「ごめんなさい……」
仄かな光が灯る静かな部屋に、消え入りそうな震えた声が響いた。
小さな、静寂に包まれた部屋ですら耳を澄ませていないと聞き逃してしまいそうな、それほど小さな声。
ブルーの目に映る後継者は、今にも泣き出してしまいそうな声を絞り出しながら、けれど泣いてはいない。
痛みを堪えるように強く目を瞑り、わずかにブルーから顔を逸らし。
それは涙を耐えているからか、それともブルーの顔を見ることができないからか。


地球政府のメンバーズ、キース・アニアンの逃亡はシャングリラとナスカに深い傷跡を残した。
いくつもの命が失われ、幾人もが傷ついた。
深い悲しみと、怒りと、憎悪と、入り乱れる感情はすべて暗く、重い。
長い眠りから覚めてみれば、焦燥ばかりが募るような苛立ちに見舞われた。
酷く混乱した気配が飛び交う船内。長く活動していなかったために、歩くどころかわずかに動くだけでも神経が痺れるように痛み、思うように動かない身体。思念波すらもろく使うことができず、誰に状況を報告させることも、現状を報せることもできない不甲斐なさ。
あまりに情けなくて自嘲する余裕さえない。ただ、腹が立つ。
シャングリラに帰還したジョミーが駆けつけたときは、ブルーはまだ医務室にいた。
長き眠りから覚めたブルーをその目で確認したときのジョミーの表情は複雑なものだった。
喜び、焦燥、恐れ、後悔。
状況さえ違えば彼は心から喜んだだろう。だがこの状況でなければ恐らくブルーは目覚めていない。皮肉なことに。
物言いたげにブルーの赤い瞳を見つめ、けれど何も言わず、ジョミーはすぐに指揮に戻ると医務室を後にした。
何年も前に最後に見た小さな背中は、少しだけ成長したようで、ブルーはそれだけを確認すると目を閉じて深く息を吐いた。


