■□ 瑠璃 □■
×ロクス   成人向け

  

 追い詰められた時に感じる強い誘惑は本能がもたらす錯覚だということぐらいわかっている。

 見上げるだけで生きる気力すら萎えてしまうほどの威圧感を放ちながら、古城は再び現れた。あんなものを目の当たりにしてここの住人はなんともないのか、と思ったロクスだったけれど、幼い天使はこともなげに
「私が普通の人には見えないのと同じにあの城も見えないのかもしれません。
 ただおそらく、かなりの重圧は感じているとは思いますが……」
……と実に説得力のある推測を返してくれた。
「……いい加減休んだらどうだ? どれだけ眺めても消えやしないよ。」
 湖上の古城を声もなく眺めてばかりいる幼い天使の小さな背中に、闇の中でも輝くような日差し色の髪にロクスは投げやりな言葉を投げかける。彼女の冷静さはその鷹揚さから来ているだけで、彼女自身は実にのんびりした少女の性格を持っている。
少女の性格――――苦手なものもあり、それを目の当たりにすれば顔色を変え、怯えもする。
それだけではなく彼女たち天使には触れてはならぬものというものが多数存在する。堕天使の魂が結晶化した魔石がそれを顕著に物語っていて、天使とその勇者だけに見えているだろう湖上のそれに、彼女が言葉を失うほどの恐怖を感じるのは不思議な話ではなかった。
 それは天使の勇者、教皇候補といえどただの青年に過ぎない彼も同じ。強大な敵に向かう道のりの中、勇ましく聞こえる声は腹をくくっているのではなく言葉のとおり投げやり、無謀にも伝説に語られるような存在相手に、たったふたり、人間風情と幼い天使だけで立ち向かおうとしている自分たちの無謀に向けての自嘲。
好きだと告げた女の前でいい格好を見せたくてロクスは「なんでもできる」と言ったけれど、その時はそのつもりでいたけれど、毎度のことながら物事を投げて見ている自分の浅はかさをまた悔いることとなった。
「泣いても笑っても僕らの命は明日でどうなるか決まる。
 だからって今、いつまでもあの城を眺めていてもしょうがないだろ。」
 暗くなり夜の帳が下りてからずっと、幼い天使は窓から城の影ばかり見ている。
その小さな背中に、動かない金の髪に何度も声をかけたロクスだけど、恐怖で凍りついた表情みたいに彼女の影も動かない。最初はなだめる声色が次第に焦れてささくれて、今では苛立ちが爆発しそうだった。
 いや違う。苛立っているのは彼女の態度が原因ではない。拭えぬ恐怖と圧迫感。
幼い天使は呆然と怯えているかのような背中ですべてを語るけれど、ロクスの多弁はただの強がりに過ぎない。
そこにある、それだけで放たれ続ける重圧はもはや瘴気であり、彼女が足がすくんだみたいに動かないのと同じに、ロクスはそんな彼女に八つ当たりをしているだけ。
「いい加減にしろよ、なるようにしかならないって何度言えば納得するんだ。」
 いつまでも湖上の影を眺めてばかりの天使に痺れを切らし、ロクスは彼女に歩み寄ると表情を覗き込むように隣に立ち窓を強くたたいた。しかしお決まりだろう言葉は続けられずに彼は唇を噛むばかり。
大声でびくんと肩をはねた少女の姿の天使様、その表情はやはり恐怖で固まっていた。
やっと我に返りロクスを見上げる青い瞳に感情は見えない。
「自分を信じろ」なんて矮小な人間風情が天使相手に言えるはずなどなく。
「頼りにしているお前がそんなでどうするんだ」などひとりの男として向き合った今となっては到底言えない。
「ふたりで立ち向かえば奇跡だって起こせる」なんて、信じても、思ってすらいないことなど、気休めにもならない。
何を頼りにすればいいのかわからない焦燥、得体の知れぬ底なしの恐怖、強くもたらされる死の実感――――こんなに追い詰められたことなど、結局のところ温室育ちのロクスにはない。
自分も怯えていることなど、当の自分が一番わかっている。
「……とにかく、僕の武器がないと君は戦えないし、君の手助けがないと僕だってまともに渡り合うどころか連中の前に立つことさえできっこない。
 僕らはふたりいて一人前なんだ。万全の準備が必要だってこと、君だってわかるだろ? だから早く休んで」
 それでも正論と思える言葉を口にし続けるロクスだけど、冷静さを装うには声が荒い。まくしたてる口調も追い詰められた彼が表に出す特徴だということを彼女が知らないほど浅いつきあいでもない。
「私の選択は正しかったのか、今でも自信がないんです……」
 けれど彼女もまた追い詰められていて、普段の彼女なら多少のことを受け流したりいろんなことを読んだりするけれど、今は己の恐怖と無謀と大切な存在を己の責務に巻き込んでしまった後悔で押しつぶされそうだった。
 ロクスは己の気持ちが変化したことを突きつけられて受け入れるより他に道がなくなり、人ではない彼女に己の恋心を打ち明けた。シルマリルは彼に切り出されるよりも先にそんな彼に恋慕の情を抱えていて、少し呆気にとられ……そして彼の告白を受け入れた。
そんな大切な存在を、命を投げ出させるほど過酷な、後のない最後の戦いを共にする相手として選んだ。それが最初から彼女に与えられた使命だから彼女は微塵も疑わないけど、彼は違う。
彼はシルマリルに選ばれた光栄に酔い、その時は恐怖心そっちのけで彼女の言葉にうなずいた。しかし少しずつ重圧に近づくにつれ己の軽薄な態度という現実を突きつけられて苛立ちを募らせ、明日には城に入れる前夜、この時に爆発してしまいそう。
「正しいか間違ってたかなんてやる前から言っても仕方ないだろ。」
 ロクスはそんな自分を、恐怖心を正論を口にすることで落ち着けようと試みてばかりいるけど、恐怖が上回りそれが言葉に出てしまう。

