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5/14 20周年

2017年5月14日に、当サイトも20周年を迎えました。

正確に5月14日に公開を始めたのかというと実はあんまり自信が無かったりしますし、作業ディレクトリの作成日が1997年5月14日になっていたのでその日をホームページ作成の起点としていたと記憶しているのですが、Quadruple Dのドキュメントによると5月16日に「ホームページが完成した」という旨が書いてありますから、5月16日が公開開始日なのかもしれません。しかし、それはQuadruple D本部についての公開日なのかもしれません。ただ、過去の独りごとを読み返すと5月14日が当サイトの開始というような事が繰り返し書かれていますから、きっと5月14日がホームページの公開日なのでしょう。

最近は本業の方も落ち着いてこちらの手入れなどもぼちぼちできる状態ですし、読んでくれている人もほぼいませんが、折角なので走馬灯のように20年を振り返ってみましょうか。

そんなわけで誰が得するのかわからないのですが、タイトル画像で振り返る、20年です。

あ、サムネイルをクリックしても大きい画像になったりはしません。Webスペースの容量の都合もありますが、あまり古い絵は原寸でしげしげと見られるとさすがに恥ずかしいので……


零代目 : 1997年5月14日頃公開

周波数を指定して模様を描くプログラムをDelphiで作って、それを使って生成した模様です。現在のように1枚の絵をタイトル画像として決まった領域にドンと置くスタイルではなく、背景にタイリングされていました。なので、これはタイトル画像扱いとはしてません。

元々このサイトはQuadrupleDを公開するためのサイトとして開設され、先に述べたようにとりあえずホームページだけ公開した日から2日後の5月16日にQuadplue D本部が公開されたのかなぁ。今ではDirectXどころDelphi自体からも遠のいてしまいましたが……

後輩のADDICTさんにHTMLエディタとしてNetscape3 Goldの使用を勧められて、喜んで使っていました。NN4が一般的になっても起動が早いし軽快な編集が出来るという事でGoldを愛用していました。ADDICTさんは以降、事あるごとにお祝いに楽曲をプレゼントしてくれたりしてました。ありがとう。


初代 : 1997年6月2日公開

Photoshopの使い方を覚えてはしゃいで描きました。まだElectrical Fireworksというサイト名は考えてなかったのと、大学のWebサーバで学部生紹介的なページからリンクされる形で公開していたので本名丸出しです。

Shi3Zさんの開設されていたDirectX Fort. Tokyoとリンクしていただいたり、ネットを介して爆発的に知り合いが増えていきました。

この頃はICQが良く使われていたような気がします。OSもWindows95で、自作のプログラムで配列の範囲外にアクセスしたり変な引数を付けてAPIを呼び出すとOSごとクラッシュしてレジストリも破壊などが日常茶飯事で、2週間に1回はOSの再インストールをしていましたっけ。Windows2000が来るまでそんな有様でしたから良く耐えた物です。


二代目 : 1997年6月12日公開

少し改造してみたというより野暮ったくなっただけですが、これもサイトの更新の一環と考えていました。500アクセスを記念して。

卒論のテーマがDirectXと無関係なことをぼやいていたようです。


三代目 : 1997年7月上旬頃公開

Electrical Fireworksというサイト名が決まったようです。タイトル画像に各ページへのリンクを入れるようなスタイルにしました。画像が読み込まれるまで各コンテンツに飛べないのでお世辞にもいいやり方とは言えないのですが、後々にもこのスタイルが現れます。

センスの欠片もない絵になってしまってますが、当時いかにテンションが高かったか分かります。ひとりごちにTic-Tac-Toeで遊べるJavaScriptを仕込んだりして遊んでいたようです。


四代目 : 1997年9月頃公開

火花器を使って生成した火花を取り入れてみました。現在のOSでは動かない火花器が未だに公開され続けているのですが、これもWPFに移植したいなあと思いつつ、今風のインターフェイスにすると火花器っぽくないしなぁ……と色々考えては実行に移せません。しかし、思い入れのあるソフトだし公開停止する理由も無いのでそのまま置かれています。

この頃、TOWNSフリコレ時代からファンであった夜目新聞さんとメールで色々やり取りさせていただいてまして、4000アクセス記念の時にも一枚イラストを描いていただいたりして大喜びしてました。氏も今や熟練のアーティストとして日本のアニメーション業界を支えていらっしゃいます。

