■□ 聖職者の葛藤 □■
×ロクス ED後
1
2
すべてが終わろうと、何もかもが元通りに戻るはずなどない。
争乱の爪痕がそこかしこに残ったのは天使が降りたアルカヤも例外ではなく、地上に降ろされた幼く未熟な天使の力では争乱を止めるのが精いっぱいだった。
「…その時は精いっぱいやったつもりだったけど、こうして落ち着いて見てみたらひどいですね……。」
「もっと自分に力があったら、なんて言うなよ?
君がいなければ僕らは滅びを待つだけだったんだ。まあ生きてるだけでもうけたと思わないと。」
軍事大国が踏みならし無惨に焼けてしまった無人の村を悲痛な面持ちで見ている天使様に、癒しの手を持つ祝福されし聖職者殿がその立場にあるまじき軽口を叩く。険しい道を歩いているふたりは巡礼者のようなもので、戻る聖都を失った教皇候補はまずは己の罪を少しでも雪いでから身の振り方を考えたい、と以前の彼からは考えられないほど殊勝なことを望み、美しい少女を伴い戦争の跡残る地を歩き続けている。
闇が払われ天に戻ることが約束されていた聖なる存在は、彼女だけを守るためだけに戦いたいと望んだ不実な聖職者殿の望みを受け入れて、その純白の翼を天に返した。
信徒の血と汗と涙である布施を浪費した自分はもう教皇の座には登れない、それでも求められればそれが己の運命と割り切って、権力と崇拝だけを浴びて教皇の座におさまらず、自分が見て嫌悪した連中と同じにならずに済んだ、たとえ茨道が延々と続こうとひとりでも歩くのが己の罪に対する贖罪と腹をくくっていた彼の元に、思わせぶりな元天使が再び舞い降りたから――――その姿に我を忘れていた、ロクスは子どものように腕をいっぱいに伸ばして彼女を抱き留めた。
彼女を抱きしめた瞬間、その翼が消えたことはおそらく一生忘れられないことだろう。
しかしそんな個のささやかな幸福など吹き飛ばしてしまうほどに世界は傷ついてしまった。爪痕はそこかしこに残り、ロクスが足を向けた先では彼だけではどうにもできないほどに傷ついた人がいる。
それでも少しでも浪費したものを返せればと彼は唇を結んで恨み言は軽口に変えてその手で人を癒すのだけれど、その柔和で優美ですらあった横顔は少しやつれてしまった。
「僕は今の状況に悲観も何もしてない。あのままおとなしくさせられて教皇になったとしてもあいつらと同類になっただけのことだろうけど、今の僕は少しはましになっただろうからな。
ここぞとばかりに聖都に戻されたら君とも引き離されただろうし、なにより聖職者に色恋沙汰は厳禁だし。
今の方が縛られた贅沢よりずっといいよ。」
けれどやつれながらも彼の口調は実に晴れ晴れとしていて、あのやさぐれてひねくれていたロクスだというのは間違いないんだけど、すべてを拒むような頑なさを笑顔で隠すようなことはなくなった。ちらりと隣を歩いているシルマリルに視線を移して微笑んで、それ以上何かを言うこともない。
その様子は幸せな恋人同士のやりとり以外の何ものでもなかった。
「お、まだ女がいたぜ。つか坊主の女連れたぁ世も末だな。
坊主殺しちゃたたられるってからな、女置いて失せな優男。」
下品な笑い声と数人ばかりの人の気配にロクスがとっさに身構える。この荒廃した現状で野盗は珍しいものではなくて、むしろ増えたかも知れないぐらい。思わずシルマリルを背に身構えたロクスだったけど、この手合い以上に嫌な連中と渡り合ってきた彼が野盗ごときで恐れるはずもなくて――――すぐに構えをといてあの嘲笑を人前で浮かべ、負けず劣らず柄の悪い切り返しをその口から切り出した。
「世も末なのはお前らだ、芸のない登場しやがって。
その様子じゃこの村を荒らしてこうしたのもお前らってところか?」
「だったらどうだってんだ?
この村の連中よりゃいい扱いしてやるってんだ、女で済むんだからとっとと逃げろって親切に忠告してるんだけどな、坊さん。」
「じゃあ親切ついでにひとつ教えてくれないか?
