■□ ささやかな悩み □■ ×ロクス ED後


「シルマリル、足下は大丈夫か?」
 流離いの身というのも手に職さえあれば悪いものではない。
あの戦乱が終結した後、教皇候補という大それた立場を持ちながらもその放蕩ぶりと軍事国家に蹂躙され戦火に晒され機能を失ったままの教皇庁というあまり楽観視できない現状を逆手にとって諸国を流離う次期教皇候補は、こともあろうか巡り会ってしまった生涯のただひとりとともに毎日あてどなく歩き続ける。
 これが聖都が機能し教皇という立場が必要とされたなら、彼は有無を言わさずに聖都に連れ戻され、彼の意志など無視されて次の教皇になるための日々に放り出されることだろう。当然神の僕が、辺境の牧師や流浪の僧侶が伴侶を伴うのとは違い教皇ともあろう立場のものが妻女を娶ることなど、その教義が許さない。
ずいぶんと狭量な神だとロクスも思うんだけど、三つ子の魂百までとはこのことか、宗教を捨てることだけは出来ずにいる。しかしそれと同じに、ただひとりと決めた女性も諦められない。
「君には不便な生活だろうが、よく文句も言わず僕についてきてくれてるなと思ってるよ。
 …悪いな、僕が僧侶だったばっかりに。」
 反発心からの放蕩三昧の日々とはまるで別人のように、たったひとりと決めた彼女には驚くほど素直な言葉も口にし表向きではない思いやりも見せるようになった。
彼がそこまで配慮をするのもまた当たり前というか、厚いフードで顔を隠した彼の連れはその差し出した手は細く白く、全体的に頼りないほどに小柄な女性。
長身でも大柄とまではいかないロクスとともにいるとまるで子どものようですらある。
険しい山道を今日の進路に選んだロクスは悪路によろめく彼女の足下がやはり心配で、なにも返していない彼女なのに、彼も何も言わずに男性にしては細い手を差し出した。
「ありがとう、ロクス。」
「なーに。そこに見えてる峠を越えれば砦の中の街がある。
 そこまで行ければ今日はゆっくり休めるからな。君が歩けないと言うんだったら負ぶってでも行くだけさ。」
「大丈夫です。思っていたよりも歩きやすいですから。」
 贅沢と放蕩に明け暮れたろくでなしなのに、まさか女ひとりでこんなに自分が変わってしまうだなんて当のロクスが一番信じられないんだけど、そっと彼を頼りに差し出された手を取り引いて急な山道を歩くこの瞬間がなぜか満たされていて、もう昔には戻りたくないと思ってしまう。
彼女が現れたことで自分はろくでなしではなくなった。
 ならば、宗教の追っ手からほとぼりが冷めるまで逃げ続けよう。
幸い彼に追っ手をかけるだけの連中は、今その余力は持たない。
逃亡劇とはいえ余裕がない状況でもない、少々懐が心許ない旅だと思えば納得できる。
ロクスはさして不安も不自由も感じていなかった。



