まだ微かに白い湯気を立てながら居間に入ると、ソファーにゆったりと座った兄の漆黒の後頭部が見え、少し顔を横にずらすと小さい字がビッシリと詰まった本の一ページが目に入った。
「あぁ。風呂空いたか。じゃあ、コレが一区切り付いたら入ろうかな」
  背後からの気配と微かな熱気と石鹸の香りに軽く後ろを振り向いて弟の存在を確認した後、再度顔を本に戻した兄を光矢は無言で見詰めていたが、やがて決心したかのように唇を舌で濡らし、ソファーにそっと手をかけてうっすらと濡れた薔薇の唇を開いた。
「…なぁ、兄ちゃん。聞いて良い?」
「うん? 何だ」
本から眼を離さずに返事をする智哉に密かにつれなさを感じつつ、光矢はゆっくりと息を吸って問うた。
「兄ちゃんと俺ってマジで兄弟?」
「……は?」
  漸く本から眼を離し、声と顔に微かな呆れを混ぜて振り向くが、質問者の真剣な表情に智哉は小さく息を吐いて視線を壁に向けた。
「どうしたんだよ、また俺と自分を比べて自信無くしたのか? 何度も言ってるが、お前が思っているほど俺は大した人間じゃない。お前は俺が持っていないものを沢山持っているんだから、もっと自信を持てよ。…そんなに疑うなら役所に行って戸籍でも見たらどうだ?  くっきりはっきり俺とお前が同じ親から生まれた兄弟だって証明されてるだろうから」
  言いながらチラリと視線をやると、弟は未だに真剣な顔を崩していなかった。寧ろ、何処か悲しみが加わったように見えた。普段なら“そっか”と一言笑顔で言って終わらせると言う、ある意味羨ましい単純明快ぶりを見せ付ける筈なのだが。
「…コウ?」
  時折使う愛称の一つを口にしながら振り向き、背もたれに胸を付けて相手の顔を凝視すると、弟の大きな黒目がキョトキョトと暫し落ち着き無く泳ぎ、やがて一大決心でもしたかのように自分の瞳を見詰めて来た。真剣そのものの焦げ茶色の水晶に自分の顔が浮かぶ。
「兄ちゃん…さ、好きな女の人とかいる?」
  弟の質問と微かに揺れている瞳に智哉の眉がピクリと一瞬動いたが、興味無さげに下唇を軽く突き出した。
「何だよ急に。好きな女? 今はいない…かな」
  良かった。予想していた答ではあったが、実際に耳にすると無意識の内に安心して焦げた胸を撫で下ろす。だが、口から出て来るのは心中とは裏腹の言葉。
「そっか。…なぁ、好い加減に彼女作れば?」
 彼が想い人を作ってしまえば、案外スッパリ諦められるのかも知れない。我ながら短絡的な考えではあった。だが
「二十四にもなって女の人と付き合った事無いなんて、ちょっとアレじゃね?」
  そうでもしないと自分は諦められない、身を引けない。想いを告げる事も考えたが、それはきっと彼を困らせる事になるだろう。困惑だけはさせたくなかった。彼は大切な、好きな人だから。
「兄ちゃん、頭良いし仕事もバリバリ出来るし背も高くてスタイル良いし顔も結構良いんだから 、俺や有花への優しさをほんの少しだけでも他の人にも見せれば、すぐに彼女出来ると思うんだけどなー」
 嫌だ。笑顔の仮面の裏側で本心が頭を抱えて蹲り、癇癪を起こした幼児の如く首を激しく振る。やっぱり嫌だ。兄ちゃんに彼女出来るなんて本当は嫌だ。兄ちゃんが他の女の肩を抱いて笑って…兄ちゃんが俺の特等席(いや、俺が勝手に決めたんだけど)である車の助手席にそいつを乗せて、兄ちゃんが普段見せたがらない肌を、全てを晒して他の女とベッドで交わりあって…。
 …吐き気がする。其処まで想像した光矢の全身を虫酸が走り、えもいわれぬむかつきに視界が霞み、自然と握っていた拳の中で密かに爪を立てる。それでも作り笑顔の口元から出るのは喉の辺りで本心が真逆になってしまったような言葉。
「だからさ、兄ちゃん外に出ても笑ってみろよ。俺や有花だけじゃなくて他の人にも笑いかけて優しくすれば、兄ちゃんの事を好きになってくれる彼女なんてあっという間に」
「泣きながら言う台詞じゃないよな」
「……えっ?」
