山口が息を切らせて自らの部屋のドアを開けた先には
床の上に崩れ落ち、力なく項垂れる松岡と、拳をきつく握り締め、
何か大きな怒りに満ちた眼差しで虚空を睨む国分と、松岡に向かって
手を差し出そうと持ち上げた腕が、しかし本人に届く前に
空中で縫いとめられたように止まってしまった、困惑の表情を浮かべた長瀬がいた。
「山口くん」
山口の部屋の真ん中辺りに立ち尽くした国分が、主の姿を認めて
強張った…震える声で部屋の主の名を呼ぶ。
山口。その名に弾かれたように顔を上げた松岡は、ぎこちない動きで
立ち上がり、戦慄く口唇を必死に噛み締めて山口のところへ一歩、二歩…と
バランスを崩しながら大股で歩み寄り、自身より低い高さにある山口の、
細かい皺が刻まれて型崩れしている白衣の開いた襟元をガッと思い切り掴んだ。
「マボっ!」
「松岡?!」
厚手の生地を掴んだ指の先から白くなり、細かく震える松岡の手。
籠められた力に引きずられるように上体を仰け反らせ、また思いの外
強い力で引っ張られたせいで微かに呻くような短い声を上げた山口の、
潜められた眉がするりと緊張を解いたか、解かないかのうちに、抑制を失った
行動とは裏腹の、途切れ途切れの声で山口を見下ろした松岡が
吐息をつくように口を開いた。
「リーダー……いなくなっちゃった」
山口が見上げた松岡の瞳は、薄い水の膜を張り、ゆらゆらと虹彩を揺らしている。
白衣が千切れるのではないか、という程に力を込めた指先が
徐々に草臥れた印象を与える白い布から離れていき、やがてぶらりと
重力に任せるせて落ちると、松岡の二本の腕が身体の横で不気味に揺れた。
「松岡?」
脱力しきった腕が、奇妙に揺れる様子に言い知れぬ不安を覚え、国分が潜めた声で
松岡の名を呼べば、ずるりと高い位置にあった松岡の体が沈む。
山口は困惑した表情で松岡をじっと見上げていた。
「マボッ!」
床の上を硬い義足が滑る耳障りな音が断続的に響き、不自然に伸びたままの足が
ずるずると山口の横を滑ってゆく。短く叫んだ長瀬が慌てて松岡の背後に駆け寄り、
両脇から腕を差し入れれば、長瀬の腕に床から僅かに浮いた状態の体が圧し掛かった。
加わる力の大きさに顔を歪め、歯を食いしばって松岡を引き上げると
城島が腰を下ろしていた診察台の上へと引きずり、座らせる。
背後から長瀬が見た松岡は、顔色を無くしたままぎゅっと眉間に皺を刻んで目を閉じていた。
そろそろと腕を抜こうとした松岡の背中が小刻みに震えている様に、長瀬は
長細い台の隣、広く空いたほうのスペースに腰を下ろすと松岡に甘えるような仕種で
そっと身を寄せて震える肩を撫でた。
「大丈夫。マボ。絶対、リーダーは大丈夫」
確信などありはしなかったが、長瀬は何度も自分に言い聞かせるように
松岡に向かって同じ言葉を繰り返した。
その様子を心配そうな眼差しで見つめていた国分は、長瀬が何度目かの言葉を
繰り返した時に、そっと松岡の口から零れた吐息に内心で安堵の溜め息を付き目を眇めると
蛍光灯の下、冷たい印象を与える部屋の中へとしきりに視線を投げ続ける山口の
何かを探しているような素振りに訝しげな声を上げた。
「山口くん?」
国分の声にふっと顔を向けた山口は、どうにも煮え切らない表情を浮かべたまま
小さく唸り声を上げて、戸惑いがちな声を国分へと発する。
「太一………」
「どうしたの?」
腕を組み、何度も首を横に振る山口の様子は、国分までもぞもぞとした
落ち着かない気分を抱かせる。返事を返せば、天井に視線を投げたまま動きを止めた
山口の、顎のラインを眺める事になった国分に、彼は随分長く続いた沈黙の後、
ぽつりと独り言のように言葉を落とした。
「……なにか、ヘンだ」
すっきりしない。
低い声で吐き捨てた山口は、踵を返して自らの端末へと身体を向ける。
翻る白衣の端を何気なく視界に留め、国分は先ほどより幾分と
動揺の収まった思考で、考えを巡らせる。
山口が言うように、何かがおかしいのだ。
この施設の出入りは全てゲートでの声紋、掌の静脈、虹彩…と
事前にデータをメインコンピュータに登録され、管理されている人間でしか
自由に出来ないはずなのだ。勿論、どんなシステムにも抜け穴と呼ばれるものが
存在することは否めないが、果たして今の城島が…72時間しかデータを
蓄積する事の出来ない機械の体のまま……単身へどこかへ行ってしまう事は
果たしてありえるのだろうか。
「…ん?」
「どうしたの?」
「太一、これ」
キーボードを忙しなく叩いていた山口が、ふと上げた声に我に返った国分が
反射的に返した問いに、机の上に置いてある紙面を指先で抓んで引っ張り出した
山口へと近づき、その手元を覗き込むと、そこには山口のメモの下に
明らかに違う筆跡で、2つ文章が綴られていた。
『黙って出て行く僕を許して欲しい。
いつでも、見守っているから』
「これ…リーダーの字?」
差し出された紙の切れ端に視線を落として目を瞠る国分の呟きに
弾かれたように立ち上がった松岡と、松岡がバランスを崩して
転びそうになるところを支えた長瀬が一枚の紙…何の変哲もないメモへと
唾を飲み込み、緊張した眼差しを向ける。
「……どういう事?」
首を傾げて国分が山口の摘み上げた指の先でひらりと揺れる紙を見つめ、
誰に言うでもない呟きを落とす。
四人の視線を集めた城島のメモは、沈黙を保ったまま、その視線を
じっと受け止めていた。
20070212.naoi
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