 あれから小一時間もしないうちに砦の中の街にたどり着いた。
栄華を誇った帝国との国境付近の街で、交易の中継地点でもあり以前は野盗が出ることも多かったから堅固な砦に繋がった。威圧感がある外壁の門をくぐれば中のにぎわいは相当のもので、そこここに飛び交う威勢のいい声は騒々しいんだけどどこかほっとするものがあった。
「わあ、にぎやかですね。」
「そうだな。治安の良さと外敵の心配がない砦の中だという安心感がこれだけのにぎわいに繋がっているんだろう。
 ここなら様子を見る必要もなさそうだな、宿を取ったら街をひとまわりしようか?」
「はい!」
 ただの喧噪が猜疑心の塊だった男の警戒心さえほぐしたらしい。ロクスは笑いながらシルマリルにそう切り出し、シルマリルも嬉しそうにうなずいた。
 ある日を境に、ロクスの警戒心の度合いが変わった。
それまではたとえ過去行ったことのある土地だろうとまずは自分の目で現状を確かめて、シルマリルの外出は安全を確認できるまで許さない。頭ごなしの命令で口にするのではないけれど彼の慎重さは間違ってないと言うことを理解してしまったシルマリルが逆らえるはずもなく、さびしいことを我慢して宿でひとり待つばかり。
シルマリルもはじめのうちは宿にいる者と話したりして紛らわしていたがそのうちにふさぎ込むようになり、しかしその場にいないロクスはそのことを知らない。そんな日々がしばらく続いた。
けれどある町で、シルマリルのことをはっきりと口に出して「奥さん」と、ロクスの伴侶と見て話しかけてきた町人の存在をきっかけに、ロクスはそれまで曖昧に濁していた自分の感情を表に出し、「まだ早い」と自制し続けた理性を踏みつけにして清らかな少女だった元天使の少女を女にした。
けれど体の重なりはそれっきり、それでもロクスの優しさの質は明らかに変わった。
がんじがらめの安全ではなくともにある危険を、それから自分が守ると言う覚悟が明らかに強まったようにシルマリルには見えた。
シルマリルもその覚悟に応えたい、広い背中を守るに足りるようになりたいと思うのだけど、神の加護を失った自分に何が出来るのかまだわからなくて、ロクスの荷物としての自分に悩んでいることはともにいる彼にも感じて取れるほどに明らかだった。
「シルマリル。」
「はい?」
「今いくら持ってる?」
 何を思いそう問いかけたのか、ロクスがいきなり現実的かつ逃げられない話を口にする。その問いにシルマリルはなぜか大きく肩を跳ねて一瞬考え込み、そして返した答えはこうだった。
「えーと…半月ぐらいなら何とか暮らして行けるぐらいはー…」
「…君はさすが元天使だ、嘘をつくのが感心するほど下手だな。」
「な、何を根拠に」
「君が僕の代わりに差し出された寄付を受け取っていることを知らない僕だと思ったのか?
 …元天使の君に、あんなに頭を下げさせるなんて僕のわがままもたいがいだよな……。」
「い、いいえロクス! 浪費した分の金銭がどこから出ているかを思えばこれ以上受け取れないと言うあなたの覚悟はわかっているつもりです。
 でも、差し出された寄付はお金でもあるけどあの方々の気持ちだと思うと…気持ちを断ることは私には…」

「…ありがとう。君はいつも僕のプライドを大事にしてくれてるな。
 苦労かけてる、すまない。」

 出逢った時、破戒僧もこれほどかとまで堕落していた頃から、彼は誰でも、シルマリル以外なら簡単にだませるほどに柔和で穏やかな物腰が優美ですらあった。その彼が右目に傷を刻まれたとはいえその容姿が翳るほどでもなく、最低限ではあるが素直にもなった。
今もシルマリルの「へそくり」の実状とその理由を聞いての返事は微笑みとねぎらいの言葉で、世の亭主諸君が酔ってようやく口にしそうなそれも無理かもと言った具合の台詞を、ロクスは照れくさそうに口にした。
「ロクス…」
 そして新妻のシルマリルの表情は想像するまでもない。頼りにして不安だらけの中でそれでも彼を信じてすべての特権を手放した彼女だけど、それを後悔しないぐらいに彼に気持ちを預けている。
「なにかあったら私に言って下さいね。
 お金のことでしたら、あなたが思う以上に持っていることは間違いないと思います。
 もちろんお金の出自に見合うような使い方かということも考えますから、そのつもりで。」
「…厳しいことで。
 まあ今までの僕からしてそうしてくれた方がいいってのは間違いないだろうがな。
 頼りにしてるぞ、シルマリル。」
「はい!」
 彼女は自分が思うほど役立たずではない。少なくともロクスにとって自分のやりたいことを通すためにはひとりでは不安だらけなんてものじゃなくて、そこに大事なシルマリルが手を貸していることは何にも代え難く心強い。
 すべて雑踏を歩きながらの雑談に過ぎず人混みの喧噪にかき消されそうなんだけど、それでもこれはこれで幸せだとふたりとも思うようになっていた。



