「何だよ母さん、急に飯を食いに来いだなんて」
中嶋は対面でご飯をよそってくれた若い女性の顔を見つめた。
彼女は中嶋――旧姓若林――瀬奈22歳、剣の継母である。
父・大丸が再婚した当初は自分より6歳も年下の彼女のことを「母さん」と
呼ぶことにはかなり抵抗があったが、今ではもうかなり慣れてきた。
さすがに人前では「瀬奈さん」で通しているが、身内だけの場合は
それほど抵抗なく「母さん」と呼んでいる。
「あら、別にいいじゃない? それとも何か用事でもあったの?
美幸さんとデートだとか」
「べっ、別にそんなんじゃないけどさ」
中嶋がそっぽを向き、瀬奈がおかしそうに笑った。
食事を終えて一息ついていると瀬奈が箪笥の引き出しから封筒を取り出し、
中嶋に渡した。
「はい、これ。剣くん、確か今度の日曜日が誕生日でしょ? プレゼントよ」
「プレゼント? いいよそんなもの、この歳になって」
「いいから、いいから」
瀬奈は渋る中嶋に無理やりそれを押し付けた。
「いったい何なんだよ、これは?」
封筒の中身を取り出してみると、どうやら何かのクーポン券のようだ。
「実は今日、商店街の福引で当てたの。姥島温泉の椿荘ってところの宿泊券よ」
「姥島温泉? 温泉なんかそんなに興味があるわけじゃないし、別に俺はこんなもの
いらないよ」
瀬奈は意味深な笑みを浮かべ、思わせぶりに言った。
「そうねえ・・・・ 剣くんは興味はないかもしれないけど、美幸さんはどうかしら?」
「ど、どうしてそこに小早川が出て来るんだよ」
「剣くん、よく見てよ。それ『ペア宿泊券』なのよ」
「ぺ、ペアって・・・・」
「これってチャンスだと思わない? 剣くん」
「チャンスってどういう意味だよ?」
「だからあ、美幸さんと二人で行ってくればいいじゃないの。
あら、これ、もしかして婚前旅行ってやつ?」
お茶を飲みかけていた中嶋が思わずむせ返った。
「こ、婚前旅行って! な、何、言ってんだ、母さんっ!」
「だって恋人同士が結婚前に2人で行く旅行なんだから婚前旅行で間違いないでしょ」
「だ、だから、そういうことじゃなくて・・・・ だいいち、こんなものが当たった
んなら、オヤジと2人で行ってくればいいじゃないか」
「あら、私達はそんなことしなくてもラブラブだもん。ねえ、大丸さん」
大丸が照れくさそうに苦笑し、瀬奈がもう一度中嶋を振り返り、真剣な顔になった。
「そりゃあ剣くんが美幸さんの事を本当に大切に思っているのは知ってるわよ。
だけど決めるべきところで決めないと、男と女の仲なんてどう転ぶか分かんないわよ」
「・・・・」
「剣くん、ホントはっきりしないんだから。そんなことじゃ美幸さんに
愛想尽かされちゃってもしらないわよ。それにいつまでもぐずぐずしてると、
どんな男に美幸さんを奪われちゃうかわからないわよ」
「奪われるって・・・・ そんなことは・・・・」
「だって美幸さんはあんなに美人でスタイルも抜群。仕事もできる上に家事は万能、
性格も家庭的なのよ。女の私から見たって惚れ惚れするくらいの素敵な女性なんだ
から、剣くん以外にも想いを寄せている男がいないと思うの? いつまでも悠長に
構えてると最後の最後でどんでん返し、なんてことになっても知らないわよ」
「それは・・・・」
答えに詰まる中嶋。
美幸は警察官として非常に有能で、交通課の同僚達はもちろん、捜査課のベテラン
徳野などからも絶大の信頼を寄せられている。
また相棒の辻元夏実とのコンビで交通課の範疇を超えた様々な事件解決に貢献し、
その勇名は墨東署以外にも広く知れ渡っている。
さらに瀬奈に言われるまでもなく、誰もが認める文句なしの美人でスタイルも抜群、
まさしく才色兼備の典型といえた。
そして、この手のことに疎い中嶋の耳にも美幸に想いを寄せる男がいることを
わざわざ教えてくれるおせっかいでおしゃべりな同僚――二階堂頼子――がいる。
彼女によると墨東署内だけでも美幸に好意を寄せている男は片手の指の数では
足らないらしい。
実際、モーションをかけてきた男もいたのだが、美幸はすべて振ったのだという。
――まったく美幸も男の趣味だけは分からないのよね。
美幸ならいくらでもいい男をよりどりみどりなのにさ。
よりによっても中嶋くん、だもんねえ。こんな鈍感で根性無しのへたれの
どこが好きなんだか――
頼子の言い草もひどいが、そのことは中嶋自身だって分かっているのだ。
「(俺と小早川は・・・・)」
