「弾けない」、と言った言葉は頑なで、それ以上譲る意志はないように思えた。
けれど、それがどうしてか解からなくて、アイズは怪訝そうに形のいい眉を寄せる。
彼の弾く演奏を、アイズは以前に一度聴いたことがあった。それは特殊な状況下においてだが――その時は確かに見事な音色だと思ったし、腕前において謙遜する必要がない事は明白だ。たとえ彼自身が、充分に満足していないにしても。だから、人前で弾くのを恥じ入ってなどという可愛い理由は有り得ない。
初対面で演奏を求めたときに断られた理由もそうだが、彼がピアノを弾かない理由があるとすればそれは、間違いなく彼の兄が関ってくる。しかし、この場合はその理由故にではないように思われる。何故なら、作戦の一環とは言え、彼は一度自らの意志でピアノに向かったし、その戦いを経てからは兄に対して顔を背けることをしていない。逃げないと、決意したのだと思うが、それならばピアノに対しても同じことが言える。比べられることや敵わないことを恐れて弾かないのであれば、それは「逃げ」だ。そうしないと決めた彼が、「ピアノを弾くこと」から逃げるとは思えない。
そして何より―――

「…俺が来る前は、弾いていたように思うがな」

それともそれは幻聴か。
問いかけても、返る応えはない。けれどそれを聞くと彼はどこか、バツの悪そうな、困ったような顔をした。

ピアニストであるアイズが、生の音とCDなどの録音器具から流れる音とを間違える筈もない。ここにはテレビもステレオコンボもあるが、先ほど廊下を歩いて来る時に微かに聞こえた音は、確かに生のピアノの音色だった。
そして何より――これが一番文句としては大きく疑問としては正当なのだが――そのピアノの音色を聴いていた人物が、確かにこの部屋に居たのだ。廊下で擦れ違って声までかけられたのだから、間違いない。此処は自分の借りている部屋だが、仲間同士ではたまに作戦会議場、もしくは避難場所として使われることがある(避難の意味は様々だが)。今回の場合は自分が彼――鳴海歩に用があったから此処に呼んだのだが、突然仕事が入って、帰って来るのが遅くなるから、先に入って待っていてくれるよう告げた。一人じゃ勝手に入れないだろうから、出入り自由にしてあるメンバーに付添いを頼んで。ついでにおさげ髪の少女も居たようだが、別にそれは構わない。

問題は、そいつらには演奏を聞かせていたのに、何故自分には聞かせられないのか、という事だった。

(……待て、「弾けない」と言ったな。)

弾かないではなく、弾けない。
そのニュアンスの違いを改めて考えて、アイズは彼に問いかける。

「調子が悪いのか?」
「別に」
「……俺が来る前に指を痛めた、とか」
「…怪我はしてない」
「なら、病気か?」
「そしたらこんな所に居ないで帰るさ」

尤もだ。しかし、それでは理由がわからない。
先ほどまではともかくとして、今、調子が悪いなら確かに「弾けない」だろうし、それなら無理強いをするつもりはない。
だが、コンディションに問題がないのであれば、身体的な意味で「弾けない」の言うのではないとすれば、後は何だ。――精神的な意味で問題があって弾けないとでも?「兄」という枷も今の彼にはないのに、一体何が理由で弾くことを拒むのだろう。
結局、疑問は堂々巡りになる。
ハァ、とアイズは小さく溜息を吐いた。

「まさか、俺に聴かせるのは嫌だと言うんじゃないだろうな」

彼は、ピアノから少し離れた位置にある椅子の上に座って、あらぬ方を向いている。

「さっきは他の人間に聴かせていた。学校では、頼まれれば演奏を披露するまでになったと聞いているが?」
「……あのおさげ娘、余計な情報を……」

ぼそり、と彼が零す。
今まで頑なに人前では弾かなかったものが、自然に演奏するようになったらそれは話題として取り上げたくなるのは当然で、 あの娘に罪はないと思うのだが。

「それなのに、俺が求めるのには『弾けない』と言うのか」

足音を立てず静かに素早く近づいて、その片腕を取れば、驚いたように彼が此方を振り向く。
初めて会った時と似たようなシチュエーションだな、と頭の隅で認識しつつ、掴んだ手首を引き寄せると、

「言い方が気に入らなかったか?」
「…っ…はな、」
「『弾いてみせろ』ではなく『弾いて欲しい』とでも乞えば、弾く気になるのか」

言って、手首を握った手を放す。替わりに音を生み出すその指先に触れれば、途端に手を振り解かれた。

「放せっ」

それが思ったより必死で勢いが強かった所為で、アイズは彼からの”拒絶”を感じて固まった。
――けれど、それは一瞬だった。次の瞬間には、彼が少し…頬を紅潮させたような様子で、まっすぐに傍に立つアイズを見上げていたからだ。その眼には嫌悪や敵意は勿論、牽制は見当たらず、逆にアイズは当惑した。
そして、何処か不機嫌さを滲ませた口調で、歩が独り言とも取れる言葉を零す。

