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風呂からあがれば、マルチェロはまだ書類に目を通しているようだった。
しかし口元には微かな……そう、何かを企んでいるときの不敵な笑みが浮かんでいる。どうやら良い案を思いついたらしい。
濡れた髪を乾かしながらそれを確認したククールは、さきほど考えた「あること」について否定したくなった。マルチェロに馬鹿なことを語らなくて良かったとホッとする。
「そろそろ寝たら? 身体壊すぜ」
昔何度も言いたかった台詞を、ククールは言った。
顔をこちらに向けることはなかったが、マルチェロの応答がある。
「ああ、まもなく終わる。お前もそろそろ休みなさい」
じわりと胸に広がる温かい何か。
自分たちは今、こんなことを言い合える関係になった。それがこんなにも嬉しい。
トントン、と書類を揃える音がする。見計らってククールが卓上に酒を置くと、マルチェロは精悍なその顔に微笑みを浮かべた。
「気が利くな」
褒められたのだと分かって、気恥ずかしくなる。
「だから言っただろ? オレは結構使える奴なんだよ」
照れ隠しに、いつもよりも2割増し偉そうに言い放った。普段ならこの辺りでどん底に突き落とす台詞がくるはず。
だが、今夜のマルチェロは違っていた。
「さっき何を言おうとしていたんだ?」
一瞬何のことか分からずに、ククールは首を傾げる。すると、マルチェロが続けて言った。
「くだらない話とやらだ。聞いてやるから言ってみろ」
兄が前の話を蒸し返して問うなど珍しい。機嫌が良いのか、それとも別の理由があるのか今一量ることができない。
本当につまらない、状況によっては兄が不機嫌になるような話だ。穏やかな空気が流れる今、話したくない。しかし話さずにいても同じ状況になることは目に見えていた。
「本当、つまらない話なんだけどさ。兄貴ってもしかするとオレの理想のタイプかなと思って。美形で家事もできるし、束縛しないしさ。おまけに一途ときたもんだ。望まぬ子ができる心配もなし」
マルチェロの顔が途端に厳しくなる。さきほどの微笑はどこに行ったのだろう? やはり言わなければ良かったとククールは後悔した。人生何度目の後悔か分からない。
「ククール、私たちは先ほど「女性」について語っていたのではないかね?」
片眉を上げてマルチェロが問う。嫌味スキル発動の兆し。
「そうだけど。男でも同じだよ。束縛するうざい男はいっぱい居たからさ。嫌になるね、『ククール、君は私だけのものだ』とか、『ククール、この肌を他の誰にも触らせることなどなかったね?』とか…鬱陶しいったらありゃしない。こっちは仕事、もしくは遊びで抱かれてるだけだってのに。あーやだやだ、もっと楽に適当に付き合いたいってのにさ」
数々の修羅場を思い出し、ククールは背筋が寒くなった。改めて統計を取ってみれば、女よりも男のほうが面倒だったかもしれない。
「ではもうひとつ。ククール、私が何と言ったか覚えているか?」
マルチェロの問いかけに、首を縦に振ることでククールは答えた。
勿論覚えている。誰か一人、これは、という人物がいれば充分。喜んで人生を共にすると。
「だからさ、”オレにとって”の話。言っただろ、くだらない話だって」
こんなに不機嫌になるのなら、やはり言わずにいれば良かった。
今すぐこの話題から逃げ出したいククールは、マルチェロの脇をすり抜けて寝室に向かう。
「えっ!?」
突然後ろから手を引かれて、驚く。
軽く足をかけられて寝台に押し倒された。状況が分からず焦るククールに構わず、マルチェロは強引にその唇を奪う。
戸惑うまま流されていると、歯列を割って舌が入り込んできた。これでもかというほど口の中を嬲られ、舌を甘く噛まれる。息ができない。
