嘘だろ!?
望月は心の中で叫び、口内に溜まった唾をゴクリと喉を鳴らして飲み下した。自然と妙な汗が滲み始める自分の視線の先には、眼にこんもりと涙を浮かべて自分を睨んで来る早坂。そして、彼が大事そうに押さえている腹部は、彼の体型には不自然な膨らみを帯びている。そう、まるで、中に何かがいるような。その“何か”を口にする勇気は到底湧いて来ないけれど。
「あ、あの…良ちゃん。えっと…どうしたんだよ、その腹…」
「どうしたもこうしたもないだろう!? 君の赤ちゃんが中にいるに決まってるじゃないか!!」
「あ、あかっ、あ、あ、あかかっ…」
開きっぱなしの口の奥で歯を鳴らしながら妙な言葉(本当は早坂が自分よりも先に言った“何か”の正体を言っているつもりだったが、言えていない事は本人も分かっていた)を吐き、歯と同じように不安定に震える指で相手の腹を指差すと、差された方は瞳を反らして俯いた。
「に、妊娠だってしちゃうよ…君ってば、したくなったら問答無用で僕を押し倒した挙句に、何も考えずに僕の中に出すんだから…」
い、いや、俺、ヤる時は、ちゃんと良ちゃんの了承を得てるんですけど? 早坂の一方的な非難に望月は眉間に皺を寄せたが、今余計な事を言えば修羅場が激化するのは目に見えている。とにかく、今は何とかこの空気を何とかしなければ。望月は大きく深呼吸をした後、場を取り繕うように何とか笑顔を見せて早坂の腹の出っ張りを軽く撫で、おどけた声で言った。
「全く…そう言うタチの悪い冗談は止せよなぁ?どうせ、中にはクッションか何かが入ってるんだろ?」
やや引き攣り気味の笑顔を維持して腹を撫でて来る望月の手に妙な振動が走る。クッションか何かでは、まず出来ない、撫でて来る手を拒否するような反応。そう、それはまさに…。
「うわあぁぁああっ!! う、動いたっ!! 俺の手、蹴ったああぁあぁぁあーーーっ!!!」
「だから、君の赤ちゃんがいるって言ってるだろう!? しらばっくれるのも好い加減にしてよ!!」
嘘だ!! 俺の子じゃない!! ある意味、最低とも思われそうな言葉を何とか飲み込んで目を白黒させる望月の鼻先と鼻先がくっ付き合いそうになるまで詰め寄って来た早坂の眼から、溜まっていた涙が耐え切れなくなってポロポロと零れ落ちる。どうしてくれるの!?
混乱する望月の耳に金切り声が聞こえた気がした。
嘘だ。嘘だよな。嘘じゃなかったらどうしよう。そう言えば、ちょっと前に良ちゃん、風邪引いたとか言ってトイレで何回か吐いてたような……まさか、アレは風邪じゃなくてつわり?
もし、そうだとしたら、やっぱり俺の子供? あぁ…俺、良ちゃんの親に謝らないといけないのかな。良ちゃんの親にも俺の親にも滅茶苦茶怒られるだろうなぁ。何せ孕ませちまったもんなぁ。って、そうじゃなくって!!
俺、信じねぇからなっ!! 絶対に嘘だ! 嘘じゃないと駄目だ! 誰か嘘だと言ってくれ!! もう、この際ドッキリうんたらとか書いたご大層なプラカード持った奴がひょっこり現れるだけでも良い。とにかく……誰でも良いから………
「嘘だと言ってくれえぇーーっ!!!」
自分の絶叫の大きさにハッと目を見開いた望月の視界に飛び込んだのは居間の天井。どうやら、いつぞやの様にまた自分は居間のソファーでうたた寝をし、どうも後ろ向きな内容の悪夢を見てしまったらしい。時計を見ると、自分が家に戻ってから1時間近く経とうとしている所だった。
「夢か…。そうだよな……良ちゃん、男なんだからガキ出来る訳無いよな…」
伸びをしながら台所の冷蔵庫を開け、グラスに注いだ冷たい烏龍茶を一口飲んで小さなゲップをした望月は、そのまま小さく溜息を吐いた。夢にしては、自分はヤケにリアルにうろたえていたみたいだけど。
「そう言えば、良ちゃん遅いな。普段なら、もう帰って来て夕飯の準備とか始めてる時間なのに…」
改めて時計を見る望月の脳裏に浮かぶのは、夢の中で腹を大きくして泣いていた早坂の顔。その悪夢を完全に断ち切るには、現実世界の早坂のあどけない笑顔が必要な気がした。
「ただいま」
何とかをすれば影。少し錆びた金属の扉が開く音に望月の耳がピクンッと反応し、足が自然と玄関へと向かう。
「お帰り、良ちゃ……!?」
満面の笑顔で出迎える筈だった望月の顔が何かを見た途端に凍り付き、表情と同じく身体もその場に固まってしまう。氷像と化した望月の視線の先には早坂の腹部。普段は均整のとれたラインを維持している其処が、今日は何故か少し出っ張っている。そう、ついさっき見た悪夢のそれと似た不自然な膨らみ。
「?」
言葉を切って固まってしまった望月に早坂は小さく首を傾げたが、相手の視線を釘付けにしている腹を一度丁寧に擦った後、足早に台所へと向かい、廊下には氷像のみが残った。
…何? 氷の像が漸く動き出し、瞼を瞬かせる。さっきの良ちゃんの腹……あれ、太ったんじゃないよな? だって、朝見た時は何時も通りだったもんな? 人間って数時間であんなに太るもんなのか?
