犬の帰る場所
四万の兵を前にして殆どの将が滅びを覚悟したその大戦は、滅ぼされる側と誰もが思っていた織田軍の勝利に終わり、今や雨も上がった陣内で勝利を収めた魔王は目の前で畏まる青年に声をかけた。
「徳川の猛将・本多忠勝を退け、家康を屈服させ…そして、今川義元の首を取りし功、見事よ」
「は、はいっ! 俺なンかに勿体無いお言葉、有難う御座います! 信長様!」
主君には珍しい褒め言葉に全身が硬直し、深々と下げた頭の髷を結ぶ金紐が小さく揺れる。近くでどっかりと鎮座する叔父貴と慕う髭面の将が何時もの仏頂面で、自分と同じく跪いている友が普段は猿のように愛嬌のある顔を緊張で強張らせて、自分に視線を注ぐ中、信長と呼ばれた魔王は薄く笑い、ずっと待ち焦がれていた言葉を口にした。
「良かろう、利家。帰参を許そう、ぞ」
「え……」
期待はしていたのだが、いざ言われてみると実感が湧かず呆けた顔を上げる利家に満面の笑みを浮かべた友が肩をポンポンと叩いた。
「良かったのう! 利家! コレでまた一緒にやれるぞぉ!」
「え? 秀吉、俺…お、叔父貴…」
眼を瞬かせながら、友である秀吉の笑顔を一瞥し、目の前の信長の微笑を確認し、脇にいる叔父貴――柴田勝家に視線をやると、彼もまた口を固く閉ざしながらも目を閉じて一つ大きく頷いた。
「あ、あはっ、俺、やったンだ……そっか……や、やった……やったぜぇ!!」
漸く、信長の言葉を受け入れて無邪気に喜び、秀吉に抱き付いて飛び跳ねる様を見た勝家は鼻で小さく笑いつつ呟いた。ふん、犬とサルがじゃれておるわ。
「利家」
信長の声に犬と猿は慌ててはしゃぐのを止め、改めて膝と両手を地に付ける。信長の足先が下を向く利家の視界に入って来た。
「うぬに褒美を取らそう。暫くしたら信長の所に来るが良い」
「えっ、あ、は、はいっ!」
帰参の許可だけでも充分な褒美であるのにこれ以上何かを与えてくれると言うのか。
思わず頬を紅潮させる利家の髪の先を細長い指で軽く撫でると、信長は自分が宿営する古屋敷へと去っていった。
「…………」
顔を上げて目を輝かせる利家の横顔を見ながら秀吉は密かに眉を顰める。元々勘の良い彼は信長の言う“褒美”に何とも言えぬ不安を微かに感じていた。
「なぁなぁ秀吉ぃ! 褒美って何だろうな? あ、勿論お前にも見せてやっからな!」
「え? あ、あぁ、そうじゃな。うん、楽しみにしとるわ」
それでも主人に褒められた犬の余りにも嬉しそうな様に自分の心の内を口に出す事は出来ず、得意の笑顔を作ってその場を流す秀吉の背後に勝家がゆっくりと歩み寄った。
「余り浮かれるでない利家。わぬしの悪いくせぞ。羽目を外して大殿の怒りを買わせぬ為にもわしもわぬしに付いてい」
「あ、あぁ! 柴田殿! そう言えば長秀殿が用があると言うておったぞ! ほ、ほら、利家!お前はそろそろ信長様の所へ行け! な!」
「?」
さながら子を心配する父の如き口調の勝家の背中をグイグイ押しながら秀吉は顎で信長が向かった陣屋の方を指す。内心で己の勘が外れる事を祈りながら。
そんな心中をまるで分かっていないであろう利家は不思議そうに首を傾げていたが、すぐに腰に両手を当ててニッと歯を見せて笑った。
「なーんか変だな秀吉。ま、ちょっと行って来らぁ」
人懐こい笑顔を見せつつ回れ右をし、意気揚々と歩いて行く利家の背中を秀吉と勝家は各々別の要素の不安を感じつつ見送るのであった。
