「ハーレイ、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
今朝ブルーに連れ去られた子供は、ハーレイの危惧に反して廊下で行き会うと元気な様子で手を振って駆け寄ってきた。
リオの言うとおり、さすがのブルーも何の知識もない子供相手に騙くらかして骨の髄まで美味しく頂くなんて事はしなかったらしい。幸いなことだ。
その無事を心の中で喜びつつ、ハーレイはジョミーが近付くのを待った。
「頼みとは?」
まず第一に個人的な用事だとはあまり考えていなかった。
第二に、そうだとしてもこの丸きり真っ白なカンバスは、今朝の一件ですっかり青色で染め上げられていただろうと思ってもいた。
油断していたことは、確かだ。まさか染められ過ぎているとは思いもしなかった。
「あのさ、ブルーに教わったことを、次に教えてもらえるまでにもう一度確認しておきたいんだけど、協力してくれる?」
「それは熱心だな」
「だって、すっごく疲れるんだ。何回も教わるほうがつらいから、次で一発合格できればなって思って」
肩を竦めて見せたジョミーは、けれどそれから少しだけ視線を落として、恥ずかしそうに爪先で廊下を蹴った。
「それに、よくできたねって、ブルーに誉めてもらいたいし……」
ブルーを慕う様子は、大層微笑ましい。
この時点でハーレイは、その『確認しておきたい事項』が今朝と繋がるなんて欠片ほども思っていなかった。疲れるというからには、思念の細かなコントロールなどのジョミーの苦手分野なのかと想像するくらいのものだ。
なので、どこに誰がいるとも知れない場所で、無防備に訊ねてしまった。
「それで、一体なんの復習かね」
「えっとね、ブルーは自慰って言ってた」
補聴器が壊れたのだろうか。
声が聞こえないのではなくて、違う言葉に変換されるとは一体どういう壊れ方だ。
思わずハーレイは補聴器を外して意味もなく振ってみる。本当に壊れて聞こえなくなっていたとして、そんなことでは修理できない。
ジョミーはそんな唐突な行為に目を瞬いて、可愛くちょこんと首を傾げた。
「ハーレイ?補聴器がどうかした?」
補聴器を外していたので聞こえ辛くはあったけれど、その口の動きでジョミーの言った言葉は理解できる。
「すまない、ジョミー。補聴器の調子がおかしいようだ。その話はなかったということで……」
「え、待ってよハーレイ」
片手を上げて、その場を立ち去ろうとしたハーレイの服をジョミーが慌てたように引っ張った。
「ブルーがリオに教わっちゃダメって言うんだ。こういうのを女性に教わるわけにはいかないしさ、ハーレイしか頼れないんだ」
「ソルジャーは『リオ』が駄目と言ったのか!?違うだろう、誰でも駄目だと言った筈だ!君は私を殺す気か!?」
「黙ってれば分かんないよ!協力してってばっ」
「何を黙っていれば分からないって?」
背後から聞こえた声に、ジョミーもハーレイも同時に飛び上がった。
後ろでジョミーは慌てて振り返ったようだが、彼の人との付き合いが長い上にジョミーのように優しくはしてもらえないハーレイは、到底振り返る気になれない。
私は被害者です。何も知りません、話だってを持ち掛けられたばかりです、断るつもりでした。
ハーレイは黙って思念を響かせる。それはもう、わんわんと耳鳴りがするほどに響かせる。
補聴器をつけていないハーレイの耳に、はっと嘲笑が聞こえた。
思念波だ。思念波でまるで肉声が聞こえたかのように語りかけてきている。
『こんなに愛らしいジョミーの頼みを断ろうとしたことは評価しよう。僕ならまず無理だ。懇切丁寧に一から十まで手を取り腰を取り、上から下まで撫で回して教え込む。だから断ったことはいい。だが君は、なぜジョミーを思い止まらせる説得を試みなかった?』
『はあ!?』
『君が逃げたとて、それで他の者を頼っては意味がないだろう!そこは僕の言葉に従い、僕とだけレッスンするように説得するべきところだろう!』
そんな話、知ったことか!
まるで世の真理だと言わんばかりの言いがかりに、ハーレイは心の中で叫んだ。いっそ魂の叫びと言ってもよいほどに。
『……ほう、知ったことかとはいい度胸だ』
一段低くなった声色に、ハーレイはびくりと肩を震わせる。
心の中で叫んだつもりだったのに、思念波でやり取りしていたことが災いした。漏れたのか、抉じ開けて聞き取られたのかは知らないが、今確実に逆鱗に触れてしまった。
「ジョミー、今は行きなさい。今から君はすることがあるだろう」
「わ、私も職務があります!」
ソルジャー候補生としての忙しい一日が始まるジョミーを送り出そうする言葉に、ハーレイは挙手をして自己主張をする。
だが後ろの魔人はハーレイの訴えを頭から無視した。
「だが、今夜は必ず僕の部屋に来なさい。いいね?」
「……ブルー……怒ってる?」
そんなことを聞けるとは勇者だ、ジョミー。
聞くまでもなく腸を煮えくり返らせているに決まっているだろう!
「少し」
控え目なんてものではない表現だ。
「僕の講義はそんなに嫌だったのかい?いけないと言ったのに、誰かに頼って少しでも早くこなせるようになろうと思うくらいに」
「違うよ!そうじゃなくて……」
言い淀むジョミーに、しばらく沈黙が降りた。
ブルーの意識がジョミーに向いている間に、少しでも逃げられないかとすり足で徐々に移動を始めていたハーレイは、ジョミーの真意に思わず壁に懐く羽目になる。
「だって……すごく疲れることだから……ブルーに何度も無理させたくないんだ……。上手く出来たら、ブルーも何度も教えなくていいでしょう?」
「ジョミー……」
やろうとしたことはともかく、その気遣いそのものには喜色を隠し切れない晴れ晴れした声に、ハーレイは勝手にやっていてくれという気分になる。
何故この二人は、こうも人を巻き込むのだ。
「いいかいジョミー。これは僕にとって、疲れるどころか活力になることだ」
「うそだ……」
「嘘じゃない。先ほど僕は憔悴していたかい?むしろ元気になっていただろう?」
それは、それこそ一部は元気になるでしょうね。
ハーレイは心の中で品のないツッコミを入れながら、その場をそっと後にしようと足音を忍ばせる。
「これは本当に、とてもとても大切なことだ。だから君にはすべて僕が教えたい。他の誰かに譲るほうが、僕は焦燥で胸を焦がすだろう。苦しくてたまらなくなる。分かってくれ、ジョミー」
「ブルー……」
きっと後ろでジョミーが頷いた。ブルーはその肩を抱き寄せているだろう。
さあ、丸く収まった。後は知らない。たとえ幼い子供が老獪な男の毒牙に掛かろうと、喜んで掛かるのだからいいではないか。
さすがに自らの危険に直面すると、ハーレイも自己保身に走る。
それに、ブルーからどんなことをされたって、そこに愛があり通じ合っているのなら、ジョミーが悲しむことはないだろう。
ああ、リオ。君は正しい。まったく正しい。
勝手にやってくれと、十分に距離を稼いだところでハーレイは脱兎の如く走り出した。
どれだけ遠くに逃げようと、ブルーにはテレポートという手段があるということを失念したまま。






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どこまでも巻き込まれる人。