その日は朝から早坂の様子が何時もと違った。向かい合って朝食をとる間も常に何処か嬉しそうに微笑んでいるし、自分とふと目が合うと、眼を輝かせてその笑みを強める。一言で言えば“上機嫌”と言う奴だろうか。マーガリンがたっぷり塗られたトーストの最後の欠片を口に放り込み、コップ半分の牛乳を一気に飲み下す望月をニコニコと見詰めながら、今日は常に両端が上がり気味の早坂の口が開いた。
「ねぇ、駿君。今日は早く帰って来る?」
「え? 何だよ、急に。うーん…多分、何時も通りかな? 何で?」
  “何で?”だって。分かってるくせに。望月の質問に白々しささえ覚えた早坂は改めて笑ったが、そのまま首を左右に振った。
「何でもないんだ。あ、ほら。早く行かないと遅刻するよ? 駿君は今日は一限から講義が入ってるんじゃなかった? 僕は今日三限からだから、まだゆっくり出来るけど…」
「へ? …あ、マジだ! あの講義、これ以上サボると単位ヤバイんだよ!」
  掛け時計を見た瞬間、さっと顔が青くなった望月は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると慌ただしく準備をし、行って来ますだか何だか早口で言いながら、部屋を飛び出して行った。
 やれやれ。笑顔を微かな苦笑に変えてコーヒーを啜りつつテレビの電源を入れると、画面の中で女性レポーターが何かをレポートする後ろで幼稚園児らしい子供達ががキャアキャア言いながら何かを作り、長方形の色紙に何かを書いて、何かを持った先生らしき大人に殺到していた。
「…七夕飾り」
  口の中でポツリと呟いた早坂の眼前のテレビの中で、子供達が各自で作った七夕飾りと覚えたばかりの字で願い事を書いた短冊を持って、大人が持っている笹に飾り付けをし、その様子を見ていた早坂はまた小さく笑った。
 七月七日。世間一般で七夕と言われるこの日は僕の誕生日。彼は今日がその日である事に気付いているだろうか? …気付いているよね? だって、毎年色々な物をくれたもの。子供の頃は摘んでくれた花や彼の宝物だと言う カードゲームのカードをくれ、少し大きくなったある年は欲しがっていた本をくれ、またある年は金欠だったから…と恥ずかしそうに言いながら似顔絵を描いて贈ってくれた。毎年、七夕の日に彼がくれた贈り物は全て大事な宝物。今年は何をくれるのだろう?  また今年も1つ増えるであろう宝物に胸を膨らませる早坂の耳にチャイム音が飛び込んだ。
「早坂さーんっ、お届け物でーす」
「あ、はーい」
  チャイムの後に続く若い男性の声に返事を返しながらサイドボードの上の印鑑を手にして玄関に向かい、ガッチリした体格の配達員から印と引き換えに荷物を受け取った早坂は、配達員が去った後に荷物の上に貼られた伝票を見ると同時に頬を嬉しそうに上気させて荷物の包装を丁寧に解き始めた。わざわざ配達日を今日に指定して送られて来た荷物の送り主は実家の母親だった。箱を開けると真っ先に出て来たのは真っ白な封筒。その中から出て来たこれまた真っ白な便箋には母の人柄が滲み出ているような上品な字が規則正しく並んでいる。
『貴方が家を出て初めてのお誕生日ですね。おめでとう。貴方がいない家は少し寂しいですが、夢に向かって頑張る姿を何時も思い浮かべています。またいつでも帰って来て下さいね。どうか、身体に気を付けて。 追伸:駿君に迷惑をかけないようにね』
「…母さん」
  口の中で呟きつつ、早坂はほんの微かながら苦笑を浮かべた。駿君に迷惑をかけないように、か。ホント、母さんは全てをお見通しだな。手紙を大事そうに畳み、封筒に入れた早坂は改めて箱を覗き込んだ。中には見慣れぬパッケージの紅茶の缶が並んでいる。