「まったく、天然で性質(
たち)の悪い…」
「…?」

先ほどとは反対に、今度は彼が小さく溜息を吐いている。
そうかと思えば、真顔に戻って今度は質問を投げかけてきた。

「あんた、何で不機嫌そうなんだ?」
「……」

それは俺がお前に訊きたいとか、今までの流れで判るだろう、と思いつつ、アイズは生真面目に応える。

「お前がピアノを弾くことを嫌がるからだ。しかも、他の者の前では快く弾いたくせに、俺が頼んだ時は『弾けない』、とくればな。原因があるのなら納得も出来ようが、今のところ理解に苦しむ」
「……原因がない訳じゃないんだけどな」
「なら、その原因とやらを言ってみろ」
「断る」

きっぱりと答える彼の眼差しは強いもので、「弾けない」と言った時と同様、翻す気がないのが窺える。
それに何かを言い返そうとしたアイズの言を遮って、歩が淡々と言った。

「弾けないし、言えない。俺に言えるのはそれだけだよ」
「……それで俺が納得すると思うのか?」
「そんなにムキになることはないだろう。…今は他の奴に言われたって弾けないし、弾く気はない」
「なら、俺に聞かせたくない訳ではないのだな」
「………」
「それともやはり、イヤなのか?俺に聴かせる音はないと?」
「、違う!そんなんじゃない」
「なら何故だ」
「話を蒸し返すな。大体、俺の音なら”あの時”聴いただろう。改めて聴かなくてもいい筈だ」
「素晴らしい演奏をもう一度この耳で聴きたいと願うのは、当然の欲求だと思うがな」
「……っ」

正面から目を覗き込んでそう言えば、彼が言葉を詰まらせたのがわかった。
それでも、こんな風に問い詰めてみても、彼に弾く気がないなら聴きたい音を弾かせることは叶わないと解かっていた。解かっていたが、それでもアイズは言わずにはおけなかった。
こんな、まるで、自分の前では弾きたくないと言うような態度を取られて。
他の者には聴かせられるのに、自分にだけは――嫌なのだと、拒絶されたような気になって、そのことに、アイズは傷ついた。傷ついていると、自覚した。だからこそ、言われた通りムキになる。

「……話があるんじゃなかったのか」

アイズから目を反らした彼が、苦し紛れに別の話題を持ち出す。
とは言っても、本来ならば用があると言って呼び出した以上、そちらが本題であり優先されるべきだったが。
「大した話じゃない。後回しだ。」
「なら帰る」
「帰すと思うか」
「…無茶苦茶言うな。冷静になれよ、何をそんなに不機嫌になってるんだ?」
「大した理由もないくせにその理由は言えないと頑なに拒否する。どちらが無茶苦茶だ?」
「……大した理由じゃないと勝手に決めつけるな。少なくとも俺にとっては譲れないだけの理由が」
「そんなものが何処にある?コンプレックスを捨てる覚悟をして、その証拠とばかりに他の者の前では憂慮なく弾いてみせて、なのに俺の前では弾けないだと?…調子が悪い所為でもなく、指を痛めている訳でもない。身体に問題がなくても気分的に乗らない時があると言うのはわかるが……だが、それにしてはお前の態度は頑なだ。気分次第なんて曖昧なものじゃないだろう」
そこまで一気に言い募ると同時に、立ち上がろうとした歩の肩をアイズが抑える。刺々しい声と真剣な眼差しと、その肩に置かれた手に篭められた力に、問い詰められる形になった歩は戸惑って、顔を強張らせる。
「…っ…ラザフォード、」
「それなら原因とやらは自ずと限られてくる。明白だろう。
 ――お前は、俺の前で弾くことを拒絶しているだけだ。俺に聴かせるのが嫌なだけだろう」

つまり原因は自分、「アイズ=ラザフォード」で。
理由は解からないが、今の状況ではそれしか考えられない。

「それで大した理由だと言うなら、聞かせて欲しいものだな」

極め付けに芯から冷たい声でそう言って、アイズは肩にかけていた手を離した。
そこまで嫌がられる理由は判らないが、まあ今までを振り返れば解からなくもないし、理由がどうであれ拒絶されたことには間違いない。結局自分の機嫌の悪さもそこから生まれてきているのだと分かったが、分かったところでどうしようもない。――そう結論づけると、確かにこれ以上むきになるのも意味がないので、アイズは頭を冷やそうと彼から視線を外した。


