想い

 普段は色々と掛け持ちしているアルバイトで一日中忙しく動き回っているが、たまに何の仕事も入っていない暇な一日と言うのもある。そう言う日は大抵、携帯電話の膨大なメモリから暇そうな人物を探し出して遊びに誘うのだが、ごく稀に家から一歩も出ずにボンヤリ過ごしたい気分と言うのが生じる。
「ふわぁ……」
 ベッドに寝転んで漫画雑誌を広げていた青年が大きく欠伸をして雑誌をパタンと閉じ、暇そうにベッドの上をゴロゴロと転がって長い睫毛を瞬かせる。暇だ。でも、誰かと遊びたい…と言う気持ちにはならない。視線を軽く動かして最近買ったばかりの携帯ゲーム機に目をやるが、それをやる気も余り起こらない。こう言う時は……
「よっと」
 軽く声を出して起き上がり小法師のように身を起こし、伸びをしながら部屋を出る。ベッドの上でうたた寝をしていた猫が自分が取り残された事に気付き、にゃあと小さく鳴いた。

 整然とした部屋の中にそっと入ってキョロキョロと面白そうに見渡すと、これまた整理された机の上に広がる何かの製図が真っ先に目に入った。青年には何が何だか分からない図だったが、書き直した形跡が殆ど無い事だけは分かった。机の脇のゴミ箱を軽く見ても、失敗して丸めて捨てたと言う跡は無い。自分のように趣味で描いてみた絵に幾度も消しゴムを擦り付けたり、挙句の果てには不満な出来のそれを溜め息混じりにグシャグシャと丸めてゴミ箱に放り投げたりする事はまずない。それは、この製図の作者には普通の事だった。 一ページ読んだだけで頭が痛くなりそうな専門書を義理程度に広げながら、眼鏡をかけて(ごくたまに煙草を咥えたりもして)軽快にペンを走らせる設計者――兄の横顔を自分は小さく開けられた扉の隙間から何時も見ていた。
「…稀代の天才建築士・羽鳥智哉、か」
  数ヶ月前に彼が興味無さげにダイニングテーブルの上に放り投げた専門雑誌を広げた時に飛び込んだ巨大なゴシック文字に自分は“凄いじゃないか”と自分の事のように喜んだが、元来目立つ事が好きではない彼は迷惑そうに首を振った(だが、この雑誌を見た辺りから彼の仕事は急激に増えたと聞いた)のを思い出してクスクス笑い、机を離れてベッドに腰掛けつつ改めて部屋の中を見渡す。青年は、こうして兄の部屋を眺めるのが好きだった。
 片付けるのを後回しにする事を繰り返した為に何時の間にか様々な物が雑多に散らばった自分の部屋に対して、この部屋は常に整理されており、所有者の性格を物語っている。近くに置かれているブックボードを見れば、自分にとっては良い睡眠薬になりそうな様々なジャンルの専門書やら小説本が綺麗に並べられている中で、隅に置かれた小さな観葉植物がワンポイントになっていた。
――兄さんの部屋って綺麗なんだけど、何処か堅苦しいのよね。無機質って言うのかな。だから、はい、これ♪
  今は離れて暮らしているが、よく足を運んで来る高校生の妹がある日持って来た小さな鉢植えを兄は怪訝そうに受け取っていたが、その次の日に仕事帰りに買って来たのだろう霧吹きで丁寧に緑に潤いを与える兄の背中をコッソリ見て妹と顔を見合わせて笑ったものだ。(ちなみにその時、彼女に自分のは無いのかと聞いたら“普通の植物は枯らしそうだから”と言う理由で小さなサボテンを与えられた。現に彼女の予想通り、そのサボテンは思い出した時にしか水分を与えられていない。…そうだ、思い出した。後で水をやらねば)
 兄は一見そっけなさみたいな物を感じるが、実は自分や妹を大切にしていたし、自分も彼の想いを充分に理解していた。自分はずっとずっと兄を見ていたから。
 無意識の内に虚空に浮かべた兄の幻像を見上げるかのように顔を上げると、書棚の上から僅かにはみ出した箱が目に入る。その箱の中身を思い出した青年は改めて笑う。そうそう、俺ってばあの箱の中身を……

