序章

 父と母の口論を何度も見て。気が付けば父親は自分達の目の前からいなくなって。そして、自分達は急に狭い部屋に暮らすようになって――。
 暖かかった家から笑顔が急速に失われたのは、この頃からだと思う。現に自分も顔が綻ぶ事が無くなり、今もこうして子供らしくない無表情で帰路を進んでいる。
「今日は何処で遊ぶ?」
「僕の家でゲームしようよ」
  ガチャガチャとランドセルを鳴らしながら横を駆け抜ける同級生達。最初はそんな光景を見て羨ましいとも思ったりしたが、今ではそう言う事も余り考えなくなった。考える余裕すら無くなったと言うべきか。
 十分近く歩いた先にある小さくて古いアパートの前で数人の女性が小声で話し、心配そうに二階のある部屋に視線を送る。それも見慣れた光景ではあるが、心の方は未だ慣れる事が出来ずにズシリと重くなるのを感じた。
「あら、智哉君」
  女性の内の一人が自分を見つけて駆け寄り、自分は少し視線を落とす。これも何時もの事。そして、この後に続く言葉も……
「…光矢ちゃん、また泣いてるみたいよ」
「……」
  何時もの事。本当は聞きたくも見たくも無い事なのだが、現実なのだから仕方が無い。自分は何時ものように小さく頷き、何時ものように注目を浴びている部屋へと駆けて行った。

 智哉が扉を開けると真っ先に聞こえて来たのは、弟である光矢が泣き叫ぶ声。ランドセルを放り投げ、靴を半ば蹴るように脱いで部屋に飛びこむと、状況を把握するには余りにも幼い妹を愛しそうに抱いた母親が部屋の隅で壁を見詰めており、同時に泣き声が一層大きく聞こえた。
「光矢!」
  泣き声の方を向くと、突っ支いによって内部からの脱出が不可能になった押入れから甲高い泣き声と必死に戸を叩く音が聞こえ、智哉が慌てて突っ支いの役割を担っている箒を後ろ手に放って戸を開けると狭い闇の中から小さな身体が飛び出して、智哉の胸に飛び込んだ。
「ひっく……えうっ、に、にいちゃっ……うわああぁんっ!!」
  狭い闇からの解放と兄の体温に安心したのだろう改めて号泣しだした弟の細い身体を抱きながら、智哉は何の反応も示さぬ母親を睨んだ。
「母さんっ! どうして、こんな事するんだよ! …光矢、母さんを怒らせるような事したのか?」
「ち、ちてないっ、こーや、おとなちくっ、本よんでただけだよっ」
「黙れ、悪魔の使いめ!!」
  強く打たれたのか大きく腫れた頬を涙で濡らしながら、舌足らずな口調で途切れ途切れに話す幼児の声を母の厳しい声が鞭で打ち付けるかのように遮った。
「悪魔の使いって……光矢も母さんの子だろう!? 何で光矢ばかり、こんな目に会わせるんだ!!」
「何が私の子よ!! 天の使いのような顔をしているから、私を神の世界まで導いてくれるかと思ったら、私の為に何もしやしない。その子は裏切り者よ!!」
「ひっ……ふぎゃあぁ、ぎゃあぁああっ!!」
  昔は綺麗に編んでいた髪を今はグチャグチャに振り乱し、聖母の如く優しく細められていた目を血走らせて喚き立てる母親の声に腕の中の妹も漸く異常な状況を理解して泣き出し、その声が余計に母親の思考回路を狂わせた。
「ほら、お前がいるから有花が泣き出したじゃないの! …よしよし、泣かなくて良いのよ有花。お母さんが貴女をあの悪魔の呪いから守ってやりますからね」
「……光矢、行こう。お母さん、ちょっとご機嫌が良くないんだ」
  妹を抱き上げ、優しく揺すり、キスまでする母親を見詰める弟の悲しげな表情に胸を締め付けられるのを感じた智哉は小さな手を引き、部屋を後にした。