陣屋の奥にある信長の私室に当たる場所で利家は正座を維持したままキョロキョロと落ち着き無く顔を動かしていた。
部屋に入るや否や、暫し待つが良いと言い残して信長が去ってから数分。
とりあえず、重々しい甲冑は外して小袖に袴と軽装化し、行儀が悪いと思いつつも“褒美”とは何かと視線を部屋中に泳がせるが、目に入るのは最低限の調度品であり、とても褒美として与えられる物とは思えない。それ以外に目に止まったのは主の手を離れてもなお、禍々しい霊気が滲み出ている妖剣だが、万が一それを与えられたとしても絶対自分には扱えないし、手にした途端に魂を乗っ取られそうな恐怖すら感じさせる。
そして、そんな中でチラチラと視界に入るのは
「…………」
部屋の真ん中で堂々とその存在を見せ付けている純白の褥は利家の脳裏にある記憶を蘇らせてしまい、無意識の内に顔が赤くなって俯いてしまう。まさか、な。今更ながら嫌な予感を感じ始めたが、頭をブンブンと幾度も振って頭の中を空っぽにし、
「き、きっと、褒美ってのは城にあって今回はその褒美を与えるって誓約書を書いてくれンだよな、うん。それで、この褥ってのは信長様がただ単にサッサと寝たいだけで…」
「待ったか、利家」
無理矢理考えた別案を口に出す事で不安を解消しようとする利家だったが、背後から聞こえた声に肩が大きく跳ねる。恐る恐る振り返ると自分と同じく涼しげな小袖姿の信長が自分を見下ろしていた。
「何をブツブツと呟いておる」
「い、いえ、別に大した事じゃ無いンです」
「フッ、そうか」
本人に余り聞かれたくない独り言の内容を知られたのは定かではないが、信長は特に気にした様子も無く部屋に入り込み、正座の状態で何処か縮こまっている利家の横を素通りする。そしてドッカリと例の寝床の上に胡坐をかくのを見た利家は胸の鼓動が大きくなって来ているのを感じた。
「あ、あの、失礼ですが、何かまだ御勤めが?」
それでも努めて冷静に待たせた理由を問う利家に信長は表情を変えずにサラリと理由を口にした。
「人払いをしただけであるが?」
「…は、はぁ…そうスか…」
やはり、信長様は俺に褒美とは別の用件があるのではないか。い、いや、違う。きっと、褒美と言うのはその辺の兵に知られるのは勿体無いぐらい凄ぇモノで…。
嫌な予感が確信に変わるのを必死に否定しようとする利家の頬を一筋の汗が伝い落ちる様を見た信長は唇の端をクッと吊り上げ、胡坐をかく足の上に片肘を置く形で頬杖を突きつつ言った。
「利家、褒美を取らす前にうぬに聞きたい事がある」
「へ? な、何でしょう」
「織田を追い出されて野良犬になっていた数年間、うぬはどのようにして生を維持していた?」
「…っ」
信長の問いに何故か眼を見開き、小さく開いた口から大きく息を呑む。その余りにも分かり易い反応を内心で楽しみつつ、信長は畳み掛けるように言葉を続けた。
「織田を…この信長を裏切らず他の大名どもに仕官しなかった事は褒め置こう。だが、それでは普通生きていけまい?」
「え、えっと、あの、叔父貴、いえ、柴田殿や秀吉に援助して貰ったりして…」
自然と握った手が震え出し、それに合わせるように声も揺れる中、嫌な汗が背中を伝うのを利家は感じた。
「確かにその二人なら見返りも何も求めずにうぬを救うであろうな」
だが。魔王が音も立てずに立ち上がり、正座したまま震える犬に歩み寄って彼の眼前に跪く。そして、視線を床に落としたままの利家の顎を掴んだかと思うと無理矢理自分の方へと顔を持ち上げて、酷な尋問を続けた。
