|
ドニの酒場。
ククールはいつもの席に座り、いつもの酒を注文する。
可愛いバニーに優しいおばさん、マスターはちょっと厳しいが……それは自分が男前だから僻んでいるということにしている。たまに絡んでくるアホな男たちをカードで―――まあ、イカサマではあるのだが―――やり込めて小金をせびりとり、その金でまた酒を飲む。売り上げに貢献しているのだから文句は言えまい。
修道院での生活は、色々な面で息が詰まる。その憂さ晴らしのため、ククールはドニに訪れる。
勿論、頭の固い騎士団長はそれを快く思ってはいなかったが……そんなことは今更だった。不良騎士のレッテルを貼られてしまったあの日から、ククールは全てを諦め、とことん開き直ろうと決意したのだ。
初めてこの酒場に足を踏み入れたのは、今から5年近く前のことだったか。
先輩騎士に連れられて、ククールはここにやってきた。最初は気が進まなかったが、先輩騎士は上の許可を取っていると言っていたので問題ないと考えていた。
しかし、その全てが謀略。そんなことにも気付けなかった、若い時分の我が身の愚かさに情けなくて涙がでてくるが……まあ、世間知らずの14の少年では仕方のないことだろう。
酒に酔わされ、気がついた時には知らない男に押し倒されてました、なんて。どこの世間知らずの生娘だと嘲笑いたくなってくる。
兄が乗り込んでくるのがもう少し遅かったら、ククールは得体の知れない男に「お買い上げ」されていたに違いない。
『お前は、どこまでもわたしの足を引っ張るのだな』
どこまでも冷たく、汚らわしいものを見るように蔑みを含んだマルチェロの瞳。
誰も自分の言葉を信じようとしなかった。先輩騎士も『どうしてもと頼まれ連れてきた。別行動になってからのことは知らないが、まさか金で自分を売るような真似をするとは』と、顔色ひとつ変えずに言い放った。
後から知ったことだが、先輩騎士は当時の団長と共謀して副団長のマルチェロを陥れようとしていたらしい。当初の予定では、”マルチェロがククールに命じてやらせたこと”にしたかったようだが……マルチェロが事を止める形になったことで計画は反故になった。
結果として残ったのは”騎士見習いのククールが無断で酒場に出入りし、不祥事を起こした”ということだけ。
その他の事実は全て闇に葬られ、ククールの尊厳を傷付けること”のみ”で事態は収束した。
今更その件について恨み言を漏らすつもりはない。
全ては過ぎたこと。自分の存在意義や価値など高が知れている。それらを見出すことが無意味だと、ククールはこの数年で悟った。何も求めず、誰にも期待されず生きていくのは気が楽だ。
―――それでも。
グラスを傾け、ククールは息を着く。
胸元のロザリオを握り締め、思い出すのは異母兄マルチェロのこと。
謀略に嵌りかけていたあの時、兄が自分を救ってくれたのには間違いない。マルチェロ本人にその意思がなくとも、ククールは彼のおかげで陵辱を受けずに済んだのだ。
ベルモンド子爵の家から逃げ出す手段を与えてくれたのも、兄であった。
ロザリオを返しに行ったとき、本人は自分が預けたものではないと否定していたが、後に修道士見習いを問い詰めて聞き出した。それに、何より……あの書面の筆跡は間違いなく兄のものだった。
もしかして、と期待する自分が愚かなのかもしれない。
それでも考えずにいられないのは、やはり”初めてマルチェロに逢ったとき”のことが忘れられないからなのか。
どうせなら、最初の最初から冷たくして欲しかった。あんな優しい声が、穏やかな微笑みが、あのときの自分に与えられなかったなら……こんな風に『もしかして』と無駄な考えを呼び起こすこともなかっただろうか。
―――何をやってるんだろうな、オレは。
考えても詮無いこと。これまでの経験で分かっていた筈なのに。
ベルモンドの屋敷から帰ってきてから、自分は少しおかしい。
半ば自棄になってグラスの中身を飲み干すと、バニーが「今日は荒れてるのね」と笑いながら近寄ってきた。
なみなみと酒を注いでくれる彼女にウインクして、軽口をひとつ。
「レミの顔を見たら、そんな気分も吹っ飛んだよ」
嬉しそうに金髪のバニーが笑った。