 子供達で賑わう公園の片隅にあるブランコに座って泣きじゃくる光矢の横で同じくブランコに座り、ゆっくりと漕いでいた智哉だったが、弟の横顔を暫し凝視した後、軽い身のこなしで其処から飛び降り、目の前に立ってポケットを探った。
「ほら」
  ポケットから出て来たのは十円玉一枚で買える大粒の飴玉。理不尽な理由で母親に愛されず、虐げられている弟を近所の公園まで連れて行き、泣き続ける彼に僅かな小遣いで買った菓子を与えるのも“何時もの事”だった。
「光矢、ソーダ味好きだっただろ?」
  小さく首を横に傾けて笑いかけると弟の泣き顔が固まり、はにかみ、そして嬉しそうな笑顔に変わる。ありがとう。少し鼻が詰まった声で礼を言い、今までの泣き顔は何処へやら、母が天の使いと誤解するのもおかしくないと思ってしまうほどの無垢な笑顔を見せた後、自分の手の平の上の飴玉を手にとっておぼつかない手付きで袋を開けようとするので、自分が袋の中身を取り出して、薄い水色の飴玉を小さな口に含ませるとそれを中で転がし、腫れている頬に飴玉サイズの膨らみを作りながらフフッと声を出して無邪気に笑うのだ。
 そう、確かに弟である光矢は幼児ながらに整った顔をしていた。この子は将来、綺麗になるよ。そう言う台詞も何度も言われていた。…だから、かな。すっかり機嫌が治ってブランコを漕いではしゃぐ弟の背中を押しながら智哉は口の中で呟いた。…綺麗な顔をしているから、光矢は母さんに愛されなくなったのかな。
 父親がいなくなってから、優しかった母は急速に何かが壊れていって、祈ってばかりいるかと思えば、いきなり光矢に手を上げ始めた。天使の顔をしているくせに神の世界へと導かぬ裏切り者の悪魔の子。何時も光矢にぶつけるあの言葉から察するに光矢は整い過ぎた容姿を持って生まれて来たばかりに壊れてしまった母親に天使と混同され、負の感情をぶつけられ、虐げられるようになってしまったのかもしれない。もし、そうだとしたら…
「…可哀想にな」
「?? なにが?」
  無意識の内に口から出た台詞が自分に対する言葉である事も知らずに、きょとんとした顔で振り向く弟に智哉はゆっくりと首を振った。
「何でもないよ。…次は何で遊ぶ?」
「んとね、んとねっ」
「おかあさーんっ!」
  とりあえず、ブランコを止めて考える光矢の目の前を同じ年ぐらいの幼児が駆け、公園の出入り口に立つ母親らしき女性に抱き付く。若い母親は自分の服を掴む我が子の髪を愛しげに撫でて微笑んだ。
「さ、もうすぐごはんだから帰ろうね」
「うんっ! ねー、おかあさん。今日のごはん、なぁに?」
「今日はね、ヒロ君の好きなカレーだよ」
「ほんと? わぁいっ!」
  母親と手を繋いで公園を後にし、夕日の方へと歩いていった子供の背中を見詰めていた2人の兄弟だったが、ふと弟の方が視線を地面に向け、それに気付いた兄が弟の髪に手を乗せた。
「光矢…」
「ねぇ、にーちゃん。なんで、おかーさん、こーやのことぶったり、とじこめたりしゅるんだろ?」
「………」
  言っている内に悲しみが込み上げ、涙となって地面にポツポツと零れ落ちる。兄の手の下の頭が小さく震え出した。
「おかーさんは…こーやのことがきらいなのかなぁ?」
「………」
  舌足らずな涙声の中に含まれた悲痛な心の叫びに智哉は唇を噛み締めたが、やがて頼りなく小さくて細い弟の身体をそっと抱き締めた。
「お母さんは光矢の事を嫌ってるわけじゃないんだ。今は……何て言ったら良いのかな。心の中が風邪を引いてて、どうしたら良いのか分からなくなってるんだ。でも、この風邪が治ったら、また光矢を可愛がってくれるようになるよ」
「ほんと?」
「……うん、本当。…そろそろ帰ろうか。いい加減、母さんも落ち着いてるだろうし」
「うんっ」
  自分の言った事を真正面から信じているのだろう、嬉しそうな顔で繋いで来た手の温もりを感じた智哉は小さく溜息を吐いて弟の顔を眺め、未だ腫れが引かぬ頬を見て心を痛めた。

 ――また光矢を可愛がってくれるようになるよ。それは、余りにも儚い希望。だが、あの時は…泣いてる光矢を慰めるには、ああ言うしかなかったんだ。ある意味、無責任な台詞を言ってしまったように感じる原因は胸に渦巻く嫌な予感。日に日に精神の崩壊が進行し、それに比例して弟への扱いも非情になっていく母親。今、こうして家への帰路を進む間も光矢はきっと……。考え事をしている間に到着した古いアパートから弟の泣き声が聞こえて来ないのが逆に恐かった。
「ただいま」
  胸の内の恐怖を抑えて扉を開けるが、何時もなら真っ先に迎えに飛び出して来る光矢の姿が無い。珍しく昼寝でも許されているのだろうか。靴をゆっくりと脱いで部屋の中に入るが其処には弟の姿は無く、何時ものように部屋の隅で妹を大事そうに抱きかかえている母親がいた。
「…母さん、光矢は?」
  とりあえず突っ支いの無い押入れを開けて中を確認しながら問うと、その声で漸く自分の存在に気付いた様子で振り向いた母親が忌々しそうに顔を歪めて言った。
「その悪魔の子の名前は口に出すなって言ったでしょう!? あの子の事なんか知らないわよ! えぇ、二度と口に出さないで頂戴!!」
「母さん!!」
「おぉ、よしよし。有花が一番可愛いわねぇ。何処かの悪魔と大違いだわ」
「……………」
  また何時ものように自分の世界に閉じ篭った母親に小さく溜息を吐いた智哉は、何も言わずに部屋を出た。