しかも、あんな不自然に腹だけ出て…。まさか、悪い病気? それとも、もしかして…
「りょ、良ちゃん!!」
本当ならありえない事なのだが、悪夢の影響を引き摺っているらしい望月は声を上ずらせながら、台所へと駆けると自分に背中を向けた状態で床に座り込んでいる早坂がいた。え?
もしかして、つわりで苦しい訳? 色々と暴走する妄想に目を回しかけつつ、望月は大きく深呼吸して軽い咳払いをした。
「あ、あの、良ちゃん…親は誰なんだ?」
「は?」
突然の意味不明な質問に振り向く早坂の眉間に細い縦線が数本描かれたが、望月の真剣な表情に目が丸くなり、そのまま丸い目は忙しく細められてクスクスと笑い出す。それでも表情を崩さぬ望月に早坂は改めて吹き出した。
「ククッ…。へ、変なの。駿君、真剣な顔して何言ってるの? 僕の親は誰って…君も何度も会ってるから知ってるだろう?」
「ち、ち、違う!! 良ちゃんの親じゃなくって、良ちゃんの腹にいる…うんっ!?」
早坂の前方に回りこんで腹部を覗くと、確かに出っ張っていた其処は元に戻っている。そして、その腹の前では真っ黒い毛の塊がモゾモゾと動いていた。
「みーっ」
「…子猫?」
目が合った瞬間にゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってきた小さな黒い塊の正体を口にすると、早坂は小さく頷いた。
「この子、スーパーの近くにある空き地で一人ぼっちで捨てられてたんだ。ダンボールの中で凄く鳴いてたから、放って置けなくて…」
二人の周りをウロチョロする子猫を抱き上げ、いとおしそうに頭を撫でていた早坂は望月の瞳を真正面から見詰め、小さく深呼吸して口を開いた。
「お願い! この子を飼わせて! この子の面倒は僕が全部見るし、餌代とかも僕が出すから!!」
「い、いや、世話とか金の事は良いんだけどさ。その……」
突然の事にどう答えて良いか分からずに白黒する相手の目に早坂の眉が悲しそうに顰められた。
「た、確かに急に子猫飼いたいなんて言っても困っちゃうよね。でも、駿君。実は僕、毎晩ちょっと寂しいんだ。駿君がバイトに行っている間、ずっと一人だから。…でも、この子が居てくれたら、その寂しさも無くなるんじゃないかなって…」
「…………」
腕の中の小さな身体を抱き締めて俯き加減に話す早坂の表情に自然と望月の眉も八の字になっていったが、ある一つの疑問が脳裏をよぎり、自然と口から飛び出した。
「でも、このアパートってペット飼って良かったっけ?」
「………」
わかんない。俯いたままポツリと口にする早坂だったが、黒い毛玉が小さく鳴いた瞬間に瞳に強い意志の光が宿り、顔を上げて瞳と同じ強い口調で言った。
「今から大家さんに聞きに行って来る。それでもし、ペット禁止だったら説得してみる。だって、この子は捨てられて、そのまま一人ぼっちで死ぬ為に生まれたんじゃないもん!!」
「…………」
その意志で輝く瞳を見た望月は心の中で呟いた。変わらないな、お前のそう言う所。そう、あの時もお前は同じような事を言ったよな。
望月の脳裏に流れ出すのは、ある晴れた空の下、ランドセルを背負って家路を進む幼い自分と親友。その日も何時も通り、自分は彼と今流行の漫画の今後の展開を予想したり、本から得たなぞなぞを出し合いながら歩いていたのだ。
「あっ」
小さな声と共に彼の歩が急に止まったのは、それから暫くの事。突然の事に何事かと自分も止まろうとした時には、彼はランドセルをガタガタと鳴らしながら土手を駆け下りていた。
「お、おいっ! 良ちゃん!! 急にどうしたんだよ!!」
俊足自慢の自分と同じ、いやそれ以上のスピードで河原へと駆けて行った友に微かに狼狽しつつ自分も彼と同じく土手を下ると、河原の片隅で座り込んでいる彼が居た。
「君、一人なの? ママは?」
