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英理はベッドに横たわったまま身じろぎ一つせず、生気の消えた虚ろな瞳で ただ天井をじっと見つめている娘を見やった。 蘭は意識を取り戻して以来、まるで無表情という仮面をつけたかのように その顔からは全ての感情が消えうせていた。 英理がいくら呼びかけてもほとんど返事すらせず、あの天真爛漫で快活な 美少女の面影はいまやどこにもない生ける屍に近い状態だ。 穢れない無垢な身体をさんざん弄ばれ、その純潔をレイプで散らされた上に、 10人近い男に相次いで輪姦されたのだ。清純な美少女の心を殺すにはあまりに 過ぎた試練だろう。
「(蘭・・・・ どうしてこの娘(こ)が・・・・)」
心身ともに深い傷を負った娘。若さゆえに身体の傷が癒えるのは早いだろうが、
逆ににそれゆえ、心の傷から立ち直るのは容易ではあるまい。
そしてたとえ立ち直れたとしてもPTSDの心配もある。 それでも自分と小五郎が時間をかけて、蘭を見守り慈しんでいくしかない。 最初に小五郎から事情を訊いた時、英理は言葉激しく彼を責めた。
――あなたが一緒に行っていれば、蘭がこんな目に遭わなかったはずじゃない! 蘭が・・・・ 蘭が・・・・ こんなことになったのはあなたのせいよっ!
小五郎がそのことで誰よりも苦しみ、自身を責め苛んでいることを知りながらも、 彼を責めることでしかやり場のない怒りをぶつける術がなかったのだ。 今でも彼に対する怒りがないと言えば嘘になる。今まではたとえ別居していても、 小五郎と離婚(わか)れるつもりはなかったし、彼との絆が壊れたと一度も思った ことはなかったが、今回のことで明らかに彼との間に埋めがたい溝が出来てしまった。 それでも蘭が立ち直るためには父親としての小五郎の力が絶対に必要なのだ。 今は何よりも蘭のことを一番に考えたい。2人のことはそれからでもいい。
だが、ふと思った。
蘭が今一番必要としているのは母である自分でも、父である小五郎でもなく、『
工藤新一』、その人なのかもしれないと。 蘭がその同じ歳の幼馴染に切なくも熱い想いを寄せていることは明らかだったし、 彼の方もおそらく蘭のことを憎からず想っていることは間違いないだろう。 英理はそんな2人を、若き日の自分と小五郎に重ね合わせ、何ともほほえましく
思っていたのだ。
いずれ蘭も自分と同じように幼馴染と結ばれ、自分はなれなかった良き妻・良き
母として幸せになるだろう、いやそうなってほしいと心から願っていた。 それなのにどうして・・・・
「(蘭・・・・)」
ベッドの上の愛娘にもう一度目をやった時、病室のドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
英理が立ちあがり、ドア越しに訊いた。
「どなた?」
一拍間が空いて答えが返ってきた。
「新一です」 「えっ!」
思わず、ベッドの上の蘭に目をやった。 するとこれまで能面のように無表情だった蘭の顔に明らかに動揺の色が浮かび、
激しく頭を振った。
入院以来、ここまで蘭が感情を露わにしたのは初めてだ。 英理は一瞬躊躇ったが、すぐに決断した。
「どうぞ、新一君」 「おかあさん!」
蘭が抗議の声を上げたが、英理は新一を迎え入れた。 新一は英理に深く頭を下げると固い声で言った。
「おばさん・・・・ 蘭と2人にしてもらえませんか? お願いします」
その真剣な瞳と震える声で英理は確信した。
「(この子は知っているんだわ)」
英理は新一の肩に手を置き、言った。
「新一君・・・・ 蘭を頼むわよ」
新一が小さく頷くのを見て、英理は部屋から出て行った。
2人きりの病室。互いの視線が絡み合い、新一がゆっくりと近づいてくる。 蘭もまた彼の表情を見て絶望とともに確信した。新一は自分の身に何が起こったか 知っている。そう、あのケダモノ達にその身を散々弄ばれたあげくに処女を散らされ、 穢されたことを。 新一が苦しげに、絞り出すような声で言った。
「蘭・・・・ コ・・・・ コナン君から全て聞いたよ」 「来ないでっ!」
身を起こした蘭が叫び、新一の足が止まる。
新一に話してしまったコナンを恨む気持ちはない。
彼もまた自分と同じように辛い目にあったのだ。
だが・・・・ 世界中の他の誰に知られたとしても、唯一工藤新一、 この愛しい相手だけには絶対に知られたくなかった。
「どうして・・・・ どうして今頃・・・・」
思わず口をついて出る言葉。 若き日の母のピンチを同じく若き日の父が救ったエピソードを聞いた時、 蘭はそれを自身と新一に重ね合わせ、そして2人の将来を夢想した。