「そうだわ、ククール。さっきね、騎士団のひとが来てたのよ。あまり見ない顔だったわ。騎士団長さんのお使いで武器と薬草を調達しに来たんだって」
「へえ……」
大して興味も湧かずに軽く聞き流す。
「赤毛で小柄の……色が白くて、可愛らしい感じの子だったわ。瞳の色はカーネリアンだったかしら」
特徴のある容姿容貌に、ある人物の姿が浮かんだ。
「ああ、リカルドだろ。リカルド・ローレン」
入団して半年の、マルチェロお気に入りの騎士だ。
あんな少年を酒場の二階に寄越すマルチェロの気が知れなかったが、真面目な彼なら用事を終えてすぐ戻るだろう。自分のような不良騎士を使いに出せば「ちょっと酒でも…」となるのは容易に想像できるから、判断としては間違ってないのかもしれない。
「へえ、リカルドって言うのね。初めて見たわ。……ううん、そんなことはどうでもいいの。あのね、彼のことでちょっと気になることがあったのよ」
「おいおい、恋心の伝達だけはよしてくれよ。妬いちまう」
ククールが大げさに両手を広げて言ってみれば、レミはけらけらと楽しそうに笑った。
しかし、すぐに思い直して真面目な表情を作る。
「そのリカルド君ね、なんか危ない感じの男に着いて行っちゃったのよ。この辺では見ない顔だから、きっと船着場からパルミドに流れていく旅の人間だと思うんだけど……」
言って、不安そうな表情を作るレミ。それを受け止めたククールも僅かに眉を顰めた。
―――嫌な予感がする。
普段なら自分には関係ないと捨て置くところだ。それでも、あの穢れを知らない笑顔を思い出して胸が痞える。
「了解。オレがハニーの不安を取り除いてきてやるよ。可愛い女の子には笑顔が似合うからな」
投げキッスをしてククールは席を立つ。店の表で酒を飲む男に二言三言声をかけてから、彼は酒場を後にした。
『その少年と男なら、町の外れに向かっていったよ。ああ、あっちの方だ』
男が指差した方向にククールは歩き出した。
だんだん建物もひと気もなくなって、鬱蒼と木々が繁っている。
そんな場所で、人間の気配を感じた。もしやと思い周囲に視線を配ると、高い草が何かで踏み荒らされた跡がある。それを辿るように草叢を進み、ククールはやっと目的の人物を見つけた。
彼の姿を見つめて息を呑む。……悪い予感は当たっていた。
「先輩……」
濡れた紅玉髄の瞳が自分を見つめてくる。衣服は既に原型を留めておらず、抵抗して殴られたのか手足と顔の痣が痛々しい。
ククールは無言で後輩の姿を観察した。
衣服は使い物にならなそうだ。新しい服が必要だが、伝を頼れば何とかなるだろう。手足と顔に痣があるが、大事には至っていない。自分の回復呪文でも治癒するだろう。
嗚咽を漏らすリカルドを前に、ククールは驚くほど冷静だった。
「立てよ、ローレン。修道院に帰りたいならその手助けをしてやる。ここに居たいなら居ればいいさ。そのうち団長殿が探しにくるだろう」
団長という言葉に反応して、リカルドの顔が青ざめる。普通の人間なら、慕っている人物に”今の状態”を晒したくないだろう。
「甘ったれるな、リカルド・ローレン。こんなことは何でもない。さっさと忘れて、お前は帰るべき場所に帰るんだ」
涙を拭き、緩慢な動作でリカルドが立ち上がる。ククールはその姿を確認すると、やっと厳しい表情を解いて微笑んだ。片手でリカルドの右手を取り、他方で赤毛を撫でてやる。
「さあ、ローレン。遅れると怒られるし……さっさと帰ろうぜ。オレのルーラで送ってやるからさ」
川で身を清め、ククールが用意した旅の服に着替える。手足の痣を呪文で癒すと、リカルドは表向き普通の姿になった。
「団長殿は勘がいいからな……もしかすると気付かれちまうかもしれないけど」
苦い笑みを零しながらククールが言うと、リカルドは首を横に振って言葉を遮った。
「大丈夫です。先輩がいなかったら自分の恥を大衆に晒すところでした。感謝しています」
「素直すぎるなぁ、お前は。酒なんて飲んでるヒマがあったらさっさと助けてくれればいいのに!くらい言ってもいいんだぜ?」
「そんなこと言ったら見捨てて置いていくくせに」
「まあね」
悪びれずククールが言い放つと、リカルドは声を上げて笑った。幼い顔が、更に子供らしく破顔する。
