カーチス SB2C 「ヘルダイバー」 艦上爆撃機            
 カーチス SB2C 「ヘルダイバー」 艦上爆撃機


 1938年8月、ダグラス社のドーントレスが初飛行を終えた頃、アメリカ海軍航空局は航空機メーカー数社に対して新型艦上爆撃機の開発・試作の公募を募りました。この背景には「ドーントレスは主翼に折りたたみ機構を持っていないので、ヨークタウン級空母で運用すると搭載機数が減ってしまうのではないか」という用兵側からの不安がありました。この為、ドーントレスよりも爆弾搭載量・航続距離などの基本性能が勝っていることに加え、12×14mの航空機エレベーター上に主翼を折りたたんだ状態で2機搭載できるという要求が付けられました。


 これに対して、カーチス社はエレベーターだけでなく格納庫や飛行甲板上でも占有面積を取らないために胴体長が極端に短いずんぐりした形の新型機を海軍航空局に提案しました。新型機を切望していた海軍はスペースを取らないカーチスの新型機に飛びつき、さっそくカーチスに原型機製作の指示を出しました。しかしこの胴体長の短い設計はヘルダイバーに空力安定不足という致命的なハンディキャップを背負わせることになったのです。


 ヘルダイバー開発の難航は空力安定不足だけに留まりませんでした。設計要求の中には開発中の新型エンジンが絶対条件として加えられていた上に、重量制限内で設計することが必須でした。(あまりに重いと空母からの発艦もできず、艦載機としての運用そのものが不可能になるため)しかし新型エンジンを搭載した上に、重量制限内での設計は不可能であり、この条件を厳守すると現用機よりも少しだけ性能が良くなると見込まれ海軍関係者を落胆させました。ジュラルミンだけでは重量制限をオーバーするため海軍航空局はエンジン周り・フレーム以外の部品でマグネシウム合金の使用を認めました。


 さらに1939年7月の風洞試験で「ヘルダイバー」は当初期待されていた揚力係数(高い程、運動性に優れる)がないことが判明しました。海軍の最低要求値に到達させるためには主翼の設計をやり直す必要が出てきましたが、試作機の引渡しが大幅に遅れるという事は明白であり、この申し出は海軍に却下されました。重量軽減しか生き残る道は残されておらず、材質をマグネシウム合金やアルミニウム鍛造材の使用に務めました。やがて1940年8月、テストを終えた新型エンジンがカーチス社に引き渡され12月に初飛行に成功しました。高速性能は申し分なかったのですが、安定性の不良やダイブブレーキを作動させたときの異常振動などが指摘され、飛行試験を繰り返しながらの改良が繰り返されました。しかし、いくら改良を加えても不良点はピタリと静まらず遂には試作機が空中分解・墜落し、今後これ以上の改良は量産を続けながらという後味の悪い結末で海軍への引渡しとなったのです。



 1942年12月、空母「エセックス」「ヨークタウン(2代目)」の航空隊に初期量産型のヘルダイバーが配備されましたが、現場のパイロット達から多くの問題点が指摘され、3度の改修を経てようやく空母「バンカーヒル」の航空隊で合格点を与えられるというスタートでヘルダイバーの実用が始まりました。1943年11月、日本海軍のラバウル航空基地の襲撃を初陣にドーントレスからヘルダイバーの機種転換が始まりました。やがて主力艦上爆撃機として、太平洋の主力空母からアメリカ本土沿岸に配備された護衛空母にまで幅広く配備され5000機以上が量産されるベストセラーとなりました。
 しかし癖の強い操縦特性や失速の危険性を常に帯びたこの機体はパイロット達に嫌われ、「SB2C」という制式番号をもじって「サノバビッチ セカンドクラス」(2流の駄作機)というありがたくないあだ名まで付けられる始末でした。

欠陥機とさえ言われたヘルダイバーでしたが、航続距離や搭載量はその欠陥を見えなくするほど優れたもので、日本海軍の誇った大和・武蔵をはじめとする連合艦隊を壊滅させたのもヘルダイバーの功績でした。終戦と共に生産は急激に落ち込み、1945年10月で生産は打ち切られました。

性能諸元(SB2C-4)

 全長; 11.18m
 全幅;  15.16m
 全高; 4.01m
 正規全備重量; 4784kg
 エンジン; ライト R-2600-20「サイクロン」 (離昇出力:1900馬力)
 最大速度; 475km/h (高度 5090m)
  武装;  7.62㎜機銃×2    
        20mm機銃×2

       爆弾 最大907kgまで



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