-刻-

 いつもと同じ授業中。欠伸を噛み締めながら黒板を睨む。空腹を感じたので時計を見てみると、昼休みまで残り僅かの時間だった。あと少しか、でもその「あと少し」が長いんだよなぁ。手元のシャープペンシルを器用にクルクルッと回しながら望月は欠伸を噛み締め、涙が滲む目をコッソリと拭った。

 長く感じる授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響くと、眠たそうな顔が一転してパッと輝いた。そのまま素早く鞄の中から弁当包みを二つ取り出す。
「お? またアイツの分も作ってきたのかよ」
「ホントにお前は健気と言うか、お人好しと言うか……」
 パンを齧りつつ、からかってくるのは竜一・竜二のダブルドラゴン兄弟。その二人に笑顔を返しながら弁当包みを抱えた望月は答えた。
「いいじゃないですか。どうせ、弁当を作るんなら一人分も二人分も余り変わらないでしょう?」
 からかわれていると言う事を分かっているのかいないのか。ただニコニコと笑いながら教室を後にする姿に、二人は互いに自分の鏡であるような兄・弟の顔を見、微妙な笑顔を見せた。

「小林さん!」
 お目当ての人物はいつものように、階段の踊り場で待っていた。整ってはいるが、冷たく張り詰めたような顔が望月と目が合った途端に溶けるように緩む。
「今日もお弁当作って来たんです。一緒に食べましょう?」
「あぁ、勿論。いつもすまないな、望月」
「そんなっ! 気にしないで下さいって、いつも言ってるじゃないですかぁ」
 さりげなく、弁当を手に取りながら屋上への階段を上り、扉を開けると同時に目に飛び込んできた日の光に二人は思わず目を細めた。腕で影を作り、目に入る光を遮りながらフェンスの方へ進み、腰を下ろす。
「……相変わらず可愛らしい弁当なんだな」
 弁当の包みを解き、弁当箱を開けた小林の毎日の第一声がこれであった。密かに苦笑を浮かべ、子供が喜びそうな可愛らしいタコウィンナーやウサギリンゴなどが入った弁当を見る。だが、望月はそんな小林の心情など知る訳がなく
「可愛いでしょう? 最近はカニウィンナーも作れるようになったんですよ。ウサギリンゴも上手に出来るようになったし」
 とニコニコと説明するばかりであった。その微妙なズレと純粋な所が彼の魅力でもあるのだが。
「あぁ。日に日に上達していくのが分かる」
 と笑顔で褒めると、はにかみ笑いを見せる所がまた愛らしい。しかし、彼には「冷峰四天王」の肩書きがある。その笑顔や作る弁当、普段の言動からは余り想像出来ないが、自分の配下として他校の生徒と殴り合う時もある。
 彼が四天王の一人であるのは、勿論実力を買っていると言う理由もあるのだが、本当の理由は“極力自分の目に彼の姿が入るように”と言う事だった。四天王の頭である自分の側に置いておけば、いざと言う時に守れる。何かあっても、すぐに飛んでいける。常に彼の姿を追う事が出来る――
「小林さん?」
 ハッと気が付くと、目の前に望月の心配そうな顔があった。いつの間にか呆けていたらしい。
「どうしたんですか? ボーっとして。あの……美味しくなかったんですか?」
 本人は無意識なのだろうが、顔を少しづつ近付けて来る。澄んだ瞳に自分自身の呆け顔が映っているのが我ながら情けない。
「いや、そう言う訳ではないのだが」
 冷静に微笑を見せながら答えるが、何故か心の中は熱く渦巻いていた。あの澄んだ瞳を見ていると独占欲が掻き立てられる。あの瞳も、心も何もかも、自分だけの物にしてしまいたい。誰にも見せたくない、渡したくない。心配そうに覗き込む切なげな瞳も、笑うと輝く純粋な瞳も自分だけの物になったら。
 気が付くと腕が素早く伸び、相手の肩を掴んでいた。掴まれた方は目を白黒させているようだが、躊躇せずに引き寄せ、腰に手を回す。片手で腰を支え、もう片方で頭を固定し、動揺して動けない相手の僅かに開かれた唇に自分の唇を重ねて
「!!」
 望月が手の中でもがくが、力では適わない上に動揺も手伝って力が出ず、体も思い通りに動かない。唇を重ねて離し、また重ねて離す…と言う行為を繰り返される度に互いに鼓動が激しくなり、頬が上気してくる。頬を染め、僅かに瞳を湿らせる望月にフッと笑みを零しながら頭を固定していた手を、首元に移す。手はそのまま制服の襟を開き、前を開いていく。制服の前が半分開いた状態で、そっと押し倒そうとしたその時。ムードを一気に壊すような甲高いチャイムが鳴った。その音に望月はハッと我に帰り、
「い、嫌だぁっ!!」
 同じくチャイムで一瞬の隙を見せた小林を力の限りに突き飛ばし、そのまま校舎内に飛び込んで行った。
「……」
 私は何と言う事を……。唇を押さえながら小林は自己嫌悪に陥った。今、何をしようとしていた? あの時、チャイムが鳴らなかったら、今頃望月に何をしていた? 何にせよ、今の行動で望月は自分に幻滅したであろう。もう、自分を慕う事はないかもしれない。唯一、自分を心から慕い、支えてくれる存在だったのに。
「最悪だ……」
 ポツリと呟いた小林は、そのままフェンスに寄りかかり顔を手で覆った。

