視界が反転した。
見る者の目を傷めない柔らかな灯りの下で、いつも目に入れていなかった天蓋が映る。
いつもはベッドの傍らに立っているか座っているか、ともかくベッドに横たわる人を見てばかりだったから、その天蓋になんて目はいかない。
けれど、ベッドに沈めば真っ先に見えるものがそれであるのは当然だ。
そうか、これがこの人がいつも目覚めてすぐに見る風景なのか。
だがその風景は、すぐに遮られる。
当の、この風景をいつも見ている人の身体で。
「ジョミー」
視界に広がったのは白皙の面と銀の髪、赤い瞳。
ジョミーをベッドに引きずり込んだ張本人。
いつもジョミーを優しく見守り、力強く導いてくれていた瞳が、今は揺れている。
迷っているのではない。熱に煽られるように、浮かされているように、赤い瞳に欲望を昇らせて。
初めて見るそれは、この清廉な人には不似合いなはずなのに、ひどくジョミーを納得させた。
赤は、命の色だ。人の中に等しく流れる色。
そんな色が、穏やかでばかりいていいはずがない。
投げ出していた両手を、上から押さえつけられた。体重を掛けるように拘束されたそれは、ベッドから降りることが滅多にないほどに衰弱した人の力とは思えなかった。
「どうか、逃げないでくれ」
締め付けられる痛みに、僅かに顔が歪んだ。
そんな風に捕まえなくても逃げたりしないのに。
恐らく、ジョミーが心の底から本当にこの状況を忌避して逃げようと試みれば、できないことはないだろう。
押さえつける力はまるで最後の灯火を燃え上がらせる蝋燭の火のように激しく強いが、この人とジョミーとでは元から力の差がある。ソルジャーとして戦い続けたと言っても、健康なジョミーとミュウのこの人では、根底の筋力の差はいかんともし難い。
サイオンによる拘束ならまだ上手く操れないジョミーを相手に有効だったに違いないが、彼がそれを使う気配はない。それともそれを使えないほど弱っているのだろうか。
いや、それならばこの手を押さえる力と矛盾する。この人にとって、力で押さえつけるよりサイオンで押さえつけるほうがどれほど楽で簡単なことか。
「君をずっと見守って、君にすべてを託してゆくことを願って……果たされたことに満足して、この身など朽ち果てるとよかったのに。なぜ人はこんなにも愚かなのだろう」
欲望を滲ませた瞳はジョミーを強く捉え、痛みを滲ませた声はジョミーの胸を突いた。
どうしてそんなことを言うのだろう。朽ち果てればよかっただなんて。
いやだ。
行かないで。
往かないで。
逝かないで。
そんな酷いことを、言わないで。
苦しいと心を零すこの人を抱き締めたかった。
いかないで、傍にいて。
けれどそれは、彼に両手を押さえられていて叶わない。
「なぜ僕はこんなにも愚かなのだ………醜い欲望を最後に抱き、消せもせず……」
寄せられた眉の下で、赤い瞳は眇められてその姿を少し隠す。
ゆっくりと、その秀麗な顔が降りてくる。
「君を、汚したいと渇望する」
薄く開いた唇に、吐息を飲み込まれた。
近すぎてぼやける白い顔に、あの赤い色が見えない。
こうするときは瞼を下ろすのかと気がついて、ジョミーは彼と同じように目を閉じた。
触れ合わせた唇は、少しずつ位置と角度を何度も変える。ジョミーの唇を柔らかく、激しく辿るその冷たい唇は、まるで何かを食んでいるようだった。
濡れた音を響かせる接触を、ジョミーはただ受け入れた。
ぬるりと唇を舐める舌にも僅かに身を震わせただけで、それが侵入を試みようとしていると気付くとすぐに唇を開ける。
ところが、侵入を許したことで当の本人が驚いたように身を起こした。
「ジョミー?」
「なに?」
どうしたのだろう、ぼくの中に入りたかったのではなかったのか。
呼ばれて目を開けると、少し離れてしまった白面。
赤い瞳は、今度こそ驚愕で揺れていた。
「どうして抵抗をしない?」
「抵抗?あなたに?どうして」
おかしなことを言う。逃げないでと言ったのは彼なのに、ジョミーが逃げないことに驚いている。
問い返されて、彼は余計に困惑したようだ。
「………もし君が勘違いしているようだと困るから……言っておくが、これはソルジャーに必要な試練でも行動でもない」
「わかってるよ?」
きょとんとして問い返すと、深い溜息が落とされた。
その吐息がジョミーの唇を少し掠める。
「これは僕個人の、酷く醜い欲望だ。君を汚したいと。それでも抵抗しないのか」
「でもこれは、あなたがぼくにくれるものでしょう?」
軽く首を傾げると、赤い瞳は再び困惑に揺れた。
「ぼくにくれるものでしょう?ぼくはあなたがくれるものは、全部欲しい。想いも、願いも、希望も、苦しみも、悲しみも、痛みも」
唯一つを除いて、すべて欲しい。
「これが汚れることだというのなら、ぼくはあなたに汚されたい」
醜い欲望をくれるというのなら、こんなに嬉しいことはない。
この人の優しさは慈しみは、この船にいるミュウのすべてがもらったもの。
彼はこの欲望を、最後に抱いたと言った。ならばこれはジョミーだけが受け取れるものだ。