だが・・・・ 現実は無惨だった。
あの時どんなに今目の前に立つ愛しい相手の名を泣き叫ぼうと、彼は決して助け
になど現れてはくれなかったのだ。
「蘭・・・・」
新一が再び歩を進めてベッドに近づき、蘭が何かを言う前にぎゅと抱きしめた。
「あっ・・・・」 「蘭・・・・ すまん・・・・ お前をこんな辛い目に遭わせてしまって・・・・ 全て俺の責任だ」 「えっ? 責任って・・・・ し、新一・・・・
それはどういう・・・・」
新一は抱擁を解くと真摯な瞳で彼女を見据えて、震える声で言った。
「蘭・・・・ 俺はお前が好きだ」
蘭の身体がびくんと震えた。
今までどれほどこの言葉を期待し、待ち望んでいただろう。 だが今となっては全てが遅いのだ。 蘭が視線をそらした。
「新一・・・・ でも私は・・・・」 「いいんだ、今は何も言わなくていい」 「でも私はもう・・・・ あんな男達に・・・・ 私は・・・・ 私は・・・・ あの男達に犯されたのっ! 何回も何回も何回も・・・・ 汚いのよっ! 穢れてるのっ! だから・・・・ だから・・・・ 新一にそんなこと言って もらう資格なんかないのよっ!」
自身の心を切り裂く言葉を絶叫する蘭。
「言うなっ、それ以上何も言うんじゃないっ、蘭っ!」
突然蘭の唇が新一のそれに塞がれた。
蘭は一瞬はっとしたように目を大きく見開いたが、やがてまぶたを閉じ、なすがままに任せた。
「ううっ・・・・」
長い長いキスを終え、新一はまるで自身の気持 ちに決して揺らぎがないことを確かめるかように愛の言葉を繰り返した。
「蘭・・・・ 俺はお前が好きだ。ずっとずっとガキの頃から好きだった」 「新一・・・・ でも私はもう・・・・」
だが新一はその言葉を遮ると、蘭の肩に手を置き静かに言った。
「蘭・・・・ お前は俺のことが嫌いか?」
蘭がぶんぶんと首を振る。
「ううん、私も新一のことが好き。私だってずっとずっと好きだった。でも・・・・」 「『でも』はいらない」
新一は蘭の両肩に置いた手にぐっと力を込め、そして意を決したように蘭をまっすぐ
見つめ、一言一言確かめるようにして言った。
「蘭・・・・ いつか・・・・ いつかお前が・・・・ 今度のことを忘れられる日が 来たら・・・・ 俺と・・・・ 結婚しよう。いや、結婚してほしい」 「えっ!」
思いもかけないプロポーズ。
「ううん、俺が、俺が必ず忘れさせてやる。だから・・・・ 俺と結婚してくれ。 蘭・・・・ お前を愛している」
身が震えるほど嬉しい言葉。
だが蘭は力なく首を振った。
「新一・・・・ 同情だったらいらない。私はもう以前の私じゃないの」 「馬鹿なっ! 同情なんかじゃないっ!」 「でも私はもう・・・・ あんな男達に・・・・ 私は・・・・ 私は・・・・」
新一は蘭の言葉を遮った。
「分かってる。もう何も言わなくていい。それにオマエはちっとも変わっちゃいない。 何があっても蘭は蘭なんだ。俺はお前が好きだ。何度でも言う。愛しているんだ、蘭。 俺の言葉を信じてくれ、蘭!」
コナンの姿では決して言うことできなかっ愛の言葉。その真摯な想いは蘭の胸を打ち、 かたくなに閉ざされた心をほぐしていった。
「新一・・・・ 本当に・・・・ 本当にこんな私でいいの?」
新一は優しく蘭を抱きしめた。
「ああ、俺にはお前しかいない。そして蘭、お前にも俺しかいないはずだ」 「新一・・・・」 「今すぐ返事をくれなんて言わない。だけど俺はずっと待ってる。何年だって何十年だって、 お前がイエスと言ってくれるまでな」
蘭がふと顔を上げ、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「新一・・・・ さっきのキスは私の・・・・ ファーストキスなんだよ」 「えっ!」
そう、あれだけ陵辱の餌食とされながらも奇跡的に唇だけは奪われることなく、
蘭の大切なファーストキスは守られていたのだ。
もっとも別のおぞましいものを咥え込まされはしたが、神聖な唇を重ねたのは
まごうことなく新一とが始めてだった。
「新一・・・・ 私・・・・ ファーストキスは絶対新一とだって決めてたの。 だから・・・・ 嬉しい」
半分は本当で半分は嘘だった。
新一に捧げたかったもの、それはファーストキスだけでなく、女の子にとって
最も大切なものもだった。
だがそれはもう二度と戻ることはない。
「蘭・・・・」
再び唇を交わす2人。
そして蘭の瞳から熱い大粒の涙がこぼれ、頬を伝った。 それは悲しい色を滲ませてはいたが、正真正銘の嬉し涙であった。
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