「こんにちはー」 研究室の扉を開けたジョミーは、ドアノブを握ったまま溜息をついた。 すでに見慣れた光景とはいえ、三日前に片付けたばかりの部屋がすでに元の状態に戻っていれば溜息をつきたくもなるというものだ。 「なんでこんなに物が散乱するのかな」 ジョミーは手首にかけていた紙袋をドアノブに掛けて、床の上に所狭しと山積みになった本をなるべく踏まないように掻き分けて奥へ進む。 「教授ー?部屋にいますかー?生きてますかー?」 先へ進むほど、本の山に数字の羅列や何か呪文のようなものを書き付けた紙が混じって落ちている、その割合が高くなる。 「ジョミー」 声が聞こえた方に目を向けると、窓の近くに積み上げられた本の隙間から、ひらひらと左右に揺れる白い手が見えた。 「ああよかった、生きてる」 本は踏まないように気をつけているけれど、紙に関しては気にしない。散乱している紙はもはや必要ないものだと知っているからだ。ならばジョミーにとって理解不能な数字を羅列した紙は、なんの意味も持たない。彼と同じ分野を進む者にとってこれがどれほどの宝であろうとも。 乱暴にページが開かれた本を一冊拾い上げて、窓際の堤防のようになっている本の山の一番上に置いて肘を掛けながら、その向こうを覗き込んだ。 「生きてますかとは酷いな」 「だって教授、ほっとくと何も食べないで研究室に篭りきりになったりするじゃないですか」 散乱する紙をベッドに、窓の真下で本を胸に。 覗き込んだジョミーを見上げた、眼鏡の奥のブルーの赤い瞳は、寝起きらしく随分と瞼が重そうだ。 「ほら、また眼鏡を掛けたまま寝てるし。顔を怪我したり、フレームが曲がりますよ」 横に膝を付きたいところだったけれど、ブルーの横は本の山があるのでそれを回り込む。 それでも動かないブルーの足の間に膝をつき、半ば覆い被さるようにして手を伸ばして眼鏡を取り上げた。 「ジョミー」 伸ばされた手を避けて起き上がると、取り上げた眼鏡を掛けてみる。 「うわ、度がキツイ。目が回りそう」 「乱視も入っている。それがないと君の顔も良く見えない。返しなさい」 「だったら寝転んでないで起き上がってください」 ジョミーはブルーの足の間にしゃがみ込み、眼鏡をかけたまま両手に顎を乗せて、また目を閉じたブルーを呆れて見下ろした。 「……まだ眠い」 「こんなところで寝るからですよ。効率のいい研究には、質の良い睡眠も大事だって言ってましたよ」 「ふぅん、誰がそんな適当なことを」 「あなたです。以前、中庭で」 「………」 眠そうに眉を寄せていたブルーの目が開いた。 ブルーが起き上がって顔が近くなっても、レンズの向こうの顔はぼやけてよく見えない。 「何度も言うが、君はまだここの学生ではないから教授などと呼ばなくていい」 「学生になったら呼ばないといけないなら、今からでも一緒でしょう?」 「学生になった後は、『人前では』という条件に変わる」 ぼやけた視界でも伸ばされた手は分かる。今度は逃げずに代わりに目を閉じた。 眼鏡が取り上げられて、瞼を開けると今度こそ何も隔てずに赤い瞳がすぐ傍にある。 「ジョミー?」 不思議そうに呼ばれて初めて、眼鏡をかけようとしていたブルーの手を止めていたことに気づいた。 「ああ……ごめんなさい」 眼鏡をかけたら邪魔になりそうだな、なんて。 一体なんの邪魔になると言うのだろう。 「弁当を作ってきましたら、あなたは中庭で日向ぼっこでもしながら食べてきてください」 「君の手作り?」 眼鏡をかけながら尋ねるブルーに、大仰に頷く。 「そう。ぼくの手作り。あなたがお願いしたら、いくらでも作ってくれそうな女の子がいるのに」 「君の料理が一番美味しい」 「味音痴のくせに」 放っておけばコンビ二エンスストアのサンドイッチやおにぎりばかり食べるブルーのために、ジョミーはせっせと栄養バランスを考えた弁当を作ってはこうして訪ねてくる。 しかもブルーはそれらなんにでもソースをかけようする。味が足りないかどうかではなく、単にそれが習慣だと言われたときには頭が痛くなった。 それを叱りつけたジョミーの手料理だけはそのまま食べる。ジョミー以外の人の料理にはすべてソースをかける。だから弁当を持ってくることが止められない。 すぐに食事を抜く。食べたら食べたでまた身体に悪そうな食べ方。 放っておけば絶対にこの人は病気になる。 そんな義務感に溢れたボランティア。 「ぼくはいつまでこうして弁当係を続けなくちゃいけないんでしょうね」 「ずっとしてくれたらいい。君の料理なら僕も食べるし、君も安心だろう。僕の助手になりたまえ」 「弁当を作ったり、掃除をしたり、助手じゃなくて家政夫の間違いでしょう、それじゃ」 「君と金で雇う関係になる気はない」 やれやれとジョミーはしゃがんでいた膝を伸ばして立ち上がる。 「ブルーは庭へどうぞ」 「一緒に食べよう。掃除はその後でいいだろう?」 「ぼくにも都合ってもんがあるんですよ!?」 この部屋の片付けだけでもどれほど時間が掛かるか分からないのに、食事までしていたら益々遅れる。日が沈むまでに終えなくては、中庭に追い出したブルーがそのままで転寝でもしてしまえば風邪を引いてしまう。 「分かっているさ。さあ行こう。君と一緒に取る食事は美味しいから箸も進む」 分かってない返事を返すブルーとのかみ合わない会話に、ジョミーは溜息をついて部屋を見渡した。 「明日も来るか」 二日に分ければどうにかなる。そうすると中一日でまたここに来なくてはいけないが、それならブルーの食事を明日も持ってくることになるし。 ジョミーの独り言に、ブルーは満足そうに微笑んだ。 |
「書物の海から引き上げろ」
配布元:Seventh Heaven
単にメガネでだらしなくて世話の焼けるブルーと、 面倒見のいい色々器用で家事の得意なジョミーが 書きたくなったというだけの話。 |