「んっ! ふ……」
非難の声を上げようとしたが、吐息しか漏れなかった。
頭がぼうっと霞んでくる。そのくちづけは驚くほど上手いというわけではなかったが、今までにない痺れをククールに与えた。
まずい、まずい。このままでは。
必死に意識を呼び起こしてククールは考えた。なぜ自分はこんなことになっているのか。先ほどまで自分たちはどういう会話をしていただろう。最後に自分が考えたことは。
”誰かひとり これはという人間がいれば 喜んで人生を共に…”
先のマルチェロの台詞は、その間に何かもうひとつ言葉が入らなかったか。
「お前がいいと言うならば、最早何の問題もない」
耳元で低く囁かれる。熱を帯びた声が、ダイレクトに脳に伝わっていく。
「あ、兄貴、待てって…っ!」
耳朶を噛まれて身を竦めた。兄は動きを止めることはなく、今度は寝巻きに手をかける。
「おとなしく私のものになれ」
”団長”と”団員”だった頃のように命令口調ではっきり言い切られて、思わず「はい」と答えそうになっていた。昔からの習性とは恐ろしい。
ククールが口を開かずにいると、やっとのことでマルチェロが動きを止めた。しかしその姿は既に半裸だ。当然ククールの方はもっと凄いことになっている。見事な手際の良さ、自分も見習うべきかも知れない。
「嫌なのか?」
「そうじゃない、けどさ…。何か違わない?」
「愛の囁きでも落とされるのが好みなのか?」
「いや、そういうの要らねえし。ていうか、そうだって言ったらやってくれんのかよ」
「私が吐く歯の浮くような台詞を、受け止めるだけの勇気がお前にあるならやってやるが」
「…遠慮しとく」
再び組み敷かれ、首筋を軽く吸われる。どうやらやめるつもりはないらしい。
恨みがましい視線を投げつけてやれば、嫌ではないと言っただろうと軽く撥ね付けられる。
そんな言葉が出るくらいだから、マルチェロは嫌ではないのだろう。
兄は誰でもいいわけではないと言った。したくなったから手近なところで済ませるのとは違う。
”―――その人物と想いが遂げられたなら…”
今までが今までだっただけにどうにも信じられないが、それは、もしかすると。
「なんだ…そういうことか」
知らず、呟きが漏れた。
「やっと納得したか。本当にお前は頭が悪い」
「そういうことをこの状況で言っちゃうあんたもどうかと思うよ」
ククールは苦笑を漏らしつつ両手を伸ばした。片手をマルチェロの頭に、もうひとつを彼の背中に。
「背徳の兄弟…。って、なんかの煽り文句みたいだな」
「ふん…。その件についての苦悩や葛藤は疾うの昔に乗り越えたが?」
「本当、どうかと思うよ……うちの兄貴はさ」
額に優しくひとつ、指で銀髪をすくい上げてひとつ。くちづけを受けるたびに”もうどうでもいいや”と考え始めている自分に気付き、やはり自分はこの男の弟なんだなとしみじみ思う。
途切れ途切れに呟いてみれば、
「私はお前のように簡単ではなかったぞ」
咎めるような兄の言葉は聞こえないふりをした。
夜の闇の色が薄くなり、空が白々と明けていく。
そして、ふたりはまた新しい朝を迎えた。
「メシ作りの当番代わってもらってごめん」
「まあ、今日は仕方がない」
目の前の、朝食とも昼食とも呼べない美味しそうな食事を見ながらククールが謝罪すると、マルチェロはククールにコーヒーを寄越した。その色はいつもと違う薄い茶色だ。口に含めば、それは甘い。
「気付いてたのかよ…」
面白くなさそうにククールが言う。今まで苦いコーヒーを飲ませ続けた兄が恨めしい。
「お前が素直に『兄貴、オレは苦いコーヒーは飲めないんだ。ミルクと砂糖を頂戴』と可愛らしくお願いすれば入れてやったが?」