お前らはこれで全員か、それとも別にねぐらがあってお前らは下っ端とか。」
「なにィ!?」
「まあ片づけないことにはどうにもならないみたいなのは間違いなさそうだしな。
シルマリル、君は下がってろ。」
この坊主は彼らの言うとおり、いやそれ以上の破戒僧。信仰の対象、象徴でもある十字をかたどる杖で人を殴ることに躊躇など覚えない。それが大事なシルマリルを守るためというのなら躊躇するどころかすすんで殴るあたりはまったく変わっていなくて、野盗ごときがかなうような相手でもない。
なんと言っても現在でもエクレシア教国の次期教皇、お飾りの偶像などではなく彼は信徒を守るだけの力すら持つ神の僕。優男には間違いないが意外なことにグローサインの騎士を相手にしても引けを取らなかったほどの腕自慢でもある。
飛びかかってきた野蛮な連中多数を相手にしてもしっかりと腰を落とし、簡素な十字架だけを装飾にした細い杖を構えると、ロクスは彼らが間合いに入るなりに杖を大きく振り回した。一点に向かい集中した力は対処次第で一度に受け流すことが出来る、ロクスの杖のひと振りでならず者がふたり吹き飛んだ。
「優男相手に喧嘩売って吹き飛ばされましたっていい笑いのタネになるな。
まさかもう終わりじゃないだろ? 僕だってそんなこと思ってもいないのに。」
「こ、コイツ………!?」
「ロクス、そのくらいにしてください。
帝国の騎士を相手にしても引き下がらなかったあなたです、こんな所で力を誇示する必要は」
にやにやと楽しげに、人が悪い笑いを浮かべているロクスを小声でシルマリルがたしなめる。しかしならず者達が彼女のその言葉を最後まで聞く必要はなくて――――それだけ帝国の悪名と権力は誰もが忘れることかなわないほどに轟いていて、まさかいかにも柔和で優美ですらある聖職者が彼らを相手取っていたとは誰が思い及ぼうか?
帝国の騎士に楯突くことがおろか以前の話だというのに、それを相手にしていた男に楯突くことがどれほど愚かかぐらいは誰でも、幼子でも察しぐらいはつくだろう。
それほどに、瓦解同然とは言え帝国の名は恐怖の対象であり、戦闘に長けた騎士を相手にして見劣りしなかった聖職者と聞けば、それはただの坊主でないのは当然だろう。控えめな十字架にだまされそうになったならず者達はすでに腰が退けている。
「…壊滅させられたこの村には同情以上のものを感じはするが、しかしお前らを殺しても恨みは晴れないし村も元には戻らないだろう。
僕は見ての通り僧侶だ、無為な殺生はきつく戒められている。…僕が僧侶だったことに感謝するんだな。」
ずいぶん遠回しで歯にものが挟まったような物言いだけど、ロクスは好戦的な性格でもないし戒律で縛られる立場にはかわりはない。思うことは多々あれども力を誇示する男でないことは、おそらくシルマリルは彼以上に知っている。
だから、彼を信じている。しかし彼は人間味ある聖職者でもあるから……
「さっさと行け!」
珍しいロクスの一喝をきっかけにして、ならず者達は捨て台詞を吐くことすら忘れてばたばたと背を向け逃げていった。シルマリルの心配は懸念で終わり、聖職者たる彼が必要以上の殺生をすることにならず胸を撫で下ろす。
確かにもっとも大きな災厄は去った、けれどこうして小さな火種は残り常に力を持たぬ者が理不尽にも苦痛を引き受けるばかり。
そんな光景ばかりを目の当たりにしてロクスは歯ぎしりしてばかり。
以前は天使、聖なる存在として迷える僕たる彼をそっと諭していたシルマリルだけれど、今翼を失い非力な存在となり彼に守られてばかりいるようになり、彼の表情の変化に何も返せないことも多くなった。
この大地は清浄なる彼女には少々息苦しい。
「あんなことがあったが、村が見つかってよかった。
僕は慣れたものだが君に野宿はさせたくないからな。」
それでも頼りに縁にして己という存在を預けると決めたロクスは少し意地悪だけど優しくて、その言葉の端々に無意識の甘さを覗かせながら力を失った天使を大事にしてくれる。
彼は信仰を集める対象としてうってつけの天使を欲した布教に熱心な聖職者ではなくてただの若い男性で、シルマリルをもっとも大事な存在として大切にしている。
聖職者は他の旅人とは違い他者の警戒心をほぐすというか、集落には必ずいるだろう信心深い者が失礼にならぬようにともてなしを用意する。ロクスはいつもそれを断り宿を探すようにしているのだけれど、結局彼の掌に宿る力は隠しきれないようになっているらしく、立ち寄った先で一仕事しては旅を続けるに困らないくらいの布施を渡されては困惑するばかり。