  突然兄の言葉が自分の台詞を遮り、その言葉に小さく狼狽しつつ頬に手をやると指先に何時の間に流れていたのだろう視界の霞みの原因でもあった雫が指先に貼り付いた。
「……涙ながらに訴えるほど俺の事を心配してくれているのか、それとも」
  一度言葉を切り、動揺した様子で幾度も涙を拭っている弟を見て小さく溜め息を吐いた後、改めて瞳を合わせて静かに言う。
「他の女の物になる俺を想像して拒絶反応を起こしたか」
「…………」
  ぽたっ。一粒の涙が床に落ち、それに続くようにポロポロと涙の粒がすべらかな頬を幾度も伝って床に雫を散らしていく。笑みを浮かべていた唇は小さく震えて自然と下唇を軽く噛み、目を硬く閉じて首を幾度も横に振る。そんな弟を智哉は無言で見詰めていたが、やがて小さく唇を開いた。
「今のお前を放って置いて彼女を作る…と言うのは出来ないな。もし俺が女を作って現を抜かしたりしたら、その間は誰が不安定なお前を見守るんだ?」
  伸びた手が優しく弟の頭を引き寄せ、自分の広い額にこつんと軽く当てると、手と額を通じて弟の震えが伝わって来た。
「……一人になるのを何よりも嫌がるくせに」
「……………」
  頬が、身体が熱い。頭部に感じる兄の手の感触が、触れ合っている額が自分の胸の中心を幾度も小さく爆発させる。少しでも気を緩めれば唇を近付けてしまいそう。自然と小さく開いた唇から細い吐息が微かに震えながら漏れるのを感じた。苦しい。余りにも近い兄との距離と体温に胸が詰まりだし、呼吸すら出来ないような錯覚に陥る。
「……兄ちゃん…俺…」
  自然と口から出始めたのは苦しみから解放される為の言霊。その言霊を受けた兄の反応を想像すると胸が痛んだが、もうこれ以上苦しみにも熱い焦がれにも耐える事が出来なかった。
「…俺……兄ちゃんが…好き…」
「………………」
「彼女を作れなんて…嘘。本当は……作って欲しくない…」
「……だと思った」
「えっ…!? どうして…」
  思わぬ答に声を裏返すと兄は何時もの無表情を見せ、触れ合っていた額をそっと離して目を逸らした。
「俺はお前が生まれてからずっとお前の兄をして来たんだ。二十年とちょっともの間、お前をずっと見てきたから、お前が好む事も嫌がる事も大体分かっているつもりだ。そして……最近、俺に向ける視線から何となく感付いてはいた。俺の考え過ぎかも知れないとも思ったが…予想通りだったか」
「じゃ、じゃあ兄ちゃん……」
「話は最後まで聞け。お前の気持ちには気付いていたし、もしお前が打ち明けた時の場合の答も決めていた。………“駄目だ”って」
「………!!」
  やっぱり…。禁忌を理解している理性がガックリと肩を落とす。どうしてっ!? 理性とは裏腹に感情と言う名の本能が悲痛な声で叫ぶ。理性と感情がぶつかりあってグチャグチャになった頭の整理が出来ずに呆然とする弟を一瞥した兄は改めて視線を外して続けた。
「お前が男を好きになろうと否定はしない。だが、好きになる人間を間違っている。俺を一人の人間として愛したりしたら駄目なんだ。…分かるだろ? 俺はお前の兄なんだから。…大丈夫。お前の台詞を真似する訳じゃないが、お前は口は悪いが人懐こくて明るいし、何よりも綺麗だから、お前の事を愛してくれる人は一杯出て来るよ」
  無表情にほんの微かな笑みを加える兄を見る光矢の表情が恨めしそうなそれに変わる。少し兄を睨んだ後、伏せた眼から新しい涙が一筋頬を伝った。
「……兄ちゃんもアイツと同じような事を言うんだな。“綺麗だから”って……」
「アイツ?」
「……兄ちゃんにも話しただろ? 前の彼女の話」
「あぁ…」
  何かを思い出して頷く智哉の脳裏に蘇るのは、数ヶ月前のある日曜日に当時付き合っていたと言う女性と遊びに行った筈なのに昼前には帰宅してソファーに乱暴に身を預け、そのまま顔を覆っていた弟。その尋常ではない様子に何があったのか問いかけた自分に彼はポツリポツリと話し始めた。