朝から嫌味炸裂だ。数時間前はあんなに優しかったのに。いや、それはどうでもいい。
「へえーそうですか。それじゃ何で今日は入れてくれたんですかねぇ?」
半分やけくそ気味にパンを千切る。確かに自分は素直ではないが、兄だって相当なひねくれものだろうに。
「これからは入れてやることにした。一生不味いコーヒーを飲ませ続けるのも気の毒だからな」
「それってプロポーズ?」
からかうように問いかける。昨夜はやりたい放題やってくれたのだ、このくらいは良いだろう。
しかし、今回もククールが主導権を握るのは難しかった。
「勿論そうだとも。さて、お前はどんな返事をしてくれるのだろうなククール。できれば昨夜のように可愛らしく頼むぞ」
「……兄貴っ!」 不敵に笑われて、ククールの方が赤面する羽目に陥る。
弟をやり込めて兄は本当に楽しそうだ。ククールが反論できないことをいいことに、次から次へと聞くのも恥ずかしい言葉を続けていく。
「ああ、そうすると指輪が必要か。式も挙げたほうがいいかなククール? 勿論お前のご友人もお呼びしなくてはな。新婚旅行はどこがいい? ああ楽しみだ。期待で胸が膨らむよ。さて、ククール。ここまで私に妄想させたのだから、早く良い返事を聞かせてくれないか」
マルチェロは勿論本気で言ってるわけではないだろう。ククールの反応を見て喜んでいるだけだ。
先にからかうようなことを言ったのは確かにククールだが、この男の報復は少々行き過ぎているのではないか。本当に性格が悪い。
だが、ククールも負けっぱなしではいなかった。
「ああ、オレはこれから毎朝兄貴の淹れた甘いコーヒーが飲めるんだな。本当に幸せだよ兄貴。指輪はもうもらったから要らないよ。式はマイエラで挙げたいな。騎士団の連中に『このひとはもうオレのものですよ』ってアピールするんだ。新婚旅行は思い出の地のゴルドなんてどう?」
さあどうだ。ククールはにっこり笑ってマルチェロを見つめたが。
マルチェロは難しい顔を作って、こう言い放ったのだ。
「この季節のゴルドはどうだろうな…。やはりサザンビーク周辺の方がいいんじゃないか」
真面目な表情で語り始めたので、ククールは焦った。まさかこの男、本気で言っていたのか。
本気だとしたらかなり嫌だ。ついでに、もしもそうならばこの兄は本気でやる。リュウたちの前で式を挙げるなんてとんでもない! マイエラで結婚式……? マルチェロ崇拝者だった騎士団の連中に自分は殺されるかもしれない。
とんでもないことを言ってしまったと、ククールの顔がみるみる色を失っていく。
すると、突然マルチェロが背を向けた。その肩は震えている。
―――間違いない。笑っているのだ。
「兄貴! オレをからかったな!?」
席を立とうとして、腰に痛みが入った。よろめいてテーブルに手を着くと、肩を支える手に気がつく。
マルチェロの右手だ。彼が自分を支えようと手を伸ばしたのだ。
「早く食事をしなさい」
そう言って、マルチェロはそのままククールをもう一度席に落ち着かせる。その顔に笑みはもうなかった。
カップが倒れて横になっている。テーブルの上に薄茶色の液体が流れ出していた。
彼は無言でテーブルを拭くと、空になったコーヒーカップを持ってキッチンに消える。
ああ、自分はどうしようもなくこの男が好きなのかもしれない。
マルチェロが淹れてくれたコーヒーを零してしまったことが、こんなに悔しくて哀しい。
新しいコーヒーを持ってくるマルチェロに向かって、ククールは言った。
彼の目を真っ直ぐに見て、真面目に。先ほどの”プロポーズ”の返事というわけではないけれど。
「大好きだよ、兄貴」
今度は動揺した兄がコーヒーを零した。
自分のブラックコーヒーと、砂糖とミルクが入ったククールのコーヒーを。 |