「兄ちゃん、あの箱の中身って何なんだ? やっぱ、他人には見せられない物?」
  初めて書棚の上に置かれた箱を見つけた日。自分はニヤニヤ笑いながら兄を肘で突いた。何だ、やっぱり兄ちゃんだって男だからエロ雑誌やビデオの類を持っててあんな所に隠してるんだな。勝手にそう思い込んでクスクス笑う弟を一瞥した彼は、特に動揺した様子も見せずに軽く爪先立ちをして箱を手に取り、それを床に置いて蓋を開けた。中から出たのは、巨乳人妻シリーズのポルノビデオに素人投稿写真集…な訳は無く、
「何だよ、この紙の山…」
「検定の証書とか賞状。有り余るほど貰って、飾るにしちゃ多過ぎるから、こうして箱の中に入れてただけだ」
「………………」
  箱一杯の紙を軽くかき回すと、まぁ出るわ出るわの証書や賞状の山。何時の間にこんなに試験を受けたのやら、英語にハングル、中国語。フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、ロシアにタイと、アンタは世界一周旅行にでも行く気かと突っ込みたくなるような各語学検定一級認定証書の下には漢検、数検、歴史能力、パソコン、簿記と続いて 、トドメに手話の検定証書。その下に続くのは賞状で、習字だの読書感想文だの絵画コンクールだの弁論大会だのピアノコンクールだの何かのスポーツ大会の個人戦優勝(彼は部活動はしていなかったが、急病で出れなくなった選手の代理として駆り出され、そのまま優勝してしまったと聞いた)だの、とにかく賞状の目白押しで此処まで多いと有り難味も何も無い。
「はぁ……兄ちゃん、すっげぇな…」
  とりあえず、浮かんだままの言葉を口にした自分が今まで手に入れた賞状はと言うと、奇跡的に入賞した習字の賞状が一枚と比較的得意な絵画コンクールの賞状が数枚。後は縄跳び大会の「一番長く飛べたで賞」とかマラソン大会で 三位入賞した時に貰った厚紙製の手作り賞状程度だ。そして、そんな賞状如きでも喜び勇んで持ち帰って、兄や妹に施設内で一緒に暮らす同年代の子供、挙句には施設の職員やボランティアの学生にまで見せびらかしたのだから、今思い出すと中々情けない。
 そう、兄と自分はこうも違う。同じ親から生まれたとは思えない位に。
「はぁーあ」
  何故か込み上げて来た溜め息を大きく吐き出して、座っていたベッドにゴロリと無遠慮に寝転がると同時に青年の胸が一瞬高鳴った。兄ちゃんの匂いがする。日の光を吸収したそれに混じっている決して悪くは無い匂いに頬がうっすらと高揚し、思わず顔を埋めてしまう。ギュッと布団に抱き付きながら、青年は静かに目を閉じて心地良い感触を堪能した。

「…ぅん……あれ…?」
 ふと目を開けると何時の間にか部屋は薄暗く、窓の外で広がっていた青い空は紅が少し混じった紺色に変わりつつある。…寝てた? 眼を擦りながら身体を起こすと、ずるりと掛け布団が身体からずり落ちた。俺、布団の上で寝てたよな?  膝の上に乗った布団を凝視して寝惚けた頭をフル回転させつつ部屋の出入り口の扉に目をやると、閉ざされた扉の下部から蛍光灯の光が差し込んでいた。あ、そうか。漸く何かを理解したらしい青年は寝惚け眼をキラリと輝かせると、長い足を振り子のように振ってベッドを降り、兄の部屋を後にした。