ふと気がつけば、ふたりの身を照らす光は濃い橙色になっていた。陽が落ちるまでに戻らなければと、ククールは慌てて瞬間移動の呪文を唱える。
「オレと一緒に戻ると周りに何か言われるからな。お前先に行けよ」
「はい。ありがとうございます」
リカルドはククールに一礼し、踵を返した。
ほっとしたようにククールが深い息を着く。リカルドのおかげですっかり酔いは冷めていたが、もう少し外の空気を吸っていたい気分だった。時間を潰すため修道院と反対方向に足を進める。
「ククール先輩」
後方から高めの声が上がった。驚いて振り返れば、リカルドが橋の手前で立ち止まっている。
「おいおい、どうした? さっさと戻らないと後が怖いぜ」
さも迷惑そうに眉間に皺を寄せてみたものの、ククールは再びリカルドの方に歩みを進めていく。やはり一人では戻り辛いのだろうかと余計な心配までして。日々無関心を決め込んでいるククールには珍しいことだった。
「先輩は、マルチェロさまの弟なんですね」
予想外の台詞に呆れる。何を今更……ククールはそう言いかけたが。
「マルチェロさまと先輩、似てます」
「んなこと初めて言われたぜ……」
異母兄と自分とでは髪の色も瞳の色も、性格は勿論のこと頭の中身も全く違う。
ククール自身もそう思っていたし、周囲の評価も同じものだった。もしもマルチェロが今の台詞を聞いていたら、不快に表情を歪めることだろう。
「俺、前から先輩のこと好きだったけど、もっと好きになりました」
「あいつと似てるからかよ。うわぁ…全然嬉しくねえや」
心底嫌そうな顔をするククールに笑顔を向けると、リカルドは院に向かって走り出した。
姿が見えなくなるまで見送って、ククールはやはり首を傾げる。
「あいつとは4つくらいしか違わねえはずなんだけどなぁ……若いもんの考えることは分からねーな」
それにしても、リカルドはどの辺りを見てマルチェロとククールが似ていると思ったのか。そこは少々気になるので、後で聞いてみるのもいいかもしれない。
―――返答によっては、とてもショックを受けそうだが。
その10秒後。ククールは迷うことなく「やっぱりやめておこう」と考え直すのだった。
そして数ヶ月が過ぎ、マイエラに吹く風が少し涼しくなってきた頃。
団長室で書類の整理をしていたマルチェロは、扉の外で口論している男たちの声を耳にして表情を厳しくする。
一体何事だろうか。
軽い苛立ちを覚えながら立ち上がったその時、乱暴にドアを開けて入室してくる青年。それまでに輪をかけてマルチェロの瞳が厳しくなったのは、不届き者の正体が自分の異母弟であったからだろう。
「マルチェロ団長! 申し訳ありません」
見張りの兵が慌てて後を追ってくる。ククールの手を掴んで室外に放り出そうとするが、驚くほど強い力で振り払われた。無残にも床に打ち付けられ、廊下に転がされる。その瞬間を逃さずに、侵入者ククールは団長室の扉を閉めて施錠した。
怒りに染められた異母弟の瞳が、マルチェロに真っ直ぐ向けられる。
「どういうことだ! 兄貴」
ククールのその声は、感情を押し殺すかのように震えている。
だが、受け止めるマルチェロは至って冷静だった。
「私のことは騎士団長と呼べ。前から言ってるだろう。
ところで、貴様こそどういうつもりだ。私の部屋に無断で入ってくるとは……用件次第では厳しい罰があると思え」
「ああ、受けてやるよ。いくらでも! オレの質問に答えてくれたらたっぷりとな」
感情のままに言葉を放つ異母弟を珍しく思いながらも、マルチェロは表情ひとつ変えない。それが却ってククールの感情を逆撫でした。
今日のようなことは稀なことだった。大抵、ふたりの役向きは逆であるからだ。
マルチェロが感情のまま怒りや憎しみをぶつける。それをククールが冷静に受け止める。
この兄弟は感情のままにぶつかったことなど一度もなかったのだ。
いや、むしろ……ククールがマルチェロに対して怒りをあらわにすることが皆無だった。
「なぜ、リカルドを”勤め”に出した!? それも今回が初めてじゃないって……この2ヶ月で4度も! なぜあいつにそんなことを命じたんだ。そんな汚れ役を引き受けるような……そんな価値のない人間じゃないはずだろ!?」