アクセスカウンタのキリ番にこだわる文化があった事、覚えてますか?このサイトも65536アクセスまでは割合にキリ番ごとに大はしゃぎしておりました。


五代目 : 1998年2月頃公開

10000アクセス記念として作りました。

黒田Dycoonさんやかみやんさんなどネットを初めてから知り合った方々はもちろん、大学の同期や後輩や、かつてのアルバイト先の方など色んな方から祝っていただいて嬉しかったことを覚えています。

QuadrupleDに関して海外からもお問い合わせを頂くことが稀に起こるようになりました。英語版作ってよという要望もあったのですが、この通り英語は苦手なものでして……と対応できずじまいになってしまいました。今にして思えば、自分から海外のDelphi,DirectXコミュニティにも乗り込んでいったらさぞ楽しかっただろうなあと思います。


六代目 : 1998年5月末頃公開

20000アクセス記念及び移転に伴って作成しました。引っ越しをイメージして一枚。誤字が含まれているのですが、大会というより大きな絵を描くぞという意図も込められていたのです、本当ですよ?

自宅からでもインターネットに参加(当時はまだ「ネットを使う」というより「ネットに参加する」という意識が皆あった気がしますが、そろそろそういった意識も薄れ始めた頃だったように思います)できるようにとdolphin internetと契約し、そちらにWebスペースも移しました。2017年現在ではISPのWebスペースを使うというのはあまり一般的ではないかもしれませんが、当時はWebスペースの容量やCGI/SSIの使用の可・不可もISP選びの決め手になっていたものです。

3月にはShi3Zさんの呼びかけで第一回3D野郎大会が開催され、その熱も冷めやらぬ中、ExtremeShootersの作成も進めていた頃でした。今思うと短期間に物凄く色々詰まっていた時期でしたね。3D野郎大会は当初はBio_100%の掲示板に入り浸っていた人々で呑み会やろうぜという話から、折角集まるなら場所とPC用意して普段作ってる物とか見せ合おうぜとなって発足された物で、初回は40人程集まってそれほど広くない部屋でやっていたのですが、デモの間は常時歓声やら質問やらが飛び交って非常に活気がありました。


七代目 : 1998年9月頃公開

QuadrupleDのDirectPlay対応をしたり3DNow!で遊んだり、そして10月末には第二回3D野郎大会が開催されました。100人ほどの参加者の方々が集まり、前回より少しばかり緊張してプレゼンしてました。3D野郎大会でお会いした様々な人たちは、本当にギラギラと眩しく、今もそれぞれの道で大きな仕事をなさっていて羨ましいです。

文句なしに一番人気の高いデモをやったのは金子勇さんでした。サービス精神旺盛で陽気な金子さんのデモの間中、場は湧きっぱなしでしたね、しかし彼は……素晴らしい才能と人格を兼ね備えた方でした。惜しい方を亡くしたと思います。氏の訃報を聞いた時ほど世の理不尽を恨んだことはありません。そして、そんな金子さんの弁護のため奔走していた方の事も僕は忘れません。彼らの尽力により無知は啓かれ、金子さんは元より無罪であると証明されたのです。彼らの功績は技術史の観点からも特筆すべき物だと今更ながらに思います。

3D野郎大会に2回とも参加し、拙いながらもデモをやらせて頂いたのは、一生の思い出です。主催のShi3ZさんやBio_100%の方々をはじめとする、あの場に居合わせた皆さんに今でも感謝しています。


八代目 : 1999年1月3日公開

この少し前から独りごとの内容が長文化する事が多くなり、それが気になったため、それまで一ヵ月分を1つのhtmlファイルにまとめていたのを一日分につき1つずつhtmlファイルを作るようにしました。それに伴って「独りごと」ではなく「独りごち」になりました。更新するのが若干面倒になりましたが当時はテンションが高かったので全く気にしていませんでした。

Ko-Taさんや爆裂プログラマンさん、MoonlightさんといったDelphi,Quadruple Dつながりの強力な知人が増えて、DelphiによるDirectXプログラミングの地平が広がっていくのを実感していました。

2月にDirectX related Shareware/freeware Developpers Awardを日本Microsoftより頂きまして、ただ貰うだけでは芸が無いと思って、一本小粒なプレゼンもしてきました。しかし、折角賞を頂いたのにそれ以降この分野で大した仕事をしていなくてすみません……


九代目 : 1999年3月28日公開

気分転換でもしようと絵のネタも思いつかないのに無理やり作ってみました。以前に作ったものの寄せ集め素材で作ったのでリサイクルマークをモチーフにしています。

爆裂工房さんによるGEOの連載が始まり、毎号楽しみにしていました。後に爆裂プログラマンさんと爆裂お兄さんがコミケで東京にいらした時に直接お会いした事がありますが、お二人とも陽気な方々でゲーム作りへの情熱と才気が漲っていて、大いにエネルギーを貰った記憶があります。