「そう言えば、僕が家を出て暫く後にお茶の専門店が近所に出来て、そこの紅茶が凄く美味しいって母さん言ってたな。その紅茶かな?」
  箱から取り出したそれを様々な角度から眺めていた早坂だったが、やがて満面の笑みを浮かべて丁寧に紅茶を箱の中に戻した。
 初めて想い人と二人きりで迎える誕生日としては幸先の良いスタートだと思った。

 陽が夕方に向かって僅かながら傾き始めた頃に授業を終えてアパートに戻った早坂は、リビングのソファーに背中から飛び込みながら手の中にある携帯電話の液晶画面を見てフフッと笑った。学校にいる間に父親からも姉からも祝福のメールが届いた。そして
『生きてるか? 今日ってお前の誕生日だろ?おめ』
  学校帰りに突然届いたぶっきらぼうなメールの送り主は服部竜一だった。この町に引っ越す数日前に暫しの別れの挨拶をして以来全く連絡をして来なかった(自分もついつい忘れていたのだが)上に久し振りにメールをくれたかと思えば、この文面。だが其処がまた彼らしい気もするし、何よりも自分の誕生日を覚えていてくれたのが嬉しくて自然と顔が綻んだ。
『生きてるよ。今日は僕の誕生日です。ありがとう』
  彼からのメールに合わせた短い返事を打って送信し、画面の中で紙飛行機が飛んでいくのを確認すると電話を閉じてテーブルの上に置く。小さく息を吐いた早坂は掛け時計を見上げて、自然と口を開いた。
「駿君、早く帰って来ないかな」

 時計の短針が無情に進む毎に早坂はソワソワと落ち着き無く身体を揺らした。普段なら、とっくに夕飯を食べ、呑気に寝転がってテレビを観て笑っている時間なのに、今日に限って彼が帰って来る気配すら感じない。
 駿君、どうかしたのかな。連絡してみようかな。テーブルの上に置いていた携帯電話を手にとって、余り多いとは言えないアドレス帳から望月の名前を探し出すが、其処まで進めた所で指を止める。駿君に電話して 、何と言えば良いんだろう? 早く帰って来て。今日は僕の誕生日なんだよ、って言う訳?
「…………」
 ゆっくりと首を振って携帯電話を元の場所に置く。自分で今日が誕生日である事を彼に伝えるのは恥ずかしいと言うか、何かを催促しているようで嫌な気分がする。
「駿君、分かってる筈だよね…。忘れる訳ないよね…?」
  口ではそう言うが、ふとある予想が脳裏に浮かぶ。もしかしたら、うっかりコンビニのバイトを入れてしまったのかも知れない。入れるつもりは無くても、誰かが急に休んだとか言ってピンチヒッターとして急遽出る事になったとか。早坂の頭の中で望月がバイト先のカウンターでチラチラと時計を見上げ、落ち着き無く身体を揺らした。
「うん。きっと、そうなんだ」
焦りが普段の冷静さを奪っているらしく、自分の予想を強引に確信に変えた早坂はスックと立ち上がって外出の準備を始めた。何にせよ、彼のバイト先まで見に行ってみよう。誕生日である今日が終わってしまう前に一言だけでも話がしたい、たった一言のある言葉を彼の口から聞きたいから。

 其処にお目当ての人物がいると無理矢理思い込んでいる所為か、コンビニエンスストアまでの緩い坂道を無意識の内に小走りで下ってしまう。辺りの商店の照明が所々で消えている中、ある店から眩く溢れ出ている光が目に入った瞬間、早坂の口元に自然と微笑が浮かんだ。あの光の中に駿君がいる。きっと 、いや、絶対。
 弁当の入った袋を持って出て来たサラリーマン風の男性と擦れ違いながら店の中を覗いた早坂は、えっ…と口の中で呟いた。視線の先にいるカウンターに店員が一人立っていて笑顔で接客をしている。望月か羽鳥が休みの時に出て来る同年代の学生だった。