中嶋が小さくため息をつき、二人のこれまでを思い出していた。
──────────────────
墨東署交通課に新人婦警として赴任してきた美幸に中嶋が一目惚れして以来、
彼女とはいわゆる「友達以上恋人未満」の関係が長く続いた。
互いに意識しあいながらも、仲はなかなか進展せず、周囲をやきもきさせて
いたが、それでも様々な紆余曲折をへてようやく中嶋から想いのたけを告げ、
二人が課内公認の恋人関係になってから半年以上経つ。
それまでは美幸をデートに誘うだけでも中嶋にとっては一大事だったが、
今ではそんなことはない。
それに最初はこぎつけるまで散々苦労したキスも、てらいなく自然にかわせる
ようになってはいた。
だが・・・・ そこから先にはなかなか踏み込めず、いまだに2人は男と女の
関係には至っていなかった。
そんな2人のあまりのじれったい進展ぶりは交通課署員全員の興味の的となって
いいゴシップネタとされ、揶揄の対象とすらなっていた。夏実からは
「じれったいったらありゃしない。アンタ達本当にいい歳した大人なの?
それじゃまるで高校生の恋愛ごっこよ」
と叱咤(?)され、はたまた頼子からは
「甘い、甘すぎるわよ、夏実! 今時の高校生なんてもっとずっと進んでるわよ。
せいぜい中学生レベルがいいところじゃないの」
などとダメを押される始末だ。
特に中嶋に対しては当たりがきつく夏実は半ば本気で
「ホントに鈍感で根性無しのへたれなんだから・・・・ 中嶋くん、アンタも男なら
思い切って美幸を押し倒すくらいの根性を見せてみなさいよ!」
などと、過激なことまで言ってくる。
確かに2人そろいもそろってこの手のことにかなり奥手な性格ではあったが、
だからといって中嶋に全くその気がなかったわけではない。
中嶋だって若く健康な男であり、人並みに性欲だってある。
愛しい恋人とのセックスを望まないわけがないのだ。
実際今までにそのチャンスは何度かあったのだが、そのたびに何やかやとトラブルに
巻き込まれたり、邪魔が入ったり、はたまた最後の最後で自分自身がへたれたりと
結局まだその思いを果たせずにいたのだ。
そんな状況において、周囲からの揶揄に、そしてそんな自分自身に忸怩たるものを
感じている中嶋であった。
「聞いてる、剣くん?」
「えっ?」
瀬奈の声で我に返った。
「それにこれは私の勘なんだけど、美幸さんも剣くんのプロポーズを絶対待ってると
思うのよ」
「プロポーズって・・・・」
「さっきも言ったけど、剣くんが美幸さんの事を本当に大切に思っているのは知って
るわ。だけどこういうことは勢いも大事よ。チャンスは一発で決めないと案外こじれ
ちゃうもの
なんだからね。ほら言うじゃない。『チャンスに後ろ髪はない』って」
「そりゃそうかもしれないけどさ・・・・」
いっこうに煮え切らない中嶋に瀬奈は焦れたように声を大きくした。
「ああっもう! 剣くんは美幸さんと結婚したいの、したくないのっ!」
「だ、だから、そ、それはそう簡単な話じゃ・・・・」
中嶋は助けを求めるように大丸に視線を送ったが、
「まあ、なんだ。俺もそろそろ孫の顔も見てみたいし、それに美幸くんにだったら
『義父(おとう)さん』って呼ばれるのも悪くないしな。ここは瀬奈の言う通りに
したらどうだ? だいたいあの娘(こ)はオマエには本当にもったいないくらいの
相手なんだ。オマエなんぞのどこを気に入ってくれたのかはわからんが、
こんなチャンスを逃したらきっと後悔するぞ」
と、返ってダメを押された。
「オヤジまで何だよ・・・・」
さらに瀬奈がとどめを刺した。
「簡単な話じゃないの。だから温泉旅行に誘ってそこでプロポーズすればいいのよ。
それにこの宿はこの前テレビで紹介されてたけど、周囲の景観は抜群だし、
ひなびた雰囲気もすごくいいし、素敵な露天風呂はあるし、もうプロポーズするには
最高にロマンチックなシチュエーションがそろってるのよ。そういうわけだから、
ちゃんとこれで美幸さんを誘いなさい、分かった、剣くん?」
瀬奈は中嶋に宿泊券を押し付け、さらに加えた。
「言っておくけど、絶対に美幸さんと2人きりで行かなきゃだめよ。
これはいいチャンスなんだから。言ってる意味、分かるわよね」
結局、瀬奈に押し切られる形で宿泊券をもらって帰途につくことになった中嶋。
「それじゃあ、俺は帰るから」
「うん、気をつけてね」