この頃からホームページの画像とリンクを分離したりしなかったりするようになりました。


十代目 : 1999年6月25日公開

Javaアプレットによる初の「動くタイトル画像」です。フィードバックと(2Dの)ディスプレースメントマップだけでゴリ押ししていますが当時のWebに張り付けて出来るモノとしては頑張ったと思います……

JavaのJITコンパイラはパフォーマンス的に結構信頼できる、という事はkomplexのgodogを見て良く理解できたので、Webブラウザ上で動いて見せられる物を僕も作ってみたいと思って作りました。

7月に65536アクセスを達成し、色んな方々からお祝いを頂きました。これが本当に大きな励みになりました。


十一代目 : 1999年9月17日公開

二つ目の「動くタイトル画像」です。秋を感じさせる色合いに。

この前日にCEDECで物理エンジン事始めとしてのパーティクルシステムについての話をやってきました。点より扱いが簡単な物は思いつかなかったので質点によるパーティクルシミュは恰好の材料だろうと。まだ若かりし僕がジーンズにリュック姿で講師室を探していたら「何か御用ですか?」と怪しがられました……

これから訪れる物理演算でノンリニア破壊(当時そんな言葉あったかなぁ)ボリボリ時代に備えて物理をやろうぜ!というつもりでしたが、いかんせん内容が簡単すぎたしデモもショボすぎたのでウケが悪かった気がします。幸運にもShi3Zさんの、当時まさに旬のテクノロジであったリアルタイムネットワークゲームについての実装の話と抱き合わせになる形で時間を半分ずつ頂いたので席は埋まったのですが、3D野郎大会とは全く異質のノリで緊張しすぎてしまい、あまり良く話ができず落胆して帰宅したのを覚えています。Shi3Zさんすみません。


十二代目 : 2000年3月1日公開

今回も動きます。春になって浮かれた調子を表現していました。今回もパーティクルネタです。ローレンツ力を計算してパーティクルの軌道を曲げるのが楽しかったです。Javaでインラインアセンブラ使えたらMMXとか使えるのに、とクソミソな事を考えていました。

1999年のいつごろからか、宮沢賢治作品をよく読むようになり、12月に当時青空文庫に収録されていた全作品を読了したようです。色彩感に溢れる宮沢賢治の世界は一度触れてみると離れられません。一般的な文学作品は基本的にモノクロの世界の中で登場人物たちの心理が光と影を作り、出来事が色を添えていくのに対して、宮沢賢治作品はきわめて物理重視であり、最初から色・光の洪水です。音や触覚や嗅覚までもが簡潔な文章の中にぎゅうぎゅうに圧縮されており、そのダイナミックレンジに圧倒され、筋書きとは無関係に感動するほどです。折角日本語を母国語にしているなら味わったり聴いたりしてみる事をお勧めします。「インドラの網」などいかがでしょう?長編の物語としては未完の作品ですが「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」が楽しいですよ。

さて、この後、九州へ転居して、長い長い独居生活が始まります。料理はそれなりに上手くなりました。


十三代目 : 2000年4月19日公開

転居に伴ってISPが変わるとWebサイトのURLも変わるというのは当時珍しい話ではなく、僕もそのようにしていました。

多忙になってきたため、サイトの更新頻度が大幅に下がり始めました。

2000年代に入るといわゆるインターネット人口も増え始め、テレビ・ラジオでもたびたびインターネットについて言及されるようになりました。「インターネットを自由に操る」といった不思議な言葉も公共の電波に飛び交っておりました。この頃はISPへの接続はテレホーダイを使って夜11時以降にだけインターネットにアクセスしてました。僕もテレホマンだったのです。毎日聞いていたモデムのピーガーと言う音も21世紀に入ると聞かなくなっちゃいましたね。


十四代目 : 2000年9月11日公開

大学の同期や先輩たちが中心になって創作活動をしていた同人サークル「ぼとむらいん」に顔を出して即売会に出す作品を手伝ったりしていました。このタイトル画像は大学の同期であった瑞也さんのイラストをフィーチャーして作ったJavaアプレットです。