 それでも、たった一度の「交渉」ではどうにもならないずれが出てくる。
ロクスは聖職者だけど破戒僧で女を知っていて、シルマリルはそんな彼に女にされたばかり。シルマリルは初めてだったこともあり、愛しているただひとりとはいえ男を受け入れるにはまだ青すぎてロクスの肌を恋しがることはないけれど、ロクスは違う。
シルマリルは年齢的に彼の守備範囲外らしいが、彼女を伴侶と決めてから他の女性に手を出せるはずもなくて、しかしあどけないシルマリルの感情を無視することもまた出来ずにいる。
彼女を抱いていくつの夜いくつの朝を迎えただろう? 思い出したくても記憶があやふやになり始めたのは彼が不実な男だから。彼女にはとても言えないけど他の女と混同し始めた部分もある。
しかしシルマリルはゆうべの出来事のように鮮明に覚えているから、宿を取り夜が来るたびに今夜もしかしたら、と身構えてばかりいる。
ロクスは彼の後に入浴をしに行ったシルマリルがいない時間、己の欲望との折り合いをつけるべく厳しい顔で思案に沈んでいた。相当の生臭坊主だしなにより若い男だし、ベッドに腰掛け今夜も自分をしずめていつかすべてを許してくれるだろう幼い妻を待ちたい、んだけど――――
「あぁ無理だ! ったくなんであんなにシルマリルは子どもなんだ!!」
 考えれば考えるほど悪循環とはこのことだろう。ロクスはバリバリと頭をかきむしる。

「なにが無理なんですか?」

 そこへ戻ってきたシルマリル、ロクスはかつての彼のような厳しく毒のある視線で妻になった元上司をねめつける眼差しでちらりと見た。シルマリルは当然びくりと肩を跳ねて驚いたけど…それにしても無防備というか薄着というか、おそらく最低限の下着に寝間着を着ただけ、そう言わなくてもロクスにはわかるぐらいの薄着が彼をさらに盛り上げ…もとい、挑発した。
「君がほしいのを我慢するのが限界なんだよ。もう我慢するのは無理だ。」
「…じゃあ、私は…別に……嫌では……」
「嫌!? 僕に抱かれるのは嫌とか嫌じゃないとかそう言うレベルの話なんだ君の中では。
 嫌か嫌じゃないかにすぎなくて僕がほしいなんて思ってない」
「…だって…痛かったし……」
「…わかってるよ。僕だって16、7の小娘と寝たなんて、君じゃなければ気の迷いか夢でも見たのかとかそんな風に考えて片づけたいところだ。
 それでもあの晩はもう堪えるのが無理だったんだ。わかるだろう?僕は若い男なんだ。」
 あまりにも無防備な彼女の様子に逆に切れてしまったらしい、ロクスが怒ったみたいな表情で早口で不満をまくし立てる。彼は不満を募らせて爆発させてしまうと、その柔和な雰囲気からは想像もつかない悪口雑言を早口でまくし立てる癖があって、シルマリルも何度かその舌禍に晒されて純白の羽根を小さくし肩をすくめて怯えたこともある。
久しぶりの爆発に思わずシルマリルが昔のように、羽根はもうないけど小さな肩をすくめてしまったその様子にロクスが我に返り、しかしプライドが高く意地っ張りの彼はすぐに素直にはなれないらしくまだ何か言おうと開いた唇から、言葉にすり替えて深いため息をひとつ吐き出した。
「…ごめんなさい。」
「……悪い、君にわかってくれとか言ってもわかるはずないよな。言い過ぎた。」
「あ…私、は…ロクスになら、抱かれるのは…嫌、じゃない……
 そのっ、嫌じゃないというのは…ロクスなら、いいというか……」
「無理するな。泣きそうな顔でそんなこと言われちゃ何もできなくなるだろ。」
 体の芯はすっかり熱いんだけど、幼いシルマリルの様子を見ていると罪悪感が勝ってしまってロクスはふてくされるばかり。見掛けだけだろうと年かさの自分がいかにもわがままを言っているかのような錯覚を覚えて投げやりに拒むんだけど、さすがにあれだけ本音をぶつけられたシルマリルは彼の要求に応えないと、と思っている様子で――――寝間着の釦に手をかけ羞恥心がもつれさせる指先でぎこちなく外した。
そんな彼女の様子に、その姿にロクスは慌て思わず生唾を飲み込む。露になった胸の谷間は白く、しかしあの夜散らした紅い花びらはすっかり消えていてまるで夢でも、妄想でも見ていたかのよう。
 しかしロクスはシルマリルが釦を外した寝間着の袷に手をかけて…そっと合わせて胸の谷間を隠した。
「僕は先に休む。…おやすみ。」
 気まずいこの空気の中、彼女が服を脱いだからと喜ぶような彼ではない。
プライドの高い男は自分の欲望を箱に入れて縛り鍵を掛ける勢いで押さえつけて背を向け、自分の寝床に入り背中を向けたまま横たわった。
 その夜はそれっきり、ロクスが起きたり顔を見せたりすることはなかった。

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