 教室に駆け込む望月の手は制服の胸元を握り締めていた。異常にドキドキしている。何だか身体も熱いのは走っているからか。それとも。
「……」
 数分前の事がリアルに頭の中で蘇る。あの時、小林さんは何をしようとしていたんだろう? 偶然、唇が当たっただけ……にしては、何度も繰り返ししていたし、何よりも。顔を赤く染め、乱れた制服の前を止める。それでも胸の鼓動は高鳴ったままだ。もし、あのままチャイムも邪魔もなかったらどうしてたんだろう。まさか……。
「嘘だよな。俺達、男同士だし」
 誰にも聞こえぬ声で呟きながら、望月は唇にそっと触れた。

 下校のチャイムが鳴るまで、望月はずっと上の空だった。何度も教師に注意され、チョークを投げ付けられ、立たされ、問題の答えを言わされ。それでも、上の空は改善されなかった。それほどまでに昼に起こった出来事の衝撃が大きかった。今後、小林さんとどう付き合えばいいだろう。午後の授業を全て潰して考え続けた事。下校時に漸く出て来た答えは「いつも通りに付き合う」と言うありふれたものになってしまった。きっと、小林さん疲れてるか何かで少しおかしかったんだ。もしかしたら、からかっているだけかも知れない。どうにか前向きに事を考えようとする望月の心の隅には妙な不安が渦巻いてはいたが、敢えてそれを打ち消すかのように校門に向かって走り出した。

 溜め息を吐きながら校門に向かう小林の小脇に抱えられた鞄には、昼に空にした弁当箱が二つ入っていた。普段なら、昼休みの終わりに望月が持ち帰るのだが、今日は例の事で逃げてしまった為に彼は弁当箱の事など忘れてしまっていた。
 もしも、会えたら一言謝って、弁当箱だけでも返して、そして、彼の前から去ろう。小林の頭の中に綿密な計画が立てられる。望月に幻滅された、嫌われた。そう信じ込んでしまっている彼の頭には「望月の目の前から消える」と言う選択しかない。その望月が悩める小林の姿を捉えたのは、それから数分後の事であった。
「小林さん!」
 精一杯、いつもと同じ笑顔を作って駆け寄るが、対する小林の方は、あぁ、と曖昧な返事をするだけであった。
「どうしたんですか? 元気ないですね」
「元気も何も……幻滅しただろう?」
 敢えて、振り向かずに口を開く小林の台詞に、一瞬胸をドキリとさせながらも平静を装って笑顔を作り、明るい声を出す。
「幻滅って……何の事ですか?」
「何の事って、昼のこ」
「そんなの知りませんよ! ほら、帰りましょう!」
 小林の言葉を途中で遮るかのように声を張り上げ、望月は顔を覗き込んで出来る限りの笑顔を見せた。