浪費した布施を少しでも返したくての放浪の身なのに、重ねて布施を差し出されては意味がない、それが彼の言い分。いつも差し出された布施に頭を下げて感謝して受け取るのはシルマリルの役目になった。
「…法衣を脱ぎたいのは山々だけど、なんだか名残惜しくて脱げないのが情けない……まだこだわっているんだろうな。」
「いいえ。今までの自分を捨てられないのは当たり前の話です。
あなたの力で助かる人がたくさんいるなんてすばらしいことではありませんか、ロクス?」
「やれやれ、甘やかさないでくれよ。
ただでさえ君には逆らえないんだ、これ以上自惚れるのはさすがに問題だろう?」
「今のあなたは自分に厳しいくらいです。少し気持ちを楽にした方が…」
「今までが甘すぎたし、バランスを取らないと。
じゃ、僕は少し村を歩いてくる。昼間の奴らの話もあるし、危険な村なら朝を待たずに引き払う必要もあるだろうしな。」
「あ、ロクス」
「君とは明日散歩することにするよ。それまでは宿から出るなよ。」
そしてこのやりとりもいつもと変わらない。ロクスはまず逗留する集落の様子をひとりでうかがい安全だと確認してからシルマリルを連れ出す。それまでは彼女の外出を許そうとしないしシルマリルも逆らいこっそり出かけることもない。
どんなに厚い包衣で隠そうと細い金色の髪はこぼれて流れるし白い肌を隠すことも困難で、くわえて僧侶という信仰と尊敬は集めても非力なことが多い自分の立場で女連れという道行きには苦労も多い。
昼間のあれが最たるもので、今だってロクスは単身で散歩を装った偵察に出かけてしまった。
彼はシルマリル可愛さのあまり、残される者の心細さにまでは気が回らないらしい。
シルマリルは天使の頃には見せなかった仕草を見せるようになり、今も出かけたロクスの言い残した言葉を律儀に守り部屋から出る様子を見せずに、しかし思うことは山ほどあって小さな体を広くないベッドに投げ出してうつぶせに横たわるとやり場のなさそうなため息をひとつこぼした。
大事にされていることはわかっているから文句は言えない。けれどどこかが、何かが遠い。
「お客さん、ちょっといいですか?」
「あ、は、はい! …どうぞ。」
すねているところに突然聞こえたノックと呼びかけにシルマリルが飛び起きると、宿に入る時に見かけた女将が遠慮がちに部屋を覗きながら扉を開けた。
中にいるのはシルマリルひとりだったことになにやら思ったのだろうか、それとも女同士の気易さだろうか。体格のいい中年の女性はシルマリルににっこりと笑いかけると部屋の中へと入ってきた。
「お坊さんは出かけたのかい?」
「は、はい。」
「まぁそれにしてもきれいなお坊さんが来たと思ったら、こんな可愛い奥さん連れだもの。
そうよねぇ聖都のお坊さんじゃないんだし、よく見たらいい年みたいだし奥さんいても不思議じゃないわよねぇ。」
『奥さん』の呼びかけにシルマリルが明らかに困惑する。シルマリルはまだ清らかなままだし、ロクスと共に生きて行く覚悟で翼を返したとは言えまだまだあどけないばかり。
ロクスも一度だけ唇を求めただけで、何を思ってそうするのか男と女の意味では指一本触れようとはしない。天使とその勇者というあの頃の距離感そのままの関係のままで人間になった彼女がその不自然さに感情の均衡を崩しそうになっていることを、ロクスはおろか彼女自身さえ気づいてなかった。
「ねぇあんた、お坊さんに婚礼の立会人をお願いしたいんだけどって伝えておくれ。
こんなご時世だけど好きあって一緒になりたいって若い人が村にいるんだけど、盛大には出来なくても神様の祝福ぐらい受けさせてやりたいって村中で話してたのよ。
そしたら今日のお客さん、いかにも徳の高そうなお坊さんじゃないの。
神様っているもんだねぇってうちの人と話してたのよ。」
「…は、い……ロクスには、確かに伝えます…。」
シルマリルの困惑はおさまるどころか大きくなるばかり。単純に好きだという気持ちだけを抱えて翼を返すなどと大それたことをしてまでロクスの元へと身を寄せたけれど、それが何を意味するのかを彼女は知らなさすぎる。
しかし彼女らの事情など知るはずもない女将はシルマリルの言葉に満足したのだろう、さらににっこりと笑うと彼女の小さな手を力強く握って、そして部屋を出ていった。
ロクスが戻って来るには、おそらくまだ時間がかかるだろう。
続きを読む