九三式練習機(海軍)/九五式一型練習機(陸軍)    

             

        九三式中間練習機
 
 軍用機は実戦配備されている機に光が当たりがちですが、パイロット養成の練習機も同じくらい重要です。腕のいいパイロットなら、多少クセのある機種でも乗りこなすことができますが、これから飛行機に乗るパイロットにその理屈は通じません。クセのある練習機など使おうものなら、訓練中の事故を招いたり腕の悪いパイロットに育ってしまい実戦では役に立たないということにつながりかねないからです。

 昭和2年、日本海軍の各部署でバラバラに運営されていた航空組織が独立統合され、海軍航空本部が設立されました。その3年後の昭和5年、日本の航空技術をリードする技術集団「海軍航空技術廠」(通称「空技廠」)が発足し、これからの時代に適合する新型練習機の開発に着手しました。
 翌年の昭和6年、試作1号機が初飛行に成功し、九一式中間練習機と命名されました。空技廠の開発したこの機は練習機として優秀なものでしたが、新人パイロット育成にはやや安定性に欠くとの評価がなされ、川西航空機にこの機体をベースにしたさらなる高性能練習機の開発命令が下りました。

 昭和8年、九一式中間練習機をベースにした試作機が初飛行に成功しました。機体の基本設計となる鋼管フレームに羽布張り、後退角の付いた上翼を持つ点はベースとなったものを残しましたが、川西航空機独自の設計として主翼や尾翼の形状の変更、上翼の取り付け位置変更が行われ、実用性向上のため細かい設計変更が加えられました。

 海軍のテスト飛行の結果、安定性、操縦性、実用性とも抜群の機体との評価を受け、昭和9年1月末に九三式中間練習機として制式採用されました。目立つオレンジ色の塗装が施されたため、国民からは「赤とんぼ」として親しまれました。
 ただ、あまりに操縦性が優れていたため、「練習機としては高性能すぎる」「操縦が簡単すぎて訓練にならない」といううれしい悲鳴も聞かれたようです。高性能練習機としてだけでなく、高等曲技飛行も可能で、太平洋戦争初期、日本の搭乗員が得意とした格闘戦もこの機で学んだ練習生が少なくなかったと思われます。
 
 制式採用後は飛行学校をはじめ、海軍の航空基地に配備され、多くのパイロットを育てる原動力となりました。世界の大艦巨砲主義者の認識を改めさせた空母配属の航空隊、南太平洋の連合国空軍を震撼させたラバウル航空隊、アメリカ戦略空軍に手痛い反撃を試みた本土防空隊。その全てのパイロットたちはこの機体で腕を磨いて大空へ飛び立っていったといえます。

 実用性抜群のこの機体は皮肉にも低質燃料やアルコールでも飛べたため、特攻機としても使用されました。離陸できるギリギリの限界であった250kg爆弾を搭載して出撃した機が駆逐艦を沈めたという記録が残っていますが、それ以上の赤とんぼが敵にたどり着く前に迎撃機に撃墜されたと考えると自殺の無理強いに思えてなりません。



性能諸元 (九三式中間練習機)    

 全長; 8.05m
 全幅;  11.00m
 全高;  3.20m
 正規全備重量; 1500kg
 エンジン; 日立「天風」空冷9気筒星型 公称340馬力×1
 最大速度; 210km/h 
  武装;  
7.7mm機銃×2     
  爆装;  30kg爆弾×2 
               

        九五式一型練習機

 海軍が九三式中間練習機の開発に成功した翌年の昭和9年4月、陸軍は石川島飛行機に対し、エンジンの載せ換えで初等練習機にも中間練習機にも運用できる練習機の開発を命じました。石川島飛行機は現在のIHI(旧「石川島播磨重工」)の前身にあたる日本の航空機メーカーの一つでした。

 エンジンの載せ替えで練習機のレベルが変わるという機種は前例が無く、開発は難航するかと思われましたが開発指示からわずか5ヵ月後の昭和9年9月には試作1号機から3号機が完成しました。1号機はエンジンの出力が低めの初等練習機、続く2,3号機はエンジンをさらに出力の高いものを装備した中間練習機型でした。

 陸軍のテスト飛行は昭和10年から開始されましたが、初等練習機として開発された1号機はエンジン出力があまりに低すぎたこと、練習機としての飛行性能に難ありとの判定が下され、不採用とされました。続く2,3号機は1号機に比べて高出力のエンジンを搭載していたことや、1号機製作を通じて改修されたこともあって飛行テストの結果は上々でした。

 昭和10年7月、陸軍はこの2機の中から、試作3号機がこれからの時代の練習機としてふさわしいと判断し、九五式練習機として制式採用しました。海軍で使用されていた九三式中間練習機と甲乙つけ難い性能を持っており、安定性と操縦性の良さは抜群でした。この機体は操縦が簡単な上に、並外れた体力が必要とされなかったことから教育担当者からは「女性向け飛行機」などと呼ばれる程でした。

 しかし、この高性能機が中間練習機として君臨できたのもつかの間でした。実用機の性能が日増しに進歩し太平洋戦争突入時は主力戦闘機の隼の最大速度は時速530キロを超えていました。この頃は九五式中間練習機は初等練習機と位置づけられ、九九式高等練習機がかつての練習機の王座にいました。

 旧式化した九五式中間練習機は昭和18年頃から逓信省(現在の総務省、日本郵政(JP)、電電公社(NTT)の前身)のパイロット養成機関や民間に払い下げられ、大戦末期や戦後復興期のパイロット育成に貢献しました。
 
 余談ではありますが、このホームページに相互リンクされておられる「飛行機の操縦とアマチュア無線」の管理人さんはかつて逓信省の飛行練習生として関わられていたと聞いています。

 昭和19年、フィリピンで鹵獲されたB-17が戦意高揚の目的で各地の航空基地を回っていた時のエピソードです。出迎え目的でこの九五式練習機がB-17の後方から接近したところ、後方乱流(飛行機が飛ぶことで発生する気流の乱れのこと。最悪の場合、後続機が失速してしまう)で弾き飛ばされてしまったそうです。(墜落は免れたとか)

 現在、空中給油などでは十分な距離と高度差を付けて行うそうですが、あまりに機体が軽いとやはり乱流で墜落の危険があるので、比較的重めの機種が選ばれるそうです。

 ブラスハートではこのB-17と九五式練習機の空中事故に関する情報を集めております。なにかご存知の方がおられましたら、教えていただけると幸いです。


 この機は練習機としての運用だけでは惜しい性能を持っていたため、観測機や通信・連絡機としても使用された他、250kg爆弾を搭載して特攻機としても使用されました。終戦後、外地に残されていた残存機は中華民国やインドネシアに接収され、他国の空でもパイロットを育てる原動力として記憶されています。



性能諸元 (九五式一型練習機)
    

 全長; 7.90m
 全幅;  10.31m
 全高;  3.10m
 正規全備重量; 1580kg
 エンジン; 瓦斯電九五式(ハ13)空冷星形9気筒 公称350馬力×1基
 最大速度; 240km/h 
  武装;  なし



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