ダグラス SBD 「ドーントレス」
   
         ダグラス SBD 「ドーントレス」

 

 アメリカ海軍で1930年代に開発された急降下爆撃法は、各国の軍事関係者に大きな衝撃を与えましたが実戦に組み込むことができたのは日本、アメリカ、ドイツの3カ国のみでした。各国は独自に研究・開発を進め日本海軍は99式艦上爆撃機を、ドイツ空軍ではユンカースJu87を急降下爆撃機として完成させました。

 同じ頃、アメリカ海軍はカーチス、ヴォート(F4U コルセアを開発)、ブリュースター、グレイトレイクス、マーチン、そしてノースロップの6社に対して急降下爆撃機の競作を命じました。この中の1社、ノースロップ社は1932年、一航空技師であったジョン・ノースロップによって設立されました。ノースロップ社はダグラス社によって資金・技術的にも大きくバックアップされておりノースロップ社はダグラス社の仕事を大なり小なり請け負っていました。その数年後、ノースロップ社はダグラス社に吸収合併されましたが、スタッフとその技術はそのまま1部門で存続しました。

 他社が開発競争で敗れていく中、ノースロップ社は試行錯誤を繰り返しながら問題点をクリアしていきました。急降下爆撃機という機種は目標に向かって降下角度60度以上で急降下し、さらに200キロ以上の爆弾を投弾した後は機首を引き起こして高度を取り、対空砲火から逃れるという一連の動作ができなければ使い物になりません。

 戦闘機よりもはるかに頑丈な主翼、コース決定後は目標に真っ直ぐ突入できる機体の安定性とそれを可能にするダイブブレーキの装備など開発は難航しました。急降下テスト中、ドーントレスは激しい揺れに襲われたこともあります。これに対し、ノースロップ社の設計チームはダイブブレーキに多数の孔を開けたところこの揺れが無くなったりと、手探りの改良が続きました。名前のとおりまさに「不曉不屈(ふとうふくつ)」の精神を植えつけられながらの誕生となったのです。(ドーントレスの日本語訳は「不曉不屈」)


 やがて1938年、ノースロップ社は強豪に打ち勝ち、新型機が米国海軍に採用されました。ノースロップBT-1はダグラス社に吸収された後は「ダグラス SBD」と呼称が変化していました。採用後は陸軍ではユンカースJu87の影響を受けて、海軍では空母を始め急降下爆撃隊創設のためまとまった数が生産されました。

 この時期の艦上爆撃機は鈍重な飛行機と印象がもたれがちですが、日本の99式艦上爆撃機は戦闘機並みの機動性を持っており、爆弾投下後は戦闘機としても使用できましたし、ドーントレスにいたっては、なんと零戦を撃墜しています。特にドーントレスの後部座席搭乗員は通信と空対空戦闘の両方に長けていなければ勤まらないといわれる程大変だったようです。中には40機近くの艦上機を撃墜したツワモノもいましたが、艦爆乗りがいくら飛行機を落としても戦果にはならないということもあってか、このことを知る人はあまりいません。

 空母に搭載されたドーントレス隊が大きな戦果を挙げたのは珊瑚海海戦からでした。空母レキシントンとヨークタウンに配備されたドーントレス隊は日本機動部隊の軽空母「祥鳳」を沈め、大型正規空母「翔鶴」の飛行甲板に3発の爆弾を命中させます。

 最大の手柄は日本の大勢を決することになったミッドウェー海戦でした。海戦前の情報戦や日本側の情報錯綜、先に出撃した雷撃隊の犠牲など、多くの要因が重なりましたが、日本側の空母を沈めた主役はまぎれもなくドーントレスの急降下爆撃でした。
 この海戦でコンビを組んだ艦上雷撃機 「デバステーター」は性能の低さゆえに零戦から絶好のカモにされ、ほぼ全滅に近い損害を被りました。

 新型機や改良機が次々登場した太平洋戦線でしたが、ドーントレスは空対空戦の強さや使い勝手の良さもあり、後継機「ヘルダイバー」が登場してもしばらくは最前線で使われ続けました。



 性能諸元(SBD-6)

 全長; 10.06m
 全幅;  12.65m
 全高; 3.94m
 正規全備重量; 4318kg
 エンジン; ライト R-1820-66「サイクロン」 (離昇出力:1350馬力)
 最大速度; 410km/h (高度12500m)
  武装;  7.62o機銃×2    
        12.7mm機銃×2

 


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