最初はそんなつもりなかったけどねー。僕と一緒にひと泡ふかせてみない?」
つくづく身勝手な奴だ。絵巻のほうはどう答えるつもりだ?
「ぼくは薫のしたいように任せるよ」
……頭が痛い。所詮、日和見主義か。たまには断ればいいものを。
「……今のままでいいだろ。なんでわざわざ書きまわそうとするんだよ」
「意味ないことを僕がすると思う?」
「どうだっていい。お前は賛成って言わねぇと、いつまでもぎゃーぎゃーわめくだろうが」
「信頼されてるって、いいよね」
「何がしたいんだ」
絵巻も興味がるらしく、薫を注視した。
だったら、さっさと聞けばいいだろ。と、絵巻を横目に睨みつけながら思う。
「これから二人は仲良くしてほしいんだよ」
「……もう一度」
「浩之くんと、彩子くんが、仲睦ましい関係になってもらいたいんだよ」
「何、とち狂ってやがる。んなのやったら、逆効果に決まってんだろがっ」
「どうしてそう悲観的かなぁ? 別に見せつけろって言ってないよ」
「当たり前だ!」
できの悪い奴を見るように苦笑いする薫につい怒鳴った。
「だいたい、仲よくしたぐらいで解決すると本気で思ってるのか?」
「でも、放火するほど嫌ってないと思うけど?」
「そりゃ……、そこまで嫌ってはいないだろうな」
呆れ半分、うちの親ならやりかねないと思った。
「わざわざ自分から痛い思いしに行かなくてもいいだろ。……絵巻も別にずっとここにいるわけねぇんだし」
あまい絵巻を持ち出すのは好きじゃないが、薫の説得ぐらいならいいだろう。
しかし、薫は笑いながら、
「浩之くんが思ってるほど、おばさんもわからず屋じゃないと思うよ。僕たちは僕たちで好きに仲良くすればいいんだよ」
「…………ねぇよ」
吐き捨てた。どんな顔をされようと、そんな見え透いた嘘で納得できるはずがない。
そして、薫はやっぱり笑ったまま、
「やってみないとわからないじゃない」
無性に腹が立った。でも、どうせこのまま断り続けても、薫の意志は変わらないだろう。
「……………………好きにしろ」
結局、俺が折れるしかないのだ・
「……………………」
それなのに、薫の顔色が全く晴れやかじゃないのは、なんでだ。まだ、言い足りないのか。
俺は空気に耐えられなくなって、今度は絵巻に尋ねてみることにする。
「……なぁ」
「……どうしたの?」
「それはカツラか? あと、なんで声が違うんだ?」
すると、絵巻は無造作に帽子を脱いで、髪をすきながら、
「ウィッグ。あとこれは声帯模写。ぼくのちょっとした特技だよ」
どうでもいいな。それよりも、絵巻が、少しだけだが笑っているのが新鮮だ。そして、じっと見ているのを不審に思ったのか、絵巻が小首を傾げた。
「別に。そのぼくっていうのも変装か? いくらなんでも、そのほうが目立つぞ? ま、もしくは薫の趣味か」
「これは元々だよ」
「それ僕に失礼だよね?」
にこやかな顔して怒るな。
「ま、浩之くんが知らないのは当然だよねー」
薫は無視。
「なら、なんで普段は違うんだ」
「それは薫のおばさんたちに、これから社会うんたらかんたらって言われたからね」
薫を見ると、やたらにこにこと笑っている。どう見てもふざけた態度だ。
「お前のことは、本当に……」
「楽しいよ?」
「どうせ、その服も薫の趣味なんだろうな」
「人聞きわるー。僕だけど、言い方がわるいよー」
言ってることと裏腹に笑っていて鬱陶しい。
「もう普段からコンタクトにしたらどうだ? あれはひどすぎる」
「だから、変装してるんじゃない。ギャップが大切なんだよ? 普段制服だからより効果的になってるしねー」
「普段もか! ということはあのメガネもか」
「そうだよー」
なぜ誇らしげだ。
「しかも、伊達だからいつでも変装できるんだ。便利だよねー」
「どこ行っても変装とか、さすがに息苦しいだろ」
しかし、絵巻はしれっと言った。
「結構、面白いよ」
呆れた。こんなくだらないことに行動できる薫と、それに従順な絵巻に。
「……いつからだ」
「そうだね……。秋子くんがこんな風になってからだから…………、小六のときに秋子くんが引っ越してきてすぐかな」
…………俺が悪いんだろうな。