「僕だってこの三百年の間、一度も地球へのこの渇望を、おかしいと思わなかったわけではないのだよ?」 「そうなんですか?」 あまりにも意外な言葉に、ジョミーはもたれていたベッドから身体を起こして振り返った。 今日もサイオンの訓練が上手くいかなかったと落ち込んでいたジョミーは、最初は情けなくてブルーの顔を見れないと(でもここにいたいとも)、ベッドにもたれて顔を見せなかったのだが、思いもよらない話に興味を惹かれたらしい。 ベッドに起き上がり枕をクッション代わりに腰の後ろに入れて座っていたブルーは、目を瞬く愛しい子供に優しく微笑んでおいでと手招きをする。 話は聞きたいけれど、まだ失敗のことを気にしているジョミーはほんの少しだけ、ブルーとの距離を詰めた。 床からはまだ腰を上げてくれないジョミーに、ブルーは苦笑して話を続ける。 「正しくは、おかしいと思ったというより……そう思いたかったのかもしれないな」 「え……?」 「地球へ行くことは、我らミュウの生きる道を問うことでもある。その点において地球を目指すことは、目的と手段が合致したものだから切望するのは当然だ。そうではなくて、僕らはまだ胎児にもならぬ卵の状態で既に地球への望郷を刷り込まれている。そう思うとときどき堪らなくなった」 ブルーは当時を思い出して緩やかに苦笑を漏らした。それはとうに過ぎた疑問で、今はもう疑うこともない。だがそう思うと耐え切れなくなった頃は、確かに存在した。 「どうしてですか?」 「僕は地球に焦がれた。フィシスの見せてくれる美しい地球の姿に、更にその思いを強くした。けれど遺伝子に刻まれた情報は、ユニヴァーサルによって植え付けられたものだ。ゴールとして地球を目指すのはいい。けれど望郷として焦がれることは、ユニヴァーサルの支配から逃れられていないのではないかと、そう疑った時期があったのだよ」 ジョミーにとっては突拍子もない話だったのか、大きな飴を喉に詰らせたかのような消化不良の表情で、けれど興味は更に惹かれたらしくまた少しだけ、ブルーとの距離を詰める。 「疑いたかったんだ。それは、ある種の絶望だ。だがもしもそれが真実なら、僕は僕の中に植え付けられた支配に打ち勝てば、この渇望から逃れられるのではないかと」 「……地球に行きたくなかったってこと?」 「そうではないよ。そうは一度も思ったことはない。地球への憧れは、僕の、僕らの希望でもあったから。暗く先の見えない道に立たされたときの、たったひとつの灯火だった。だがそれがあまりにも遠く、果たされる糸口さえ掴めずにいると飢えに苦しむ時期がある」 「だから地球に、憧れたくなくなった?」 「ああ……それが的確な表現かな。憧れの地ではなく、目的の地でだけあれば、二重の飢えには苦しまずに済む」 ふと息をつくと、ベッドに投げ出していた手にジョミーが触れた。 触れた指先からジョミーの心が零れてくる。 辛い話をしているのではないかと、ブルーのことを心配している。 ジョミーの気遣いは的外れで、これはジョミーの気を少しでも軽くしようというだけの話だったのだが、人の心配をしていればその間は自分に対する気落ちを忘れられるだろうと敢えて訂正しなかった。 心配が深いほどに後で真実を知ればジョミーは怒るに違いないが。 「地球に憧れたくなくて、けれど焦がれて、どれほど否定したいと思っても、今度はそれ以上の強さで熱望する。想いが募るほどつらくなるというのに、それでも行きたい。それで僕は、これは憧れではなくて目的の達成を目指した義務感だと思い込むことにしてみた」 「上手くいったの?」 「答えは君が知っている」 もちろん、上手くいかなかった。今現在、どれほどブルーが地球に焦がれていることか。 それはジョミーが良く知っていることだ。 「ツァイガルニク効果という言葉を知っているかい?」 「ツァイ……?」 「ツァイガルニク効果。かつてひとりの心理学者が提唱した現象のことだ。人は達成されずに中断された事柄については、達成されたそれに比べて記憶を保持するという現象」 ジョミーは目を瞬きながら、僅かに首を傾けた。口にも思念にも零していなくても、そんなものかと疑問に思ったことがその仕草だけでもわかってしまう。 「少し違う話だけど……ジョミーは失敗したことほど、よく覚えていたりしないかい?思い返せば悪いことばかりでもないのに、振り返って最初に思い出すことが失敗談だったりすることは?」 「……ある」 少しの間が空いたのは、今日の失敗を思い出したせいらしい。 そこから気を逸らすための話だったのにと、それこそ失敗を思ってブルーは少し急いて話を進めた。 