瀬奈が玄関まで見送りに出てきた。そして背を向けた中嶋に向かってもう一度呼び
かけた。
「剣くん」
「うん?」
振り返った中嶋に意味ありげに瀬奈が笑った。
「そこの温泉の効能、何だか知ってる?」
「いや、知らないけど」
「色々あるんだけど、中には・・・・」
「中には・・・・ 何だよ」
「子宝に恵まれるんだって」
「子、子宝!」
「そういうわけだから剣くん、頑張ってね。私も早く孫の顔を見てみたいから」
「なっ! ま、孫って・・・・ 何言ってんだよ、母さん!」
「それに私、美幸さんとだったら絶対うまくやっていけると思うんだ。
ほら、嫁と姑の関係ってやつ」
「嫁姑って・・・・ ええっ〜」
何か言いかけた中嶋の目前で玄関のドアは閉まった。
「はあ〜 まったく余計なおせっかいだっつうの」
そう一人ごちた中嶋だが、ふと思い直した。
「(チャンスか・・・・)」
確かにいいチャンスかもしれない。
美幸を婚前旅行に誘い、プロポーズする。
そして美幸はきっとそれを受け入れてくれるはずだ。
──────────────────
翌朝始業前、交通課内では相変わらず頼子の甲高い声が響いていた。
今度の休みに行く行楽先について情報誌を開いて葵に力説している。
「今の季節なら絶対温泉で決まりよっ!」
「はあ・・・・ そんなもんですか」
「そうよ。紅葉がきれいな季節だし、寒くなるし、温泉が一番だって。
ねえ、美幸、夏実、あなたたちもそう思うでしょ?」
「アタシは美味しいお酒と料理があれば別にどこでもいいけどね」
夏実が気のなさそうに答えた。
「もうっ! 夏実はいつもそうなんだから。じゃあ美幸はどう?」
「そうねえ・・・・ 確かに今の季節なら温泉なんていいかもね」
「でしょでしょでしょぉ! さっすが美幸、よくわかってるわ」
頼子が我が意を得たとばかりに大きく頷く。
「それで頼子さんのお勧めはどこなんですか?」
葵が情報誌を覗き込みながら尋ねた。
「えーと、○○温泉に△△温泉に・・・・ それに□□温泉も捨てがたいわね」
頼子は近場のいくつかの温泉の名を挙げた。
「でもねえ・・・・ 本当のお勧めは姥島温泉ってとこなのよ」
「(姥島温泉?)」
思わず中嶋の腰が浮いた。
「この前、テレビで紹介されてたそこの一軒宿がすごくいいのよ。
景観はいいし、露天風呂はあるし、ひなびた雰囲気も最高だったわ。
でもちょっと遠いから日帰りは絶対無理だし、それに宿泊は一日3組まで
限定っていうのがネックなのよねえ。えーと、なんていう旅館だったかなあ
・・・・」
美幸がそれに呼応した。
「椿荘よ」
「ああ、そうそう椿荘、椿荘。何だ、美幸もあの番組見たの?」
「ええ。確かにひなびた感じのいい雰囲気の温泉だったし、
露天風呂もなかなかよさそうだったわね」
「でしょぉ〜 でもさ、やっぱりこういうところには、女友達なんかとよりは
恋人と二人でしっぽりってのが理想よねえ」
「何言ってるのよ、頼子。アンタにはそんな相手なんかいないでしょうが」
夏実がちゃかした。
「あっ、ひっどいー! そりゃ、夏実には東海林さんがいるからいいけどさ」
東海林将司――現在富山県警山岳警備隊に所属し、夏実とは遠距離恋愛中の
年下の恋人である。
「へへ、どう。羨ましいでしょ?」
「で、でも、アタシだってその気になればいつだって相手は見つけられるんだか
らねっ!」
「どうだか。アンタより沙織ちゃん方がずっと可能性が高そうだけどね」
「ええっ? わ、私ですか。私なんか全然だめですっ。それに今の私にとっては
仕事が恋人みたいなものですから、そんなの作る暇なんかありませんっ!」
沙織の気張った宣言に周囲から笑いがこぼれた。
しかし、そこで葵が中嶋と美幸を振り返り、何気なく言った一言が部屋中の空気を
一変させた。
「ところでお2人は一緒に温泉旅行とか行ったことないんですか?」
「なっ! 何言ってんだっ! オマエはっ!」
「そ、そうよっ! 何言ってるのよ、葵ちゃんたらっ!」
慌てふためく2人を尻目に頼子が訳知り顔で言う。
「ないない、そんなことあるわけないじゃない、葵ちゃん。
だいたい中嶋くんに美幸を2人きりの温泉旅行に誘う度胸があったら、
とっくの昔にゴールインしてるわよ。ねえ、夏実?」
「そうそう、本当にいい歳して2人とも高校生・・・・
あ、いや、中学生レベルだもんねえ」
そこへ課長からの叱責が飛んだ。
「辻本、二階堂! おまえらいつまでしゃべくっとるんだ。いいかげんにせいっ!
