シャツを羽織り階下へ降りると、忙しなく朝の支度をする母親の後姿があった。 「おはよう、ブルー。今日から新学期ね。もうすぐトーストが焼けるから勝手に食べてちょうだい」 「うん……」 母は振り返らないし、息子もテーブルコンピューターのスイッチを入れ電子新聞を選ぶだけで、母の背中を一瞥もしなかった。 それはどこにでもある朝の風景であったが、流れる雰囲気はどこか白々しい。 トースターが焦げ目のついたパンを吐き出すと、ブルーは電子新聞の記事を捲りながらバターだけを塗ってそれを齧る。 目を向ける事無く手探りだけで入れたコーヒーを口に含んだところで、ひとつの記事に目が止まった。 「シャングリラ、地球を出発」 写真も映像もないその文字だけの記事は、地球再生機構の中心を担うミュウの視察団の船団が、ノアへ戻るということを報じていた。帰港するのは今月末の予定となっている。 「……ご苦労なことだな」 現在の赤茶けた重苦しい様相を見せる地球に対して、未だに夢や憧れを持ち続けるものは少なくない。 特にミュウ、その中でもミュウの長ソルジャー・アスカを始めとする古い顔ぶれはその傾向が強いという。 ソルジャー・アスカはかつて地球が完全に死の星となるところを、人間と協力してその身を呈して守ったというのだから、思い入れがあるのも当然かもしれない。 地球が完全に滅びそうになったのは三百年前のことで、今では当時の証人はミュウといくつかの文献に残るのみだ。 ブルーは地球とは何の縁もない。 人類発祥の地であるとはいえ、人類の大半が地球を離れてもう九百年になる。そんな遠い昔の故郷と言われても。地球に対してはそんな冷めた見方をする向きもあって、どちらかと言えばブルーもそちらと同じ考えを持っている。 そのはずなのに、なぜか地球の話題を目にするたび、耳にするたび、どうしても目が、耳が、そちらの集中してしまう。 そうして今日もやはりその記事で手が止まった。 再生機構はその活動や進捗度を隠す事無く開示していて、今回も特に目新しい大きな発見はないということだった。 十四年前、死の星と化した地球にソルジャー・アスカが持ち込んだという花が枯れることなく咲いたことに世間は大きく沸き上がったが、そこから大きな進展はない。 もっとも、十年や二十年で劇的な変化など訪れようもない。 彼らとて三百年待って、ようやくそこまで辿り着いたのだから。 記事を端から端まで一文字も漏らさず読み終えると、どうぜ似たような内容だと分かっているのに、発行元を異にする別の新聞を取り込んで地球関連の記事を読み漁る。 どの新聞でもやはり絵はなく、文字のみの記事だった。 赤茶けた色でも、それでも地球を見ることができる機会は本当に少ない。少し落胆する。 次に地球の新しい映像なり写真なりがどこかに掲載される可能性があるのは、ミュウの船団が帰港したときだろう。 政府と上手く連携した特集が組まれれば、可能性はゼロではない。 確率は、かなり低いけれど。 「ブルー」 名前を呼ばれて顔を上げると、母は振り返ってはいたけれど、どこか視線を彷徨わせるようにブルーを見てはいなかった。 「学校に行かなくて良いの?新学期早々遅刻するわよ」 「うん、行くよ」 ブルーは手元のコンピューターの電源を落とすと、空になった皿とカップを流しへ運んで鞄を掴み、リビングを後にする。このまま身支度を整えて出て行くので、次は帰宅するまで母と顔を合わせることはない。 あちらはさぞかし、ほっとしていることだろう。 鞄を玄関に置き、洗面所に入ると鏡に映る銀の髪を指先で弄りながら、知らずに溜息が漏れる。 「寮に入ればよかったな」 歴史の授業によると、機械にさまざまなことを委ねていた時代は、十四歳になると成人と見なして強制的に親元から引き離し、成人したてということになっている子供たちだけで集団を生活を送っていたという。 将来の選択を機械にすべて握られるというのは御免だが、その自立年齢の早さは少しだけ羨ましい。 集団生活の煩わしさを嫌って自宅通学を選んだ浅はかさに溜息を零しながら、身支度を整えると玄関に戻って無言で家を後にした。 |