 鼻腔をくすぐる香りとコトコトとリズム良く包丁が動く音に引き寄せられるように発生源を覗き込むと、慣れた手付きでまな板の上の野菜をバラバラと鍋に入れていく彼がいた。
「お帰り」
  小さく欠伸をしながら台所に入ると、その声に彼――兄の智哉は顔を上げて小さく微笑んだ。
「あぁ、只今」
  何時もと変わらぬ彼の顔。それでも自分は幸せみたいなものを感じて、気安く近付き鍋の中を覗き込む。
「今日の夕飯何? 何だコレ、オレンジマーマレード?」
「そう、鶏のマーマレード煮。本屋で立ち読みしてる時に見つけて、結構美味そうだなと思ったから」
「…立ち読みだけで覚えて来た訳?」
「そうだが? 読めば大体イメージみたいなものが湧いて頭に入るからな」
「……相変わらず、素晴らしい記憶力だことで」
  天に与えられたらしい才能に恵まれている兄の淡々とした態度にわざとらしい拍手を数回するが、兄は特に気に留める様子も無く、着々と食事の準備を進めている。何だか無視をされているような気がした青年は、彼の気を引くような質問を口にした。
「兄ちゃん、俺寝てた?」
「何言ってんだよ。バリバリ寝てたぞ、俺のベッドで布団も掛けずに」
  風邪でも引いたらどうするんだ。付け加えながら鍋の中の野菜を掻き回す兄の横顔を見詰めつつ、彼はにっこり笑った。
「じゃあ、兄ちゃんが布団掛けてくれたんだ? サンキュな」
「俺以外に誰がお前に布団掛けるって言うんだ。この部屋住んでるのは俺とお前だけなのに」
「まぁ、そうだけど。…兄ちゃん、俺が兄ちゃんの部屋に入ってベッドで寝てても何とも思わない訳?」
「別に? お前が人のプライバシーを侵害する奴じゃないのは分かってるし、見られて困る物ってのも特に無いしな。それに、お前が俺の部屋に入って寝るなんて何時もの事じゃないか。…よし、出来た。光矢、暇なら皿出してくれないか?」
「はいはい」
  食器棚から皿を取り出しつつ、光矢と呼ばれた青年は面白そうに話を続けた。
「…マジで見られて困る物って無い訳? エロ本とかも?」
「そんなのお前だって持ってるだろうが。この前、お前の部屋に洗濯物置きに行った時にベッドの脇にDVD落ちてたぞ。何だったかな…確か、好きモノ新任教師・秘密の個人授ぎょ」
「わーっ!! うわーーっ!!」
  兄の思わぬカウンター攻撃に顔が瞬く間に茹で上がり、手にしていた皿を乱暴に置いて可能な限りの速さで口を塞ぐと自分の手の下で暫くもごもごと兄の唇が動いていたが、やがて眼を微かに細めて笑った。

 とても初めて作ったとは思えぬ料理にやたらと賞賛を浴びせながらパクつく自分を見詰める兄の視線に、光矢は小さく首を傾げた。
「?? どうしたんだよ、人の顔ジーッと見て」
「いや…最近は発作も無いし、良い顔見せるから落ち着いてるんだなって思って」
「あぁ、最近処方されてる精神安定剤、よく効くんだ。…それに兄ちゃんが傍にいてくれてるから…かな?」
  とある感情を込めつつ一言付け加えてみたが、聞いている方はそれに気付いているのかいないのか、そりゃ良かったなと呆気ない返事をしてサラダを口に運んでいた。彼らしいと言えば彼らしいかも知れないが、そのそっけなさに不満を感じた光矢は頭の中の引き出しを全開にして、兄の気を引く話題を探し回った。あぁ、そうだ。これならどうだ。
「なぁ、兄ちゃん。俺がいて迷惑じゃね? ほら、生活費の事とかさ」
「は? 何だよ、急に。……お前も何かやたらバイト掛け持ちして、そこからちゃんと生活費の一部を出してるから気にするなって何度も言ってるだろ?」
  時折耳にする奇妙な質問に眉を顰めつつ顔を上げた兄に弟の方は内心でニヤリとほくそ笑んだ。やっぱり、この手の話には食い付いて来る。
「まぁ、そうだけど」
  普段なら、この話題はこの辺で終了。だが今回は、先日悪友と馬鹿話に花を咲かせていた時に冗談まじりで勧められたある事について口にしてみた。
「兄ちゃん、本当に無理してねぇ? …あのさ。噂で聞いたんだけど歓楽街の隅に男がそっち系の趣味の男に色々…まぁ、ぶっちゃけヤられるんだけど、とにかくそう言うサービスする店があるんだってさ。もし金困ってたら、俺がそっち行って働けばい」
  ダンッ。弟の言葉を強く食卓を叩く音とその衝撃で食器が軽く跳ねて派手に鳴る音が遮った。突然の事に言葉が詰まり、肩を大きく上下させて驚いた光矢が恐る恐る自然と瞑っていた眼を開けると、瞳に蔑むかのように冷たいながらも怒りの炎を燃やしている兄が自分を強く睨んでいた。
「…お前、それ本気で言ってるのか?」
「そ、そんなっ…冗談に決まってるだろ!? 何怒ってんだよ!」
  低い、威圧するような声は光矢の顔から冗談まじりの笑顔を奪い、恐怖で微かに歪ませる。予想以上の展開に表情を強張らせて首と両手の平を激しく振る弟に兄は大きく息を吐き、露骨に顔を背けながら何処か疲れた声で言った。
「冗談でもそんな事は言うな」
「ごめん…」
  ついさっきまでの明るい笑顔は完全に消え、親にこっぴどく叱られた子供の如くしょんぼりとしてしまった弟を智哉は横目で一瞥した後、改めて視線を逸らして頬杖を付き、深い溜め息を吐いた。