ほら、他のみんなもさっさと仕事にとりかからんかっ」
慌てて部屋を出て行く署員達。
これも毎朝の定例行事みたいなものだ。
彼らと入れ替わるように刑事課の徳野が部屋に入ってきた。
「聞いてたよ。あの2人は相変わらずのようだな」
「まあな」
苦笑する課長。
「互いに惚れあってるんだろ? それなのに何をいつまでもぐずぐずしとるんだ、
あいつらは?」
「2人そろってあの性格だからな。でもあいつらのことが気になって仕事が手に
つかんやつらもいるくらいだから困ったもんだ。早いとこ収まるところに
収まってくれんとなあ」
徳野は椅子に腰を下ろしポツリとつぶやいた。
「だいたい中嶋の腰が引けすぎてるんだ。こういうことは男からどんといかんとな。
だいたい男は惚れた女を押し倒すくらいの多少の強引さがあった方がいいんだがな。
俺なんか今のかみさんに・・・・」
「おいおい徳さん、それは警察官が言うセリフじゃないぞ」
「いやあ、そうだったな。でもなんだ、中嶋には一度男の何たるやを聞かせてやらんと
いけんかもなあ」
──────────────────
お昼休み。
「よし、これでいいわね」
夏実のモトコンポのチューンアップも一段落し、一息ついている美幸に
背後から声が掛かった。
「こ、小早川っ」
振り返ると緊張した面持ちの中嶋が立っていた。
「あら、中嶋くん、どうしたの?」
「ちょ、ちょっと話があるんだけど」
「話? 何?」
中嶋はポケットから例の宿泊券を出した。
「じ、実は瀬奈・・・・」
そこで言いよどんだ。
「瀬奈さんがどうかしたの?」
「い、いや・・・・」
瀬奈からは絶対自分からもらったものだと言うなと釘を刺されていた。
「そ、その、この前、商店街の福引で温泉の宿泊券が当たってさ」
「温泉の宿泊券?」
「ほ、ほら、朝、頼子が言っていた姥島温泉の椿荘ってとこの」
「えっ! そ、そうなのっ?」
「そ、それでさ・・・・・」
30秒の沈黙。
「その宿泊券、実は・・・・ペア、なんだ」
「ペア・・・・」
美幸の強い視線がまっすぐに中嶋を射抜いた。
「そ、それでその・・・・」この期に及んでもまだ言いよどむ中嶋。
「そ、それで、何?」美幸の声もわずかに緊張で震えている。
中嶋は大きく一つ深呼吸して覚悟を決め、思い切って言った。
「こ、小早川っ!」
「はっ、はいっ!」
「お、俺と一緒にその温泉に行ってくれないか?」
「えっ?」
「そ、その・・・・ つまりだな・・・・ 辻本や頼子達と一緒じゃ
なくて・・・・」
美幸の大きな瞳がより大きく見開かれた。
「それは・・・・ 中嶋くんと2人きりでってこと?」
「ああ、そ、そうだ」
美幸はくるりと背を向け、バイクの前にしゃがみこんだ。
「こ、小早川?・・・・」
戸惑う中嶋。
「中嶋くん」
美幸が一息ついて振り返った。
「お、おうっ・・・・」
美幸は頬を赤らめながら、小さくだがはっきりと言った。
「うん・・・・ わかった。いいわ、中嶋くん。一緒に行きましょ」
中嶋が立ち去ると、美幸はしゃがみこんだまま右手を左胸にそっと当てた。
心臓がドクドクと鼓動を早打ち鳴らしている。
「(これって・・・・)」
2人きりで泊りがけの温泉旅行。それが何を意味するかは明白だ。
そして中嶋が立ち去り際に言った言葉が脳裏に蘇った。
――そ、そこで、小早川に大事な話があるんだ。
『大事な話』――2人の間でその言葉が意味することはひとつしかない。