一通りのメディカルチェックを受けると青の間に戻ったブルーの元へ、ジョミーが再び訪れたのはそれから数時間が経過した後のことだった。ブルーの予想よりも早かった。
被害が出た各部署へ必要な指示をほぼ与え終え、どうにか時間を作ったのだろう。
青の間を訪れたジョミーは、まだ起きていたブルーを見て、安堵と、そしてやはり恐れに近い感情を瞳に浮かべる。
それからベッドの傍らに立つとしばらく沈黙し、ようやく搾り出した声は深い悲しみに満ちた謝罪。
ジョミーは強く目を瞑って震える手を握り締めていた。
いつの間にか、随分と上手く思念を遮蔽することができるようになった。こんなに近くにいるのに、そんなにも感情が震えているのに、ジョミーの心が見えない。
「……君は、何に謝っているのか」
ゆっくりと、問題なく声帯が動くことを確かめながら、吐息をつくように声を出すと、ジョミーは更に強く手を握り締める。
ブルーはゆるゆると息を吐き出した。
せっかく上手く思念を遮蔽しても、そんなに感情を顕わにしては意味がないのに。
「ジョミー」
容赦をせず、質問に答えるよう促して名前を呼ぶと、ジョミーは金の睫毛を震わせて瞼を上げた。わずかに逸らしていた顔をブルーに向け、涙を堪えて揺れる翡翠の瞳でブルーを見つめる。
「……あなたに託された……あなたの、大切なものを……傷つけた………いくつも、失った」
「それを僕に謝るのか」
揺れていたジョミーの瞳が、驚いたように大きく開かれた。
彼には当然のことなのだろう。
けれどそれは違う。
違うのだ。
「謝る相手を間違えている」
「え……?」
「君は失われたものを、傷ついたものを、僕の大切なものと言った。それは、君にとっては大切なものではないのか?」
「そ………っ」
青白く今にも倒れそうな顔色だったジョミーの頬に、さっと赤みが差した。驚愕に見開かれた目は瞬時に怒りに色を変える。
「僕に託されたから、だから大切だと?」
「違う!」
後悔に沈むジョミーと、弱った身体を抱えたブルーと。囁くようだった会話に、怒りに満ちた悲鳴が強く上がった。
「違う!みんな、みんなぼくの大切な人だ!一緒に生きてきた大切な仲間だ!ぼくが守るべき人たちだった!」
一瞬で跳ね上がった激情は、すぐに収束される。
ジョミーは震える手で、胸の辺りを掴み、強く握り締め、それでも涙は零さない。
「……ただあなたにとっても大切なことだからと……それ……だけで……」
「では、謝る相手が違う」
「どうして………!」
どうして、なにが、なぜ。
答えを求めるジョミーの強い視線がブルーに注がれる。
ブルーは赤い目を眇めて、緩く息を吐き出した。
「答えはひとつではないのだよ、ジョミー」
「だってあなたは傷ついているじゃないか!悲しんでいるじゃないか!なぜあなたに謝ることが違うの!?答えがひとつじゃないなら、これだって間違いじゃない!」
短い叫びに、どれほどの想いを込めているのか、ジョミーの肩が息を上げたかのように激しく上下する。
それを真っ直ぐに眺め、ブルーは否定するように頭を左右に揺らした。
「……僕は君を慰める言葉を持たない」
「慰め!?」
それこそ侮辱だとでもいうように、ジョミーの眉が跳ね上がる。
「ぼくがあなたに慰められたくて、だからあなたに謝っていると?あなたを利用しているって言うのか!?」
「慰めを欲していないのなら、なおさら謝る相手が違う」
「わからない!あなたが何を言っているのか、全然わからないっ」
「長に答えを与えてくれる者は、誰もいない」
静かな声は、まるで冷水を浴びせたかのようにジョミーを一瞬で凍らせた。
わななく唇を、震える瞳を、見つめて。
「君は答えを与える者だ。与えられることはない」
「そ……んな、ことは」
わかっている、と。続くはずの言葉を聞くことはできなかった。
ブルーが眠りに落ちて十数年の時が経ったという。その間ジョミーは、ブルーの助言もなく長として立って歩いていた。今のジョミーなら、その孤独を理解してはいるはずだ。
だが理解をしていても、それがすべてだったわけではない。
まだ長としてのジョミーの不安定さを危惧する長老たちは、長を支えることを旨としていただろう。常に周囲と同じ目線に立つ姿勢は、若い世代を中心に気安く温かく迎えられただろう。
そして何より、たとえ眠り続けているとしても、ブルーがそこに生きて存在するだけでも、それはよすがになった。
だがそれは同時に、長としての絶対性を揺るがす。
「……僕は、君の側に立つ存在だ。だから謝る相手が違う。だがそれは僕の考えだ。君が違う答えを出すこともあるだろう。君が僕に謝罪したいというのなら、それは構わない。だが僕は君を慰める言葉を持たない」
噛み締められた唇と、強く寄せられた眉と、揺れる瞳と、震える拳と。
強く交わされた視線は、ジョミーのほうから逸らされた。
「もう行きます」
「……ああ」
ジョミーにはやるべきことが山積している。その時間の隙を縫って来ている。不毛ともいえる問答を続けている暇などないだろう。
すぐに身を翻すかと思ったが、行くと言ったきりジョミーは動かない。
変化は、拳に現れた。
寄せた眉も噛み締められた唇もそのままに、目を伏せたジョミーの拳が少しずつ、開いていく。
何かの言葉を探しているという様子でもない。力なく、ゆっくりと開く指が、何かを求めるように小さく震えた。
「ブルー」
のろのろと顔を上げたジョミーは、黙って言葉を待っているブルーと視線を交わすと喉を鳴らして震える唇を開く。
「触れても、いいですか?」
罪を恐れるように小さな声で紡がれた望みに、ブルーはようやくと息を吐き出して眉を下げた。
「おいで」
仕様がない子だと、そんなことを言いたげな、けれどもようやく穏やかに答えたブルーに、ジョミーは崩れるように床に膝をついた。
ベッドの傍らに両膝をつき、俯いたジョミーの嗚咽が聞こえる。
俯いたままのジョミーから震えた手が伸ばされて、ブルーは重い手を上げて自らも近づけた。
指先が触れ合うと、ジョミーの手が途端に激しく動いてブルーの手を握り締める。
俯いたまま、嗚咽を漏らして、強く握り締める。
触れた手から、ジョミーの慟哭が聞こえる。
深い悔恨と、懺悔に満ちた悲しみの、声にはならない胸の軋み。
伏せられ顔の見えないジョミーの金の髪を目を眇めて見つめて、痛いほどに強く握られた手に少しだけ力を込めて握り返した。






お話TOP



『変動の予兆』の回に触発されて書いた話でした。
実際の二人の対面の前に慌ててアップ。
ignisとは、ラテン語で「火」を表す言葉です。
ブルーといえば、名前だったり地球だったりの
『青』のイメージが強いのですが、
ソルジャーとして生きる部分はどこまでも激しい炎の
ような人だったのかな、と。
火は、焼き尽くすもの、暖めるもの、浄化するもの。
そんなイメージで。