「結局戻ってこんかったなあ、奥村くん」
「先生もな」
「……俺、ちょっと便所。先移動しとけ」
「はいよ」
「遅れんように気を付けて下さいね」
長い廊下を歩きながら、溜息をつく。それでも気分は晴れない。
変な事が気になって、さっきからいらついてしょうがない。なんでこんなに、さっきの奥村の事が気になるのか。
らしくなかったなんて、俺には関係ないじゃないか。あいつの事なんて、どうとも思ってないのに。ただ妙に、いつもの覇気がなかったから気になる。
おかしい、やめだ。用を足したら切り替えよう。頭を振って、男子便所のドアを開ける。
そこに、さっきまで変に俺の頭を悩ませていた人物が立っていた。
「奥村」
「……」
呼びかけにこっちを向いた奥村は、何も喋らない。ただ妙に疲れきった顔をしている。一瞥した後、ばしゃばしゃと洗面台に手をつっこむ。水道で何かを洗っているようだ、ネクタイ?
こちらが気を使って呼びかけたのに、それに先ほどまで自分の頭を悩ませていた元凶のくせに、無関心な態度に思わずむっとした。
「なんや、返事くらい……ってお前!」
「え」
「その顔の痕なんや!」
俯く奥村の額から目頭近くまで、真っ赤に染まっている。強く打ち付けられでもしない限り、そんな痕は付かないだろう。
そんなもの、さっきまではなかった。
「なんで休みに行って傷増えてんねん!先生が一緒に、」
「!」
先生、と言った途端、奥村がびくっと震えた。まさかとは思う。けれど、
「それ、先生がやったんか?」
「っ……違う」
否定の言葉はむしろ、肯定の色を強くしていた。どうして、なんで先生が。なんで先生がお前の事を傷付けるんや。やっかいな匂いが、する。
「もしかしてお前、今日様子がおかしいんも」
「違うっ!」
叫んだ奥村は、ネクタイをそのままにして走って出ていった。
俺と、流しっぱなしの蛇口が、便所に取り残される。
「……なんやねん……」
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こういう時、頭の回転が早い奴は不利やなあと思う。色々気づいて、勘付いてしまう。面倒で仕方がない。
関係ないと振り払えたら、どんなに良かったか。
「俺も大概、おせっかいやな……」
ただ、あいつが元気がないと、俺も調子が出ない。会ったばかりの時ほどはいかないけれど、奥村とは対等に言い合っていたい。あんな奥村は見ていられない。それだけだ。
塾教師の職員室の扉を開けると、すぐそばの机に奥村先生が座っていた。先生の他には誰もいない。よかった、その方が都合がいい。
「勝呂くん。どうしたの、君は今から授業だろう」
人当たりのいい笑顔と、人当たりのいい声。この人はこんな平然とした顔をして、奥村に一体何を強いているんだろう。
「先生、話があるんです」
「なにかな?成績優秀の君が授業をサボタージュするなんて、よっぽどの事だね」
「奥村の、事で……」
奥村と口に出した途端、職員室中の空気が逆立ったような錯覚に陥る。この先生が出しているのか、こんなねめつけるような居心地の悪い空気を。
「兄さんがどうかしたのかな?」
「さっき、便所で、奥村に会ったんです」
「トイレで?」
柔和な笑みと、声のトーンは一切変わっていない。それなのに、なぜか俺はこの場所から逃げ出したくなっている。
ええい、同い年やぞ!
「先生、俺は面倒なのは嫌いです」
「そうだろうね、君は頭がいい」
「でも、奥村が元気ないんは嫌なんです」
「兄の事を気遣ってくれているんだね。ありがとう」
「奥村に、何をしているんですか」
ふっと、先生の表情が変わった。
やっと崩せた。そう思った。そう思ったのに。
「僕は、兄を愛しているだけだよ」
にやりと笑う顔は、とても人間だとは思えない顔だった。ビリビリと体中に電流を通されたように痺れる。この人には敵わない、逃げろと身体が信号を送っている。思わず声が震えそうになるのを頭の中で叱咤した。
「痕ができとった」
「兄が暴れるからね。つい手荒な事もしてしまうのさ」
「双子やろ…?」
「そうだね」
「兄貴やぞ……?!」
「そうだよ」
先生の目には、嘘の色など少しもない。至極まともに、おかしい事を言っているのだ。正気で、分かっていて、兄を傷つけねじ伏せているのだ。愛と称して。
この目の前の、同い年の男は。
「もう話は終わりかな?今からでも授業に出た方がいいよ」
「……は、い」
「行って」
足が勝手に職員室から駆け出て、腕が勝手に職員室のドアを閉めた。一秒でも早く、この部屋から出たかった。
ありえない動悸がする。教師と話していただけだ、それなのに。あと数分でもあそこにいたら、動けなくなってしまいそうだった。
「な、なんやねん……!」
奥村の事が心配だった、それだけなのに。
昨日まで平常だった兄弟に、一体何が起きているのか。知ってはいけない領域に、足をつっこんでしまった気がする。いや、つっこんでしまったのだろう。
頭に浮かぶ陰鬱なものを振り払いたくて、堅い廊下を走る。
知りたくなかったと後悔しても、もう遅かった。
→20120214
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