”オレとは違って”
言葉には出さないが、ククールの視線がそう訴えている。
「その件については、お前が口を出す問題ではない」
マルチェロは酷薄に言い放ったが、激昂したククールに通じるはずもない。
「リカルドはあんたを慕ってた。あんただってあいつのことをとても気に入ってたじゃないか! それなのに何故!」
机がふたりを隔てていなかったら、飛びかかっていてもおかしくないような剣幕。
その様相を冷静に見つめているだけだったマルチェロも、徐々に顔つきが厳しくなっていく。
「どうしてだと? それを聞きたいのかククール」
マルチェロの瞳が鷹のように厳しく光る。感情を押し殺すことに失敗したマルチェロの語気が荒くなっていく。
「―――彼は、自分から勤めを申し出たのだ!」
忌々しそうに、そして吐き出すように事実を語るマルチェロの姿。
彼が発した衝撃的な言葉にククールは絶句し、しばらく動くことも出来なかった。
なぜリカルドがそのようなことをマルチェロに申し出たのか。自ら身を堕とすような真似をして、彼が何を為そうとしていたのか。
ククールに出せる結論は、ひとつだけだった。
「あんたは……あんたはそれで満足なのか! リカルドは、あんたの為に……あんたの役に立つために金で自分を売るような真似をしたんだ!」
バン、と物を打つ鈍い音が周囲に響き渡った。
ククールは咄嗟に目を瞑るが、自分自身へのダメージが全くないことに気付く。
マルチェロが手のひらで机を叩いたのだ。卓上のインクの瓶が倒れ、書類は床に散乱している。
「口を慎めククール! 貴様はだから愚かだというのだ。何も見えてはいない……お前は自分の周りのものなど全く見えていないのだ」
「見えてないのは、いや、見えないふりをしているのはあんたの方だ! 気付いているくせに、あんたは何も知らないふりをしているんだ」
「黙れ! 無知よりも許しがたいものなどこの世にはありはしない。何も知らぬ、お前こそが罪なのだ」
「そうかよ……だったら……!」
―――だったら、教えてくれよ。あんたが。
しかしそれは言葉にならず、代わりにククールの口から漏れたのは震える吐息のみ。
マルチェロの刺すような視線に耐え切れず、ククールは静かに背を向ける。
お前は何も見えていない。お前は何も知らない。
その言葉に対して、ククールは何も言い返すことが出来なかった。
お前は知らないだろう。両親に愛されていたことを。
お前は知らないだろう。周囲に想われていたことを。
お前は知らないだろう。誰かに護られていたことを。
確かに、ククールは何も知らなかった。
自分の知らない場所で、自分の知らないうちに何かが起こっている。
結局、どうすることもできないのだ。
事実を知って苦悩することしか出来ないのならば、何も知らない方がましだと思えた。
見たくないものまで見えてしまうなら、何も見ないようにした方がましだと思えた。
そんな風にしか、生きられなかったのだ。
1週間後、リカルド・ローレンは聖地ゴルドへの異動を申し出た。
季節が秋から冬に変わる頃、彼はマイエラ修道院を後にする。
哀しげな笑みを浮かべ、ククールに手を振ったリカルド。
やはり自分には何も出来なかったのだと、諦めにも似た感情が胸を支配していた。
それから。
ククールの素行は更に乱れ、彼は感情の片鱗すら出さなくなっていく。
表向きは明るく、楽しく。その実無気力に生きているだけ。
ドニでの乱痴気騒ぎや、修道院内での諍いなど……彼はいまや騎士団長マルチェロにとって、頭を痛める一番の要因となっていた。
騒ぎを起こすククールを拷問し、謹慎させる。その繰り返し。
マルチェロにとっては不本意極まりなかったが、変わり映えのない日常……のはずだった。
だが、春の訪れとともに”それ”は突然マイエラ修道院にやってくる。
3人の旅人は、人相の悪い青年と、美しい少女……そして。
「入れるな とは命じたが、手荒な真似をしろとは言っていない。わが聖堂騎士団の 評判を落とすな」
階下を見下ろせば、真っ直ぐな瞳をした黒髪の少年。
その時マルチェロは瞬時に悟った。
―――彼が、”光”の正体なのだと。 |