「それは次に失敗しないための心理的働きとも言える。自分に緊張を持たせているんだ。さっき言った現象もそう。中断されたことに対しては、目的達成の緊張が持続する。だから記憶に残ると言う話だ。僕はこの文献を見つけたとき、これだと思った。僕の憧れが地球から目を逸らせないのは、行きたいのではなくて、行かなくてはならないのにたどり着けないせいだと」 ジョミーは目を瞬いて、また少しブルーににじり寄った。疑問が生じたのだろう。 「それだと、別の理由付けは成功してない?」 「ジョミー、それは焦った僕が強引につけた理由に過ぎない。真実ではない。そんな逃げはすぐに綻ぶものだ」 「逃げ」 「フィシスに地球の姿を見せてもらえばすぐにぼろの出る逃げだ。記憶の保持だけで泣きたくなるほど胸が締め付けられると思うかい?」 ブルーが嘆息すると、ジョミーは更にブルーににじり寄った。もう枕元だ。 「それで、あなたはどうしたの?」 「開き直った」 恐る恐ると、気遣いながら訊ねたジョミーに対して、答えはいっそ呆れるくらいにさっぱりとしていた。ジョミーが唖然とするのも無理はない。 ブルーは苦笑しながら、それまで手を握ってくれていたジョミーの手を握り返して軽く引いた。 引かれるままに腰を浮かしたジョミーに、空いているほうの手を伸ばしてベッドの端を叩いて座るようにと示す。 床に座り直すのもおかしなことかと思ったらしく、今度はジョミーも素直にベッドに腰掛けた。 「だってそうだろう。僕は一応他に理由を求めはしたんだ。だがどれほど考えても、これはやはり憧れだよ。ところでジョミー、君は誰かを好きになることには常に理由なんて必要だと思うかい?」 「え?えーと……絶対っていうことはないんじゃない?」 「そう。憧れも同じだ。天地が引っ繰り返ろうと、地球は僕らすべての生きるものの産まれた地だ。もし理由がいるとすれば、それで十分だろう。遺伝子とか、ユニヴァーサルとか、記憶の保持とか、何を言っても無駄だ。これは僕らのここに刻まれている情熱だから」 掌を伸ばしてジョミーの左胸に手を置いた。 掌からジョミーの鼓動が伝わる。握り合った手からはジョミーの熱が。 愛しい、生きている証。 「だから僕は、存分に地球に憧れることにした。苦しくても切なくても、そうであることが僕が生きている証だ。心の赴くところに逆らわず、素直に焦がれた。苦しみは増したが、同時に楽にもなった。僕は地球に憧れてもいいのだ、と」 「最初に戻ったの?」 「うん、そうだ。いや、少し違う」 「どっちなのさ」 眉を寄せるジョミーに、ブルーは笑いをかみ殺して胸に置いた手を滑らせた。 「開き直ったと言っただろう。それは僕の心を少し強くした。欲しい物を欲しいと願うことは、人の原初の本能だ。苦しもうとも、それは恥ずべきことではない。だから僕は」 ジョミーの肩を抱き、その細い身体を抱き寄せて。 「堂々と君を欲した」 いきなりのことに目を白黒させていたジョミーは、抱き寄せられるままにブルーの腕の中に落ちた。その身体を強く抱き締める。 「開き直った者がどれほど図太いか、君は良く知っているね?」 耳元でそう囁くと、ジョミーは頬を染めてブルーの胸に手をついた。 「いつの間にか違う話になってない!?」 「そうかな?」 「そうだよ!」 照れて突っぱねようとするジョミーに、その肩を抱く手に力を込めて、その耳元でそっと呟く。 「先ほどの話はね、実はハーレイたちも知らない」 逃げようとしていた身体は、ぴたりと動きを止める。 「僕が地球から憧れを捨てようとしているなんて、そんなことを他の者に知られては大変だ。そう信じて、僕は疑問に苦しんでいたときも、開き直った後も、誰にもこの話は漏らしていない」 「………ふーん」 興味がなさそうに呟いたジョミーは、けれどブルーから逃れようとすることを止めて、逆に両腕をブルーの背中に回してぎゅっと服を握り締めた。 達成された事象に対して、緊張感が持続されないなんて、そればかりではないだろう。 ブルーは腕の中の愛し子の熱に心地良く目を閉じて、かつて逃げようとした答えを笑った。 なぜなら、この心はかつて切望したジョミーを傍に置いても、ジョミーの十四年を鮮やかに覚えている。 今、このときと同じく。 |
地球に憧れないブルーなんて、と思わなくもないのですが、 長い人生一回くらいは疑問に思ってもおかしくないかなーと。 フィシスは五十年前にシャングリラにきたので、そう考えると 割と最近の話ですね(三百年の長さで考えるなら^^;) |