 帰路の途中、小林が昼の事を言おうとすれば望月は「知らない」の一点張り。そんな望月に妙な愛おしさを感じる。私なんかに気を使っているのか、それとも忘れたいのか。…そんな事はどうでもいい。相変わらずの笑顔を見せる望月に対する独占欲がまたしても湧いて来る。既に昼にその欲が暴走してしまっているのに。いや「未遂」で終わってしまったから余計に欲望が強くなってしまったかも知れない。
 小林の頭の中の綿密な計画が「望月の目の前から消える」から「望月を自分だけの物にする」に変わっていく。自分だけの物にするにはどうすればいいのか。簡単だ。欲望のままに扱ってしまえばいい。ただ、相手にも不審がられず、誰にも邪魔されないようにするにはどうすればいいのか。その答えはすぐに見付かってしまった。
「なぁ、望月。今日は暇だろう、私の家に寄っていかないか?」
「え? いいんですか?」
「何を今更、遠慮してるんだ。いつも遊びに来るくせに」
「ハハッ、そうですよね。じゃあ、御邪魔します」
やっぱりな。思った以上に簡単に捕まってしまった。「獲物」を「罠」に仕掛ける事に成功した小林は心の中でクスクスと笑った。独占欲に支配された獣に狙われてしまい、その罠に引っ掛かってしまった事を望月は知らない。

 小さく質素なアパートの鉄の扉が開かれる。部屋の中には誰も居なかった。
「お邪魔します。あれ? 小林さん。おばさんはどうしたんですか?」
「母なら、数日前から父の元に居る。あんな父親の世話など焼く必要もないだろうに」
「あ……。ご、ごめんなさい!」
 父の事を口にした途端に表情が暗く、冷たくなった小林を見て慌てて頭を下げる。小林の家庭の事情は望月も知っていた。彼は上流階級の出身だったが、彼の父親が何者かに騙されて莫大な借金を背負ってしまった事。その為に会社が倒産してしまい、零落れて行く父親に嫌気が差して家出をし、今のような生活をしている事――
「気にするな。お前が謝るような事ではないだろう?」
 フッと何処となく寂しげに笑いながらも、子供をあやすかのように望月を撫でると、撫でられた方は嬉しそうに目を細めた。本当に子供だ。しかし、ある意味で子供である方が面白いかも知れない。彼みたいな人間が独占欲による行為を強いられたらどう言う反応をするのだろうか。
 このまま押し倒してしまいたい衝動を必死に抑えながら小林は望月をソファーに座らせ、冷蔵庫の中にある缶コーラを取り出した。

 部屋にかけられている時計が六時を知らせる鐘を鳴らすと、望月はハッと顔を上げた。
「もう六時ですか? そろそろ帰らないと」
「待て、明日は祝日で休みだろう? 泊まって行けばいいじゃないか」
「え」
 ソファーから立ち上がろうとする望月の制服の裾を掴んで見上げる小林に、思わずきょとんとした瞳を返してしまう。確かに今までも小林の家に泊まった事はあったのだが、それは事前に計画されている状態だった事であり、今回のように唐突に泊まれと言われた事は初めてであった。
「で、でも、俺、着替えも何も用意していないですし」
「着替え位、私のを貸してやる。ここ数日ずっと一人で話相手もいなかったんだ。今日一日位、私の相手をしてやってくれないか?」
「うーん……」
 凛々しい眉毛を少し顰め、考える表情を見せる望月であったが別に断る理由はないし、正直小林の家に泊まって深夜まで色々話したり騒いだりするのは好きであった。そんな彼の答えは一つしかない。
「いいですよ。一応、家に電話しておきますね」
 言いながら鞄から携帯電話を取り出し、親指を少し動かした後で電話を耳元に移動させ、数秒後にまた口を開く。
「あ、もしもし。司? 俺だけど。今日、小林さんの家に泊まる事になったから……」
 望月の電話の声をボンヤリと聞きながらも、その後ろ姿を見つめてほくそえむ自分が居る。計画通りに事が運び過ぎて怖い。だがこれも彼が自分の事を慕い、信用しているからであろう。その信用を破壊するかもしれない行動に出ようとしている自分。しかし、信用を失う恐怖よりも歪んだ欲望に変貌した独占欲の方が強かった。とにかく、望月の身体に刻み込んでしまえばいい。電話を切る望月の背中を見ながら小林は微笑を浮かべ、足を組んだ。