「ジョミー……」
欲しいと言ったのに、彼の人の顔はますます痛みを抱いたように歪められ、唇を噛み締める。
「僕はどこまで愚かなのだ。無垢な君にすべてを強要した。その結果がこれなのか」
したいことをして欲しいと願ったのに、それが彼を傷つけてしまったらしい。
どうすればいいのだろう。悲しみなど抱いて欲しくないのに、どうすれば、この人に笑ってもらえるだろう。
「君の柔軟な心が僕たちミュウを受け入れてくれたと、ずっとそんなむしのいいことを考えていた……けれど……僕はただ、君に享受することを強要しただけなのか……?」
「それはいけないのことなの?」
ジョミーは大切な人のすべてが欲しいだけだ。くれるというものは、すべて。
何も取り零したくない。唯一つを除いて。
真っ直ぐな問いに、彼は酷く困惑して、そうして溜息をついた。
「よいことでは、ないね」
ただ諾々と受け入れることは間違っているのだと言われて、ジョミーはベッドに倒されてから初めて痛みで泣きそうになった。この人を失望させてしまったのだろうか。
「君は、嫌なことは嫌だと思い、それを自らの心として抱き続けられる強さがある。自らが信じたものを信じ抜く強さが……なのに僕は、それを潰そうとしているのかもしれない」
「わからない。ぼくはちっとも嫌じゃない。あなたがくれるものなら何でも欲しい。あなたがしたいことをしてくれるなら、それが嬉しい。それでもいけないことなの?」
「それは君がしたいことなのではないだろう?僕が与えるものだから何でも欲しいというのは、僕のために思ったことで、君が本当に自分で欲したものではない……」
「わからない。ぼくはあなたが欲しいだけなのに。それはぼくが欲しいものなのに」
嫌なことを彼のために我慢して、この人の願いだからと受け取ろうとしたわけではない。
すべて欲しいと願うことは、そんなにも間違っているのだろうか。
彼はジョミーの言葉に驚いたように目を見開き、そして苦笑を滲ませた。
「この体勢で、そんなことを言っては別の意味に聞える。この先に僕がしようとしたことを具体的に理解できないのなら、そんな風に言ってはいけないよ」
「……あなたを欲しいと言っては、いけないの?」
彼はジョミーの良いところとして、願いを抱き続けられることだと言ったのに、願いを口にしてはいけないのだと矛盾したことを言う。
「いけない。男を、相手を煽る言葉だ。君が僕のしようとしたことを理解して、それが欲しいのでなければ……僕が願うから叶えたくて欲しいというだけのことなら、それは言ってはいけない」
「あなたが何をしたかったのか、教えてくれなくちゃ理解できない。だってぼくは、だれかとこんな風に口をつけたり、ベッドに転がったりしたことないもの。この先があるなら、この先もあなたの手で教えて」
「ジョミー……それでは事が成ってしまう」
「それが何かわからないのに、嫌なことかどうかなんてわからないじゃないかっ!」
ジョミーが嫌だと感じることなのかそうでないのかわからなければ、彼の言ったことは最初から矛盾する。嫌がっていないのなら受け入れてなにが悪いというのだ。
そうしてジョミーは、彼がくれるものなら嫌だと思わない自信がある。
「……言い方が悪かった。君が自ら欲していないのなら、していいことではない」
「ぼくは欲しいって、何度も言ってる」
「それは『僕が与えること』だからだろう?君が自らしたいと思ったことではなくて、僕の願いに反応した欲しい、だ。君の自発的な欲じゃない」
彼は疲れたように息を吐いて、ジョミーの上からのいてしまった。拘束されていた両手がとうとう自由になる。
「僕は君を、僕のすべてを受け入れるだけの受動機にしたいわけではない」
吐き捨てられた言葉には強い憤りが滲んでいて、ジョミーは言葉を失った。
失望された。
少しずつだが、今ではリオやフィシスや子供たち以外の人たちからも受け入れられ始めていて、この船の中のジョミーの世界は、もうこの人だけで作られてはいない。
それでも、一番に思う人は彼のことで、この人に嫌われてはここにいる意味の半分をもぎ取られたようなものだ。
どうすればよかったのだろう。どうすれば、この人を失望させなかっただろう。
だって、欲しいのに。
この人がくれるものなら、唯一つを除いてすべてが欲しいのに。
痛みも苦しみも、すべて欲しかったのに。
けれど終わりだ。この人を失望させてしまったのなら、もう彼はジョミーにすべてをくれはしないだろう。
痛みも、苦しみも、悲しみも。
彼がジョミーにくれるものは、もう一つしか残されていない。
唯一つ、それだけは欲しくなかったもの。


この世界に置いていかれる、深い慟哭。






お話TOP



ジョミーは自分が失望されたと思っているけれど、
ブルーが失望したのはブルー自身に対して。
ブルーはジョミーがただ受け入れているだけだと思っているけど、
ある意味ではブルーよりずっと相手を渇望していた。
という、お互いに勘違いしている話。