 兄ちゃん、あんなに怒るとは思わなかった。天を仰ぎ、心地良い温度のシャワーを顔から浴びながら、光矢は数時間前の兄の顔を思い出していた。
 今思えば、確かにアレは性質の悪い冗談ではあった。実の兄弟がその辺の店でアルバイトでもするかのようなノリで売春でもしようか等と軽く言えば、誰でも怒るに決まっている。だが、あの怒り方は尋常ではない気がしたし、普段の彼が冷静沈着な分それが際立って感じた。そして、そこまで激怒した事を密かに喜んでいる自分がいた。
 あの怒りは自分をもう性の餌食にはしたくないから、誰にも渡したくないから…と言う思いからかも知れない。勿論、それは自分の自惚れであろう事は心の何処かで理解していたが、そう思わずにはいられなかった。都合の良い解釈をして、激しくも甘い胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
――何時から、こんな事になったんだろう?
 物心付いた時から彼は傍にいた。何時も後ろをチョコチョコと付いて回っていた自分を疎む事は無く、常に遊び相手になってくれ、泣けば真っ先に駆け付け、癇癪を起こせば優しく宥めてくれた。両親に愛されなかった分、自分を愛してくれたのは兄だった。…これさえも自分の自惚れなのだろうか?  彼は自分を愛すると言うよりも兄としての義務を果たしていただけではないだろうか?
 それでも、彼は自分にとって子供の頃から大切な人。確かに恋も何も知らない子供の頃は必要以上の愛情は抱かなかった気がする。だが、気が付けば自分は惹かれていた。胸を焦がしていた。必要以上の愛を抱いてしまっていた。その対象にするには禁忌の存在である事は頭では理解していると言うのに、何気なく兄に触れられたりすると顔が瞬時に熱くなり、心臓は早鐘となって胸の中でせわしなく鳴るのだ。
 自分の想いを自らで悟ったあの日、自分はその想いに、想いを抱いてしまった自分に戸惑い、うろたえた。そして、この想いは一瞬の気の迷いであり、本当の恋を知らないからと無理矢理思い込んで自分を否定し、誤魔化すかのようにその時期に上手い具合に(…と言えば、失礼なのだが)告白して来た同年代の女性と交際をしてみたりもしたが、些細な事をきっかけに半年近くでその関係は閉幕した。
「はぁ…」
  自分で自分を力の限りに抱き締める。本当に彼と自分は兄弟だろうか。彼の天才的能力を目の当たりにする度に思う事。最初の頃は、自分は彼の実の弟ではないかも知れないと妙な疑念を抱き、一人で項垂れていた。だが今は逆。――何故、彼と自分は兄弟なのだろう。どちらかが女だったら…そして血の繋がりが無ければ、こんな事で苦しみ、実らぬであろう恋に悲しむ事も無いだろうに。気が付けば、シャワーのそれとは違う熱い雫が眼から溢れ、容赦なく打ち付ける湯の雨と混ざり合って排水溝に流されて行った。
「……ぅ…」
  涙で詰まった胸に、長い間秘め続けていた想いが追い討ちをかけて圧迫感と痛みを加える。…もう、こんな事で苦しむのは嫌だ。殆ど瞬きをせずに温かい雨を浴びていた光矢は拳で涙の残りを拭い捨てた後、キッと曇った鏡の向こうの自分と強く見詰め合った。