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それは、いまから20年近く前の話だ。
マイエラ修道院に、ひとりの少年がやってきた。
彼は、短い黒髪と美しい緑色の瞳を持ち、手には小さな荷物をひとつだけ抱えていた。
お世辞にも綺麗とは言えない衣服を纏った少年を、修道士たちは物乞いか何かだと思って敬遠したが、その瞳の強さに圧倒されて向き直る。
少年は、修道士に言った。
『死んだ母のために祈りを捧げて欲しい』
彼の言葉に、誰もが否定の意味で首を振った。
面倒はごめんだという気持ちもあったが、特別に祈祷を施したとしても、この少年相手では金にはならないことを知っていたからだ。
修道士に侮蔑の視線を向け、少年は諦めたように溜め息をついてから踵を返した。
そのときだ。立ち去ろうとする痩せた背に向けて、ひとりの老人が声をかけたのは。
『少年よ、わたしに祈らせてくれんか?』
周囲から、驚きと畏敬の声が上がる。
『母を亡くしたか。まだ幼いというのに……その瞳は色々なものを見てきたようだ』
少年の黒髪を撫でて、老人は更に続ける。さきほどの喧騒が嘘のように、辺りはしんと静まり返っていた。
『お主の心には苦しみや悲しみの波が立っておる。少年よ……ここで暮らし、わたしと共に祈りを捧げんか?』
老人の言葉に、少年は首を横に振った。
『お断りします。僕はひとりで生きていく。ここへ来たのは、生前母が信仰に篤い人間だったからで、僕自身がそうであるわけじゃありません』
はっきりとした声で淀みなく答える少年に、白眉の老人は一度目を丸くし、それから楽しそうに笑う。
『とても聡明な子だ。確かにお主はひとりでも生きていけるかもしれん。
しかしな、そんなに急いで大人になることはない。
わたしはお主を見ていたいのだ。亡き母の代わりに……そう言えば不遜になるかもしれんが』
『僕を、見る…?』
表情のなかった少年が、初めて不思議そうな顔を見せた。
『そうじゃ。お主を見ていたい。何を考え、何を悲しみ、憎み、惑い、喜ぶのか……お主が生きていく様を見ていたいのだ。
そして―――』
言いながら、老人……オディロはゆっくりと歩みを進めた。
『たまには、こうして手を伸ばしてやりたいのだよ』
皺だらけの手が、幼い頬を温かく包みこんだ。
少年の翡翠の瞳に水の膜が張る。
そう時を経ないうちに、そこから宝石のような透明なしずくが零れ落ちた。
『さあ、ふたりで祈りを捧げようかな。亡き母とお主の名前を教えてくれんか?』
優しい声に、俯いていた少年はやっと顔を上げる。それから、嗚咽を堪えて口を開いた。
『母の名前はクレア……そして、僕の、名前は……』
―――少年の名はマルチェロ。いまでは、聖堂騎士団の団長になっている人物である。
水に囲まれた院長の館。
一階は沢山の書物が置かれており、二階はオディロの居室になっている。
その部屋の空気は、いつもと違ってどこか張り詰めていた。
オディロの呼び出しを受け、マルチェロがそこを訪ねたのは30分ほど前のことだ。
窓の外を見つめるオディロと、その背を見つめるマルチェロ。彼らの表情はどこか険しい。
「ベルモンド子爵の屋敷に祈祷に行かせたらしいの…」
静かな室内に、オディロの声が響く。
誰を、とは言わなかったが、マルチェロは院長が言わんとしている人物に察しがついた。舌打ちしたくなるのを、心の中のみで止める。
「あれが何か言いましたか」
名を口に出すのも不快で、マルチェロは物か何かのように”彼”のことを言い捨てた。その事実に、オディロからは落胆の溜め息が漏れる。
運命に翻弄された、哀しき異母兄弟。時が解決するだろうと、彼は昔ククールに言った。しかしながら、状況はどんどん悪くなっているように思える。
「マルチェロよ……。ククールがわたしに言ったのは二言だけだ。
ひとつは、『ベルモンド子爵から、院長宛に何か手紙や申し出があったことがありますか?』と。
わたしが「ある」と答えたら、あの子は『ありがとうございます』と礼を言って帰っていった……」
「…………」
マルチェロは何も答えなかった。無言でオディロの背中を見つめている。
年老いた、小さな背中。
ここ数年で、院長の身体は随分弱くなってしまった。周囲にはなるべく見せないようにしているが、疲れた表情をしていることが度々あることをマルチェロは知っていた。それゆえ、今は面会の人間も制限するようにしているのだ。
今日はその声にまで疲れが見える。その理由がククールにあるのか、自分にあるのか……マルチェロは前者だと思いたかった。