同人文化には以前から興味があったのですが、実際に足を踏み入れてみると本当にエキサイティングで面白い物でした。


十五代目 : 2001年1月18日公開

ぼとむらいんより冬コミに参加後に作成。

冬コミ作品は好評だったようで、皆で頑張った甲斐があったと思います。いわゆるCG集だったのですがショーケースとなるアプリケーションの作成を担当しました。

淡々とした日々が流れ、Diablo2にハマって時間を無駄にしていました。


十六代目 : 2001年5月25日公開

今回からしばらく(15年ほど)動かないタイトル画像になりました。

大体この辺りまでが割合まともに活動していた時期と言えそうな気がします。8月にEzWeb専用サイトも実験的に開いてほったらかしにするなどもしてましたね……あの時公開していたJ2EE用ベンチマークプログラムは時々雑誌で使われたりしていてほっこりしました。

8月に第二回XFCが行われ、SuCaさんの勧めで参加させていただきました。手軽なランドスケープエンジンについてのお話を持っていきました。当時すでにPS/VSがこれから重要な位置を占めるテクノロジになるだろうと言われ、GPGPU時代の到来も囁かれる世の中に時代錯誤なプレゼンをしてしまい、もう既に私は門外漢であると公衆の面前で告白したような体裁になってしまいました。折角お誘いいただいたのに申し訳なかったです。後輩であるADDICTさんの修論作品の方が目立ったから良かったとしましょう!


十七代目 : 2005年3月6日公開

4年ぶりのタイトル画像更新となりました。暗い画像になってしまいましたが、実際鬱々とした日々を送っていました。

2002年頃からプログラミングの意欲が湧かなくなっており、年1回くらいの更新ペースに陥っていました。Quadruple DはびんぢさんにCVSの使用を勧められた時点ですぐオープンソース化しておけば良かったと今更後悔しています。しかし当時はCVSの使用方法を覚えるだけの気力すら無かったのでした。MLを立ち上げてくださったFalconさん達にも本当に失礼な事をしてしまいました。

2010年頃までKo-TaさんやひらにょんさんUOXさんといったDelphiつながりの方々から時々見舞われるようにMSNなどでお便りを頂いたりして、励まされました。実は結構助けられていたのです。


十八代目 : 2007年2月27日公開

九州から去る目途が立ったのでタイトル画像の更新のすぐ後、現在のサーバーである西院ネットワークスへ引っ越します。

2007年は割合に更新が多かった気がします。東方シリーズの二次創作作品を中途半端な形ですが作ったり、久々にプログラミングを楽しんでいました。ビリーズブートキャンプもはじめましたっけ。今でもやってますよ!


十九代目 : 2007年11月7日公開

5~6年ほど使っていたCRTが故障してしまい、LCDを購入しました。10年続けていた黒ベースで白字というのが実は目に痛い事が分かってしまったため、サイトの配色を白ベースにした事に伴って作成しました。

ひらにょんさんのHellsinker.が完成、発売されるなど嬉しいニュースも舞い込みました。Hellsinker.オンリーイベントも2回開催されたという事で懐の深い世界観や独特の表現は多くのファンを獲得した事と思います。僕もファンの一人です。


二十代目 : 2008年5月29日公開

転居して半年ほどが経ち、割合落ち着いた時期に一枚。

雨が多く梅雨が近づいているのが分かり、どんよりした絵になってしまいました。Windowsサイドバーのガジェットをちまちま作ったりするも、すぐ飽きてました。今はサイドバーガジェットの枠組み自体無くなってしまいましたね。


二十一代目 : 2009年6月10日公開

HvidtFeldt氏の作品であるStructureSynthを使って作成。

iPhoneを購入してApple文化に触れることになり、色々と刺激を受ける日々でした。

2012年からfacebookを始め、facebookで身内向けにGLSLで作った画像なぞを貼っていました。現在はほとんど投稿はしておりません。

iPhoneの登場以降、スマートフォンの普及に伴ってインターネット人口が爆発的に増えた事を実感するようになりました。田舎の鉄道に乗っても車内に1人、2人とスマホいじりに没頭する人が増えていきました。TVでもコンソール向けゲームよりもモバイル向けゲームのCMが多く見られるようになり、時代が変わった事を肌で感じられるようになったと思います。

そんな田舎の鉄道に乗って、よく銚子の漁港に出かけていく時期がありました。泊まっている漁船を眺めながら海沿いの道を散歩して、入ったことのない店で昼ご飯を食べて、美味しそうな干物をぶら下げて家に戻る頃には昼下がり、昼寝をしてから下手糞なピアノを弾いたりという感じで、プログラミングからは離れてのんびり暮らしていました。