だからその時、彼は気付いていなかったのだ。
その言葉に突き放された歩が、どんな表情をしていたのかということに。


「……詰まらないことで時間を取らせて済まなかった」
暫くして、気を取り直してそう声をかけるが、歩からの返事はない。
「本来の用件に戻ろう。と言っても、先ほど言ったように急ぎではない。もし気が乗らないなら日を改めるが……どうする?」
「……それなら、」
後日に。
掠れた声でそう言って、今度こそ歩が席から立ち上がる。それを、無理に止める気も起こらなかった。
必要時ならば場の空気になど構ってはいられないが、通常時でこの空気は流石に気まずいだろう。それはアイズとしても同じだったので、正直、後日に延ばせてほっとした面もある。
しかし、どっちみちまた顔を合わせるのなら……同じことか。
ピアノの横を通り過ぎて、歩が部屋の出入り口へと向かう。しかし、ドアの前で足を止めると、逡巡するように黙って立ち尽くし――それから、くるりと振り返って一言 言った。

「別に、あんたのことは嫌いじゃない」

アイズが目を瞠る。

「今日は悪かった。誤解されるような態度取って……あんたが気を悪くするのも当然だな」
続いてそのように言って、穏やかな苦笑を歩が見せる。それに少し安堵して、蟠っていた氷塊が急に解けたような気がして、アイズも心持ち穏やかな声で応えた。
「いや、いい。熱くなったのは俺の方だ。無理を言って…すまなかった」
彼にしては珍しく、素直にそう詫びてから、少し躊躇った後……訊いてみる。
「――ならば、今度気が向いた時にでも、弾いてくれるか…?」

すぐでなくてもいい。いつか、の話でもいいから。

そんな思いを篭めて訊ねてみれば、彼が一瞬目を丸くした。それからすぐに、迷うような顔をする。その表情を見て、やはりダメか…とアイズが思いかけたとき、
「やっぱりたちが悪いな」
「、何?」
咄嗟に何を言われたのか分からなくて、呆けた顔をしてしまう。
「降参だ。……あー、こっちの話だから、気にするな」
気にするなと言われても。
本気で戸惑ってアイズが眉を顰めれば、何やら宙を仰いでいた歩が、不意に此方を向いて微笑を見せる。それが、初めて見る屈託のない笑みだったので、アイズは瞬間――固まって見惚れた。
そして、

「弾けるようになるために、覚悟を決めて来るよ」

何のことだか分からない。
けれど、彼は吹っ切ったような、妙に爽やかな顔をしている。

「告げる覚悟もないのに、先に音でばれたらどうしようもないからな。……でも、決めた、から」

そう言うと、歩はドアの取っ手に手をかけた。
「近いうちにまた来るから」
あ、今日の本題もその時に聞くからな。
それだけ告げると、後はもう用はないとばかりに、颯爽と部屋を出て行く。
残されたアイズは、暫く茫然としていた。本当に、何が何だかわからなかったのだ。しかし……彼の笑顔を見る限り、それは悪いことではないように思えた。更には、それを見たときから妙に心拍数が上がっていて、頬が熱くて、落ち着かなかった。

「何…だったんだ?」

彼が自分の症状を含めてその理由と答えを知るのは、もう少し先のこと。












end.

















---砂音様コメント---
*一宮由香さまへの相互リンク御礼として書きました、ラザあゆSSです。

……ってラザあゆになってないじゃん!!(自分で突っ込んでおく)
ぐあー、プラスな雰囲気。むしろ一歩手前状態。…えーと、言い訳は多々あるのですが、両思いです(いきなりか)。歩君は自覚してて、アイズは多分、無意識に!
実は元ネタがあるんですが、「外科室」ですとか言って誰か分かるんでしょうか(笑)イズミキョウカ作。(あえてカタカナで(^^;)当然内容は全く違いますけど、その、話の中に出て来る女性が、手術するから麻酔かけなきゃいけないのに、どうしても嫌がるんですね。それは、麻酔で意識が混濁してる時に、好きな人の名前を言うのが嫌だからという理由で。その相手は同じ病室にいる(つか執刀医な)んですが、だから絶対自分は寝言でも言うから嫌だって。思い込んで、譲らないんです。
えーとつまり、これを転換して、歩君的にはアイズが側に居てその状況でピアノを弾けば、絶対に「好きだ」という気持ちがその音色で相手にばれると思い込んでいて、だから嫌がったのだと、そういう訳です;; だから、自分の口で先に言えれば、もう弾けるんですよね(^^;
せ、説明しなきゃわかんない内容でごめんなさいっ!;
こんな長い言い訳は久しぶりだー(泣)うう、お粗末様でした。

(2004/7/27)



っきゃー!!(>▽<)/
こんな素敵なラザあゆ頂いちゃいました!
砂音様に相互記念の駄文差し上げ(むしろ押しつけ)たら、
ドリームジャンボ級になって返ってきました!
う〜む、我が人生、常にエビでマグロかクジラを釣ってる気がします。

人様の素敵文章や素敵イラストでこのサイトも豪華になっていきますねぇ。
感謝の限りです。


ではでは砂音様、素敵ラザあゆしかと飾らせていただきました!
本当にありがとうございます〜!



04.7.30  一宮由香 記



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