一体、彼は何を地面に話しかけているのか。彼の不可解な行動に頭を密かに抱えつつも殆どをランドセルの黒で覆われた背中に近付くと、“拾って下さい”と殴り書きされた泥まみれのみかん箱が目に入り、その中から柔らかい毛に覆われた小さな手がこれまた小さな爪を出しているのが見えた。
「あっ、子猫だ! 可愛いなぁ」
感じるがままの感想を口にして笑みを浮かべる自分に対し、彼は何処か悲しそうな顔をしてみかん箱の中に手を伸ばしていた。
「君だけ捨てられちゃったの? それとも、君だけ拾ってもらってないの? どっちにしても、君は一人ぼっちなんだ?」
「良ちゃん?」
普段は余り見ない友の表情と態度に首を傾げる自分も見えていない様子で彼は細い腕で小さな生命を抱え、声を震わせた。
「酷いよね…こんなに小さいのに家族と引き離されちゃったんだ…。でも、大丈夫。僕が君の側に居るから」
「そ、側に居るって…どうするんだよ、良ちゃん」
その声に漸く自分の存在を思い出したかのように彼は振り向き、瞳に滲んでいた涙を慌てて拭って言った。
「僕、お母さんに聞いてみる。この子を飼って良いかって。駄目って言われても諦めないよ。僕はこの子の側に居るんだって決めたんだから。この子は、このまま此処で寂しく死んだりする為に生まれたんじゃないと思うんだ…」
彼の声に反応したかのように一声鳴いた子猫を彼はただ抱き締めていた。
その次の日の朝、自分の家まで迎えに来た彼は自分と目が合った途端に満面の笑顔を浮かべたのを覚えている。あのね、僕が一生懸命お世話するって言ったらね、お母さん飼って良いって言ってくれたんだ。普段は大人しい彼が見せた最高の笑顔に自分も自然と顔が綻んだものだ。
チロルにしたんだ。それからまた二日ほど経った日の登校途中、彼はいきなりこう言った。
「チロル?」
「うん。チロル」
「何が?」
イマイチ彼の言いたい事が分からずに問うと、彼ははにかみ笑いを浮かべた。
「あのね、この前拾ったあの子の名前」
「あぁ、あの猫な。って、チロル!? ククッ…何だよ、そのチョコレートみたいな名前!」
「えっ!? 何で、そんなに笑うのさ!」
悪いと思いつつも、彼の膨れた頬を見ると余計に笑いが込み上げてしまう。身体を少し前に傾けて肩を震わせる自分を見た彼は、顔を赤くしつつもそっぽを向いてしまった。
…とまぁ、自分に語る思い出話はさておき。あの頃から10年ほど経った今でも変わらない何かを持ち続けている早坂を何処か眩しく感じ、思わず目を細めて見詰めていると、彼は小さく首を傾げたが、やがてスックと立ち上がった。
「じゃあ、大家さんの所に行って来るから」
「え? その猫連れてか?」
「うん。この子も連れて行った方が説得し易い気がするから」
「あ、あぁ。その、何だ。頑張れよ」
言っている本人も適切と言えるかどうか悩む言葉を口にすると同時に、もっとマシな言葉は無かったのかと密かに自分を責める望月だったが、その言葉にも早坂は嬉しそうに微笑んで小さく頷いた。
「うん、もしもペットが駄目だった時は頑張るよ。説得しないと行けないから。…じゃあ、行って来ます」
母親が幼子にするそれのように腕の中の子猫の手を掴んで軽く振らせて笑い、扉を開けて部屋を出る。その背中を見届けた望月は、心配そうに腕を組んで大きく息を吐いた。
居間の掛け時計が何時もよりも大きな音で時を刻んでいる気がする。遅い。口の中で呟いて改めて時計を見る。早坂が子猫を抱えて部屋を出てから、既に30分は経とうとしている。猫を飼いたいんですけど、このアパートはペットOKですか。OKですよ。そうか、良かった。これだけの会話なら30分も必要が無い筈だ。やはり、ペット禁止と言う事で、彼は必死に説得しているのだろうか。目を瞑ると懇願する早坂の姿が容易に浮かんで来る。お願いします。僕に出来る事なら何でもしますから。
「何でも?」
瞼の裏の早坂の台詞を口の中で反復した望月の瞳がハッと大きく見開かれた。反復した一言からある事を思い浮かべた望月は、まさか…と小さく呟き、舌で唇を濡らした。