二十二代目 : 2016年1月27日公開

6年半ぶりのタイトル画像です。

6年半の間に実に様々な出来事がありましたが、このサイトとは関係が無いので呑みに行ったときにでも語りますから、誰か奢ってください。

2011年にiOS熱が高まってMacを購入したものの、COCOAにどうも馴染めなかった事や、整然としたApple文化より混沌として猥雑なWindows文化が恋しくなったためWindowsに軸足を戻しました。完全に浦島太郎状態になっており、VisualStudioCommunityも無料化という事でDelphiからC#に移ることを決めました。

XAMLで簡単なアニメーションを作れることに嬉しくなり、これはHTML5ならば……と思ってこの絵を作成してみました。何気にベクターグラフィックスを採用した現状唯一のタイトル画像です。

夜目新聞さんの許諾を得て公開していた「金の魚・銀の魚」をはじめとして多くの作品を公開停止とする運びとなったのは残念でした。


二十三代目 : 2017年3月10日公開

やっと、現在のタイトル画像です。

WebGLが本格的に普及したと判断し、本業も落ち着いてきたということでWebGLを用いて動くタイトル画像を作ってみました。以前に書いたとおり、当初はHTML5Canvasのみでやるつもりでしたが、どうにも満足いくものが出来なかったのでWebGLに手を出してみたわけです。

WebGLはOpenGLを母体としているため僕から見ても非常に古臭いのですが触り甲斐があり、世界にはWebGLやGLSLを使って様々な面白い事をしている方々がいる事も知りました。抽象的な数学上の概念を見ることが出来る、動かして触れる事が出来る、あるいはコードや数式を絵筆として思いのままに絵を描く、そういう事にロマンを感じる向きには非常に面白い世の中になったと実感しています。


そして、これから

さて、いかがでしたか。読んでくれている人も居ないとは思うのですが、暇つぶしにでもなれば幸いです。淡々と画像を貼って、一言二言コメントが入ればいいかなと思っていたのですが、折々の昔話などを入れていたら結構長くなってしまいました。ご活躍中の方について誤解を与えかねない表現などについてはなるべく配慮したつもりですが、掲示板の方で突っ込んでいただければ削除すべき箇所は削除いたしますし、訂正すべき箇所は訂正します。

タイトル画像はこんな感じで大した出来でもないのにいちいち保存しているあたり僕自身としてはそれぞれに思い入れがあるのですが、特にテーマがあったり表現しようとした物があったりという具体的な事柄に希薄で、「抽象画ですか?」と言われると「いや、何からも捨象してませんが……」と答えるしかない、画像は画像なのです。クラシック音楽ですとタイトルなどのように「楽曲自体のほかに解釈を与える要素」が無い作品というのが多く、絶対音楽と呼ばれるわけですが、そういう意味では僕のは抽象画ではなく絶対画像としか言えない物が多い気がします。そもそも手描きのデッサンからはじめた絵が18代目の画像しかないですし、3Dモデリングを少しやった6代目の画像や瑞也さんの絵を使わせていただいた15代目を除けばGenerative Artに含まれるんでしょうかね、これは?

今後の20年どころか10年でも全く想像がつかないのですが、CGの分野で言うと量子コンピュータが一般に降りてくるようになり、量子GPUが現在の「古典的」GPUくらいの値段で販売されるようになったり、量子iGPUで必要十分なパワーを賄えるようになってリアルタイムでパストレーシングやボリュームレンダリングを行うのが定番になったりするでしょう。量子コンピュータの計算の原理を考えると現在の電子回路によるコンピュータでおおまかなフロー制御や入出力を行って、並列計算がパワーを発揮する場面のみ量子コプロセッサ(古い言い方だ……)を呼び出して使うような感じになるかもしれませんし、そういった計算機を手元のモバイル端末からクラウド経由で呼び出して計算だけさせてリアルタイムで結果の表示が出来るようになるのかもしれません。と、いうようなことを端末のロックを解除した時の指の動きや脈拍などから人工知能が推測して先回りしてやってくれるはずです。「さ、ご主人様、ドラクエは代わりにりゅうおうを倒しておきましたよ、ロトの装備も揃えて経験値もゴールドもカンストさせました。仕事してください……あ、仕事も私がしちゃってました、これが成果ですがいかかですか?はい、コーヒーですね、煎れときますよ」というような感じでひとつ。そんな世の中になるまで、せめて長生きがしたいですね。 ともかく、現在のポリゴンで物体を表現する手法も数年後には「なんだ、ワイヤーフレームに絵を貼れるようにしただけか」と言われるのでしょう。曲面を扱うとなるとプログラマには更に数学的知識が必要になってきますから、プログラマ諸氏には英語と数学の知識が今以上に身に付くと思います。羨ましい!




Hayase Taku(SANDMAN)

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