「あれ? じゃあ、羽鳥さんがお休みなのかな? 急に風邪引いて寝込んじゃったとか…」
  胸に広がる動揺を抑え、人知れず呟きつつ店に一歩二歩と歩を進める。きっと、駿君が羽鳥さんのピンチヒッターで出て、商品陳列か何かしてるんだ。うん、そうなんだ。例によって無理矢理決めつつ店のドアに手を伸ばそうとした早坂だったが、その瞬間に何者かに肩を叩かれ、結構派手に肩と心臓が跳ねたのを自分でも感じた。
「どうしたんだよ。コソコソ店の中覗いたりして。何か挙動不審っつーか」
「…………」
  背後から聞こえた声に早坂は曖昧な笑顔を見せながら振り向き、そして静かに俯いた。俯いた際に一瞬視界に入ったのは店からの光に煌いた銀色の十字架。どう見ても失望している態度に十字架の主である青年は維持していた笑顔を怪訝そうな表情に変えたが、自分の靴先をボンヤリ見詰めていた早坂は勿論それには気付かなかった。
「あ、あの、羽鳥さん。今日は駿君は…」
  数秒かけて何とか気を取り直した早坂が顔を上げ、探し人の名を口にした途端に羽鳥の瞳が丸くなった。
「は? 駿? アイツ、今日休みだぜ? わざわざ希望休暇とってさ」
「えっ」
  じゃあ、彼は何処に行ってしまったのだろう? 戸惑い、眉を顰めて無意識に胸元で拳を握る早坂の表情の変化に羽鳥は小さく苦笑を浮かべた。
「もしかして、駿の奴帰って来てねぇワケ? お前の誕生日だっつーに」
「っ! 僕の誕生日、覚えていてくれてたの?」
「まぁ、七夕だから忘れ難いわな。俺の誕生日と10日ぐらいしか変わらねぇしさ。あ、そう言えば、この前の誕生日プレゼント有難うな。駿と連名でくれた抱き枕。最初見た時は正直“何でペンギン…”って思ったけど、実際使ってみると結構良いわアレ。一応、携帯では言ったけど、まだお前にはこうして面と向かった状態で礼言ってなかったから」
「あ、うん。喜んで貰えて嬉しいよ」
「心此処に在らずって感じだな」
  早坂の視線も声色も何処か虚ろである事に気付いたらしい羽鳥は改めて苦笑を浮かべ、頭を掻きつつ天を仰いだ。
「え? ご、ゴメン」
「いや、良いんだけどさ。お前の彦星様は何処に行ったのかねぇ?」
「…………」
  羽鳥と同じく天を仰いで星空を眺める早坂だったが、やがてゆっくりと首を振りつつ視線を羽鳥に戻して口を小さく開いた。
「とりあえず、アパートに帰ってみるよ。もしかしたら、駿君帰ってるかも知れないし…」
「あぁ、ちょっと待てよ」
  自分で言っている内にまたしても強引な確信を得たのかその場から駆け去ろうとする早坂の腕を掴んだ羽鳥が慌てた様子で声をかけ、その場で暫く待つように指示しながら店内へと駆け込み、数分も経たぬ内に忙しく戻って来た。
「ほら、コレ持ってけ」
「えっ、何?」
「大したモンじゃないけど、誕生日プレゼント。おめでとさん」
「あ、有難う…」
突き出された小さな包みを半ば相手の勢いに乗せられて両手で受け取り、黒い紙に包まれているそれを凝視する早坂の耳に羽鳥の声が入って来た。
「…ホントは、駿に言われたいんだろうけどな」
「!!」
  羽鳥の“読心術”に顔を上げて瞠目すると、相手は図星かよと困ったように笑って早坂の背中を軽く叩いた。
「大丈夫だって。いくら鈍感なアイツでも、好きな人の誕生日忘れるほど酷かねぇだろ」
「…だと良いけど…」
「駿を信じてやれよ。お前が思っている以上にアイツはお前の事が好きなんだから」
  自然と視線を落として語尾を弱める早坂の顔を覗き込んだ羽鳥は、元気付けるように満面の笑みを浮かべて背中を再度叩いた。