 あぁ、またやっちまった。その日の朝。寝癖を手櫛で幾度も梳きながら通りを駆ける光矢は腕時計を見て小さく顔を顰めた。その日は交際を始めて半年近くになる女性と遊びに行く約束をしていたのだが何時もの遅刻癖が出てしまい、腕時計は約束の時間の 十五分後を指していた。
「はぁ……」
  流石に三回連続遅刻は怒られるかな…。溜め息を吐いても時間を戻せる訳が無く、今の自分に出来る事は極力早く到着するように全力疾走しつつ謝罪の言葉を考える事。漸く見えて来た待ち合わせ場所である 犬の石像の前に立つ女性に少しでも早く謝ろうとラストスパートをかけようとした所、彼女に数人の同年代の女性が近付いて来るのが見える。その後、楽しそうに笑う彼女の態度からその女性達は彼女の友人である事が分かった。
「そう言えば、アンタの彼氏って………」
「!」
  距離を縮める毎に聞こえて来る彼女達の会話の話題に自分が出ている事を知った瞬間、話の内容が気になり、ラストスパートを一時中止して近くの植え込みの影に身を隠して耳をそばだてる。盗み聞きは良くないとは分かっていたが、彼女が普段自分をどのように思っているのかと言う本音を知りたくてならなかったのだ。
「良いよねー、あんなイイ男彼氏に出来てさぁ。ねぇねぇ、彼のどんなトコが好きなの?」
  …本当だ。アイツは俺の何処が好きだと言うのだろう?気になって神経を全て聴覚に集中させる光矢の事など知る由もない彼女はフフンと何処か自慢げに笑った。
「何処が好きって言うかぁ……あんな綺麗な男と一緒に歩いていたら自慢になるじゃん?実際、他のコが羨ましそうに私を見るんだよね♪」
「―――!!」
  ……何…それ…。彼女の答に耳を疑い、自分の頬を微かに震える手で撫でる光矢の耳に会話の続きが飛び込んで来た。
「うわ、じゃあアクセサリー代わりみたいなもの?」
「まぁね。超一流のブランド品持って歩いてる気分かな」
「…………」
  そうか…そう言う事か。頬に手を添えたまま暫く地を凝視していたが、女性達が別れの言葉と同時に離れて行ったのを確認すると静かに立ち上がり、さっきまでとは正反対にゆっくりと歩を女性へと進めた。一歩進め、近付くごとに冷め行く彼女への想い。
「あ、光矢。また遅刻だよ?もーっ!…ね、今日は何処へ行」
「別れよう」
「えっ…………」
  思わぬ言葉に固まる女性の瞳を静かに見下ろしながら、光矢は呟くように言った。
「……お前が必要だったのは俺じゃなくてアクセサリーだったんだろ?」
「っ…!さっきの話、聞いて……」
  眼を見開いて口を押さえた女性に小さく頷き、背中を向けて歩き出す。後ろから自分を呼ぶ声が聞こえたが、振り向く気にはなれなかった――。

「……皆、俺の顔ばっか見て俺の内面なんて見てくれない。顔なんて面の皮1枚剥がせば殆ど皆変わらないのに…」
  涙混じりの声に我に返って視線を戻すと、新たに流れ始めた涙も拭わずに自分を見詰めている弟がいた。涙に濡れ、微かに赤くなった瞳で強く自分を見返しながら彼は感情のままに言葉を続けた。
「それに……俺の事をどんなに好きになっても、俺もそいつが好きにならないと意味無いだろ!…今は兄ちゃん以外好きになれそうにない。俺の事をよく分かってくれてるのは兄ちゃんだけじゃん!!兄ちゃんが俺の事をどう思ってるのかは知らない。でも………」
  一度言葉を区切り、顔を地面に向ける。ポタッ。床の上で温かい雫が一粒砕け散るのを見た光矢は瞼を閉じ、さっきとは打って変わって静かに言った。
「…でも……俺は…誰よりも兄ちゃんの事が好きだって自信は…あるよ…」
「……………!」
  微かに眼を見開いた兄と一瞬眼を合わせた光矢は目元を幾度も拭いながら背中を向けて居間を飛び出し、後に残された智哉は背もたれに背中を預けて、そのままズルッ…と身体を床の方へと滑らした。…俺は、またアイツを傷付けてしまったのだろうか。だが…答として間違ってはいないよな?眩い蛍光灯の光を見詰めながら智哉は誰にも聞こえぬ声で小さく呟いたが、やがてゆっくりと立ち上がって居間を後にした。