「あの二人だけでうぬやうぬの家の面倒を数年も見るのは無理であろう? 他の将や豪商にも生の為の援助を求めたのであろう?」
「そっ、それは」
その強い視線から目を逸らす事も出来ずにただ弱々しい声を震わせる犬に信長は冷たい笑みを浮かべて言い放った。
「うぬは生の見返りに性を差し出した尻軽犬、ぞ」
「!!」
「この信長が知らぬとでも思うたか」
自分と相手だけしか知らないと思っていた秘密がばれていた事実に瞠目したまま瞬きする事も忘れてしまった利家に嘲笑をぶつけ、その肩を掴んで乱暴に褥へと引き倒しながら追い込む言葉を続けた。
「うぬを相手にした豪商が予の元に来た時にうっかり漏らしておったわ。織田を追い出された野良犬が援助を求めてやって来て、見返りの筈のまぐわいの中で犬千代の名の如く、犬のように鳴いて本気で悦がっていた、と」
「信長様、ご、ごめんなさいっ! だから、それ以上は…」
「それ以上は言うな、と? 事実を信長の口から伝えられるは屈辱であるか」
「…っく…」
既に言葉は出ず、顔を赤くして嗚咽しながら幾度も頷く利家の揺れる髷を見ながら信長は声を上げて笑った。
「フハハハハ! よもや悦がった事をこうもアッサリ認めるとは、とんだ駄犬よ」
「のぶな、が、さまっ…!」
褥に深い皺を寄らせるほど強く握る事で血管が浮き出ている拳の上に涙の粒がパタパタと落ちる。もう褒美の事などすっかり忘れていた様子でただただ涙する利家の髷を魔王は乱暴に掴み上げて視線を無理矢理絡ませた。
「さて、褒美を取らせねば、な」
「お、俺、もう、褒美とかっ、い、要りません! 後生ですから、俺がやった事を、お許しっ、くださ…」
子供のように泣きじゃくりながら懇願する姿に信長は切れ長の瞳を細め、冷酷な笑みを強めると、その口から相手をより一層地へ突き落とす台詞を吐き出した。
「何を拒む。うぬのような常に盛りの付いた尻軽犬には交尾が一番の褒美であろう? 遠慮なぞ無用、ぞ」
「――――!! そ、そんな! あっ、や、嫌だ、嫌ですっ! やめっ、やめ、て…っ!!!」
手が伸びたかと思うと服の前が大きく開かれて胸部が派手に晒された利家は涙声を拒絶の叫びに変えながら身体を捩じらせて抗った。このような事になるのは部屋に入った瞬間に真ん中に堂々と鎮座する褥を見た時から、薄々“嫌な予感”として感じてはいたのだが、やはりそれが現実となると先程の信長の苛烈な責めも手伝って陵辱に対する恐怖心が一気に湧き上がり、相手が己の主君である事を差し置いて必死の抵抗を試みる。
「抗うか、犬」
ほんの少し前まで弱々しく泣いていた犬のクセにいざ抵抗を始めると元々持っている馬鹿力を発揮せんとする利家に我ながら珍しく不快感を露わにしてしまい、小さく舌打ちさえしてしまう。それでも信長はもがく相手の動きを冷静に見切ってその肩を強く抱き寄せ、すっかり赤くなった耳に彼の抵抗力を著しく削ぎ落とす効果があろう人名を囁いた。
「余り騒ぐと勝家が何事かと心配して様子を見に来るぞ。それとも、うぬは勝家に信長とのまぐわいを見せ付けてやりたいのか?」
「っ…! おじ…そんな…ンな事…」
効果絶大。心中で笑う信長をよそに利家は固まり、闇雲に振り回していた腕がダラリと落ちる。同時に腰が抜けたようにくずおれていく利家を面白そうに眺めながら魔王は口を開いた。
「利家。信長が褒美、有難く受け取るが良い、ぞ」