愛知  99式艦上爆撃機
  
    
      愛知 99式艦上爆撃機

  小さな目標への精密爆撃の手段としてアメリカ海軍が開発した急降下爆撃法は各国の軍関係者を驚かせました。陸軍であれば戦車や司令部施設を狙った精密爆撃が、海軍であれば戦艦や航空母艦の弱点を狙った効率的な爆撃が行えると誰もが考えました。
 
 1930年代に入ってから日本海軍もこの急降下爆撃法に注目し、純国産の急降下爆撃機開発を具体化させていきました。海軍は海軍航空技術廠(通称「空技廠」)の技術者を渡米させて大手軍用機メーカーであったカーチス、チャンスボートに範を求めました。帰国後、中島飛行機と空技廠のスタッフが共同で開発に当たりましたが、試作機は途中で空中分解し開発は失敗に終わりました。
 
 海軍独自での開発を断念した海軍は民間の航空機メーカーに試作指示を出しました。愛知航空機はビジネス上、親交の深かったドイツのハインケル社に設計依頼を出し、複葉の94試艦上爆撃機(海軍初の艦爆)、改良版の96試艦上爆撃機を世に送り出しました。


 しかし、航空技術の進歩により航空機が複葉機からの脱却を果たしさらなる高速・長距離飛行が可能になった頃、日本海軍は海軍機近代化計画を打ち出します。世界レベルの技術から取り残されないことや航空母艦での運用が背景にあったためです。

 海軍機近代化計画に伴い、96式艦上爆撃機の後継機を中島飛行機、三菱重工、愛知航空機に試作指示を出しました。中島、三菱の両社は設計の難しさや次期主力戦闘機の開発などで開発競争から脱落しました。2機種を送り出した愛知はこれに対し、ハインケル社のHe70を模範とした艦上爆撃機を開発しました。細かな改修に1年半を要したものの、信頼性が高い機体となり、昭和14年に99式艦上爆撃機として制式採用されました。

 
 400機ほど生産された99式艦爆(11型)は空母「赤城」を中心とする航空機動部隊の急降下爆撃機として真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦など空母が出動するほとんどの海戦に参加しました。ベテランパイロットの多かった黄金期は爆撃の命中率はなんと80%を超え、連合国の艦船を最も多く沈めたといわれています。

 しかし、低速ゆえに戦闘機に捕捉されると逃げるすべが無く、昭和17年以降は損害が多くなりました。これに対しエンジンを強化した22型が戦線に投入されましたが、制空権の無い海域での行動は自殺行為にも等しく後継機の「彗星」が普及しなかったことも手伝って終戦直前には特攻機としても使用されました。


性能諸元(22型)

 全長; 10.23m
 全幅;  14.36m
 全高; 3.35m
 正規全備重量; 3800kg
 エンジン; 金星54型(離昇出力:1300馬力)
 最大速度; 428km/h 
  武装;  7.7o機銃×2(機首) 7.7mm機銃×1(旋回機銃)      
      爆弾:250kg×1 30kg×2
 



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