「光矢! 何処だ、出て来いよ!! かくれんぼ終わりだぞ! 光矢ぁー!」
  真っ赤な夕日が照りつけ、カラスが人を嘲笑うかのように鳴く中で智哉は幾度も弟の名を呼んだ。何時も一緒に行く公園にいると思い込んで向かった其処に弟がいない事に愕然とし、近所の子供の家を訪ねて回ったが、光矢は何処にもいなかったし居場所の手掛りすら掴めなかった。
 交通事故にでも遭ったのだろうか。でも、そうだとしたら何らかの情報がとっくの昔に入っている筈だ。公園から少し歩いた先にある川に一人で遊びに行き、誤って転落して流されてしまったのだろうか。幼い光矢はまだ泳げない。流れの強い川の中で力無くもがき、白い泡を派手に吐きながら流されて行ったとしたら?
 …それとも、一人で遊んでいる時に誰かに連れて行かれたのだろうか? ボク、一人? お菓子買ってあげるから一緒に遊ぼう? 日頃から寂しがっている幼児を手懐けるには効果絶大なその言葉。悪魔の誘いである事も知らずに笑顔を見せてチョコチョコと悪魔の手元へと歩いて行く光矢の背中とその後の事を想像し、慌てて首を振って頭の中の想像を無理矢理消す。
「光矢ちゃーん!」
「光矢君、お兄ちゃんが探してるわよー!」
  光矢の失踪を聞いた近所の母親達の声と歩く度に高く響くサンダルの音を遠く聞きながら、沈み行く夕日に目をやる。智哉の視界の中に映る燈色の光が薄く滲んだ。

 もう、とっくの昔に涙も声も枯れ果てた。押入れよりも面積は広いかも知れないが、埃にまみれたガラクタが密集している暗い密室の隅で光矢は両膝を抱えて座っていた。誰も来てくれなかったらどうしよう。今日はここで寝ないといけないのかな。今日だけじゃなくて、ずっとずっとここから出して貰えなかったらどうしよう。扉を固く閉ざされている為に正しい時間は分からないが、腹時計から察するに日が沈むのも時間の問題のようだ。
「にーちゃん…」
  口を小さく開けてポツリと呟くと枯れた筈の涙がまた溢れ出し、膝小僧の上にポタポタと水滴を落とす。濡れた膝に額を乗せて啜り泣き始めた光矢の頭に何かが触れた。
「………?」
  頭に手を乗せられたような感触にゆっくりと顔を上げると、何時の間にか人間がいた。それは大人のような子供のような、自分に似ているような似ていないような、とにかく何処かぼやけた雰囲気からして奇妙な存在である事は明らかだった。泣かないで。その妙な人間は優しく頬を撫でた(ような気が光矢にはした)。
「……だれ?」
  突然の事に泣くのを忘れた光矢が小さくシャックリをしながら問うた時、その存在はフッと小さく笑って口を開く。それが何かの名前を紡ごうとした時、突然紅い光が光矢の目に飛び込み、ぼやけたそれは瞬きと同時に消えた。
「光矢!!」
  光を背負って自分の名を呼ぶ兄の声が耳に入った瞬間、光矢は無意識の内に立ち上がり、目の前にある服を掴んで顔をグイグイと押し付けた。
「光矢…。良かった……」
  ずっと弟を探している間に煤けてしまった顔を安堵で綻ばせて力の限りに抱き締める兄の姿を見付けた大人が目を一瞬見開き、大きく息を吐き、手で即席のメガホンを作って大声を出した。
「おーい、見付かったぞーっ!!」
  その声にバラバラと大人達が集まり、それぞれが安堵の溜息を吐いた後に続くのは、母親に愛されぬ子供に対する憐れみの声。
「あの裏の物置、ずっと前から使わなくなった物でしょ? あんな所に閉じ込めるなんて…」
「あのままだったら、智哉君も光矢君も可哀想じゃない?」
「あそこの奥さん、少しおかしくなってるんでしょう?」
「施設に相談した方が……」
 囁き声が重なり合って小さくざわめき合う大人達だったが、智哉がゆっくりと自分達の方へ身体を向けると一気に静かになった。
「……お世話になりました」
  静寂の中で礼を口にしてペコリと頭を下げると、大人達の内の一人が慌てて自分達に駆け寄って来た。
「そんな、良いのよ智哉君。困った時はお互い様でしょ? 良かったわね、光矢ちゃんが見つかって」
「…はい。すみませんが、これで失礼します。光矢を休ませたいんで。行こう、光矢」
  改めて一礼をして、その場から立ち去った幼い兄弟の小さな背中とそれを不憫そうに見詰める大人達を既に紺色がかっている空に瞬く一番星が見下ろしていた。