まだ身体の関係こそなかったが、お互いの気持ちは十分通じ合っているし、
中嶋との結婚は当然意識していた。いや、美幸は中嶋からのプロポーズを
ずっと心待ちにしていたのだ。
「婚前旅行・・・・か」
その旅行でおそらく中嶋からプロポーズされる。
そして・・・・ 彼と初めて身体を重ねることになるだろう。
「(中嶋くんに・・・・)」
中嶋に穢れない裸身を委ね、愛し合い、互いの歓喜と絶頂の中で一つになる――
そんな赤裸々な姿を想像して、思わず顔を赤らめた美幸の背後から再び声が掛かった。
「美幸ぃ〜」
「えっ、何っ?」
振り返った美幸の前に夏美がきょとんとして立っていた。
「美幸、もう昼休み終わるよ」
「えっ、ああ、そうね。早く着替えなくちゃ」
「どしたの、美幸? 顔が赤いけど?」
「な、何でもないわよっ!」
「そう。そういえば、さっき中嶋くんとすれ違ったけど、随分とゴキゲンだったわね。
何かあったの?」
「べ、別に知らないわよ、中嶋くんのことなんか」
「ふーん、ホントにぃ?」
訝しげな夏実の視線を避け、美幸は車庫のシャッターを締めるとわざと大声で言った。
「ああっ、早く着替えてこなくちゃ、昼休みが終わっちゃう」
その夜、美幸の携帯電話に母親から電話が掛かってきた。
用件は半年ほど前と同じ、お見合いを勧めるものだった。
――お母さん、悪いけどその話は断って。
――でも美幸、そりゃあまたお父さんの義理がらみで持ち込まれた話なんだけど、
今度のは本当にいいお話なのよ。美幸が今の仕事に一生懸命なのはわかるけど、
そろそろ一度お見合いくらいはしてもいいんじゃないの?
会ってみてどうしてもあなたの気が進まないのならそれはそれでいいし、
私もお父さんも無理強いはしないから。
――ううん、そういうことじゃないの。仕事とは関係ないわ。プライベートな問題よ。
――えっ、プライベートって・・・・ じゃあもしかしてあなた、今つきあっている
男性(ひと)がいるの?
中嶋のことはまだ両親には話していない。
美幸は一瞬言いよどみ、一拍置いてから答えた。
――うん・・・・ まあね。
――あらそうなの。それでその相手の人も警察官なの?
――うん、同じ交通課の同僚よ。
今度は母親が一拍置いてからたずねてきた。
――それで美幸、その相手とは・・・・ 結婚とかまで考えてるの?
再び美幸は一瞬黙り込み、すぐに決意したように言った。
――うん・・・・ でも今はちょっと待ってて。もう少ししたらちゃんと2人に
紹介できると思うから。
――そう。分かった。そういうことならこっちの話は断っておくわ。
――うん、お願い。だけどお見合いしなかったらお父さんの立場が悪くならない?
――大丈夫、大丈夫、そこは何とかなるから。美幸は心配しないでいいのよ。
――ありがとう、お母さん。お父さんには謝っておいて。
――ええ。だけどいいのよ。お父さんだって本音を言えばまだ美幸を手放したくは
ないんだから。父親なんてそんなものよ。でも美幸がその彼氏を連れてきたら
驚くでしょうねえ・・・・ ああ、そうそう、その彼氏の名前は何て言うの?
――中嶋くん・・・・ 『中嶋剣』っていうわ。
――そう。じゃあその中嶋くんに会える日を、母さん楽しみにしてるから。
美幸は電話を切るとひとつ息をつき、謹厳実直な父親の顔を思い出した。
「(お父さん・・・・ 中嶋くんのこと気に入ってくれるかしら?)」
戻る 作品トップへ プロローグへ 第二章へ