「子爵からは、ククールが幼少の頃より数回、『養子に欲しい』と申し出があった。しかし、わたしは断りを入れた。ククールが修道院を離れたくないと言ったからな」
言葉を切って、オディロは振り返る。酷く哀しそうな表情でみつめる視線から、マルチェロは無意識に目を逸らしていた。
「マルチェロや。院のことも、騎士団のことも、今はお前に任せておる。わたしが口出しすることではないのかもしれん。しかし、その上でひとつ問いたい。……お前のところにも、ベルモンドからの手紙は届いていたのだろう?」
非難するようなオディロの視線を、マルチェロが今度は正面から受け止める。
沈黙は即ち肯定。それを理解していながら、マルチェロはあえて黙秘を続けた。
「なぜだ、マルチェロ…」
オディロの声は悲痛を宿し、その口元は哀しみに歪んでいる。
しかし、その姿を見てもマルチェロは眉ひとつ動かさなかった。
「……子爵からは、”祈祷”について熱心に手紙をいただいておりました。それに答えることがそんなにおかしいことでしょうか?」
マルチェロが淡々とした口調で言い放つ。だが、それでもオディロは首を横に振るのだ。
胸に隠した、苛立ちが募る。
「オディロ院長に、僭越ながらマルチェロが申し上げます。院長は些かククールに甘くはありませんか。
ベルモンド子爵の件ですが、昔そのようなことがあったとは……このマルチェロ、存じませんでした。それについては心よりお詫びいたします。我が子のように可愛がっていたククールを手放す恐れがあったのでは、院長のご心配も尤もでありましょう。
しかし、あれももう大人……心配は無用にございます。現に、子爵のもとに赴いてもククールはここに帰ってきたではありませんか」
優しい瞳で、慈愛に満ちた笑みを作ってみせる。
しかし、自分の父親代わりである目の前の老人には、その言葉も表情も、全てが偽りのものであると見抜かれているだろう。
オディロの寂寞の瞳が、言葉以上に全てを語っているのだ。
「お前は優しく、素直な子だ。それは昔から変わっておらん。しかし、ククールが絡むことになると別……。お前はよく嘘をつく」
「このマルチェロ、院長に対して嘘偽りなどございません。あれのことに関しても、それは然り」
膝を折ってマルチェロが傅けば、オディロは諦めたように……それでも優しげな瞳で息をつく。
「お前がそう言うのならその通りなのだろうな。
―――しかし、この老いぼれは、お前が心配なのだ。マルチェロ」
顔を上げて、マルチェロは眉を顰めた。
「私が、心配……?」
頷いて、オディロは続ける。
「そう。わたしはな、ククールのことは心配しておらぬ。なぜならば、あの子は光に護られておるからだ」
「あのククールが、神に護られていると?」 マルチェロは苦笑った。
「神というよりは……何か別のものだ。ククール自身が纏う光なのか、それとも特別な力を持った者によっての光なのか。死期が近いのかのう……最近強く感じるのだよ」
―――馬鹿馬鹿しい。
そう口に出しそうになって、マルチェロは慌てて口を噤む。
「わたしは……その光の正体が、マルチェロ……お前だと思っておる」
「まさか!」
少々強めにオディロの言葉を遮る。今度は否定の言葉を抑えることができなかった。
あれにとっての光が自分?
あれを護る光が、この自分であるはずがない!
憎んでも憎み足りない異母弟。
彼がこの修道院に来てから、自分はひたすら上を目指した。
ククールと同じ場所に居たくなかった。もう、奪われたくなかった。
彼が到底届かない、高いところを目指して……必死に偽物の羽を拵えたのだ。
「真っ向から否定するか。うん、それも良いだろうて……」
はっとして、マルチェロはオディロの表情を伺った。
その柔らかい表情を見て、厳しさに強張っていたマルチェロの顔が緩む。
オディロはマルチェロを否定しない。誤ったことをして諌めることはあっても、マルチェロそのものを否定したことはないのだ。
「さて、少々疲れたのう。マルチェロや、しばらく休ませてもらって良いかな」
「はい。どうかゆっくりお休みください」
院長の手をとって、マルチェロは寝台に促す。
枕元に手早く飲み物を用意して、カーテンを閉めた。
力を持ち始めた現在。
たまに、院長の存在を疎ましく感じることがある。
彼が居なければ、と思うこともある。
しかし、自分自身にとってオディロ院長は”かけがえのない人物”なのだとマルチェロも理解している。
一日でも、一秒でも長く、自分を見ていて欲しいと思った。
自分が偽りの羽でここを飛び立つことがないように。
『母さん、もしも僕に羽があったらね、高いところに行ってみたいとは思わないんだ。
僕は、あそこに―――空の終わるところと海の終わるところ……あの場所を見にいきたい』 |