「私は結局奪う側です、あなたの命まで差し出させてしまいました……でも今なら」

 天使シルマリルの言葉は最後まで続かなかった。ロクスが再び、先ほどより強く拳で壁を叩き、その音と厳しい怒りの表情で彼女は言葉を飲み込んだ。
「つまらないことを言うんじゃない。
 僕は勝手に君の望みをかなえたがってこうしてるだけだ。たとえ僕が死んだとしても君には何の責任も」
「そんな簡単に死ぬとか言わないでください!」
 鷹揚でのんびりしているシルマリルの激しい口調に、今度はロクスが言葉を飲み込んだ。
「私たちと違いあなたたち人間は肉体が喪われたら……あなた私になんと言ったか忘れたんですか?
 あなたの言葉で舞い上がった私はからかわれただけだったのですか!」
「シルマリル」
「私はあなたの、私の大事なみんなの住むアルカヤを守りたいんです!
 あなたと引き換えにしか救えないのなら私はいったいどうすればっ」
 お互いにお互いの言葉尻をつぶしあう不毛。それを断ち切ったのはロクスだった。
人間より現実が見えている、絶望に押しつぶされそうなシルマリルの小さな体を長い腕が強く強く抱きしめ大きなため息を吐いた。
ひとりで立つことで押しつぶされるかもしれなくても、ふたりでいれば耐えられるかもしれない、駄目かも知れない。
 かもしれない。
 かもしれない。
……どちらに転ぶかわからない。今目の前にある現実しかない。
「……ロクス…………」
 抱きしめる腕の中で、小さな体がふるえている。抱きしめられても抱き返さない無垢な存在の光り輝く美しさは見掛けだけで、中身は子どもより世間知らず。
そんな彼女の純粋さを逆手に取り悪い誘いをかけられなくなるほどロクスは彼女に惹かれてしまい、けれどこんな状況の中では男の本能も当然頭をもたげてくる。
 男として彼女を守り共に苦境に立ち向かいその期待に応えたい。
 嗚呼けれど。なにもかもを失う前に手にできるすべてに触れておきたい。
ロクスの中でせめぎあうふたつの望みが荒れ狂うのだけれど、
「彼女は純粋だから」
それを思い出してしまうと、そこから先は何もできなくなってしまう。
そう、彼女は人間ではない。信じることからはじめる無垢な存在。でも…………
「僕らは明日で終わるかもしれない。」
「……………………!」
「今の僕は最期を君と迎えるのなら本望だ。でも……」
 緩まない腕の感触にシルマリルが顔を上げる。
「君さえ嫌じゃなければ、君を知ってから悔いなく終わりたい。」
「え?」
 シルマリルの反射的な問いかけにロクスは言葉で返さず唇だけで答えた。そっと重ねた唇、だけどそこから先も、また進めない臆病な男。
本気で好きになった彼女の笑顔を大事にしたいからとそれに縛られてしまった。
「あの……ロクスっ」
 触れただけの唇で耳まで真っ赤になる純情な少女の姿の天使様に、己の名を呼ぶか細い声に、ロクスの中で男の本能が激しく揺れる。人間ではないという建前で自分をずっと押し殺してきた、彼女が人間の少女なら、彼女を愛した男としてロクスならば語彙の限りを尽くし口説いてベッドへ誘いたい。
それをしないため、彼女と己の役目を目の前にぶら下げてロクスは唇だけでこらえ続けてきた。
しかし明日がないかもしれないと思ったことで、突きつけられたことで思いが堰切ってあふれてしまい、もう元へは戻せない。
「君を抱きたい。君が天使だってことはわかってる、でも僕は男で君に女を感じてる。」
「え、でも」
「君の処女をいただいてからなら明日死のうとそれでもいい。
 髪の毛の最後の一本になろうと君の望みどおり使ってくれていい。……君を抱きたいんだ。」
「――――きゃ!?」
 一方的な恋慕の情だというのは百も承知。それでも彼女は受け入れてくれ、自分も彼女のためになるのなら死んでもいいと本気で思っている。
ロクスの唇が今まで触れなかった場所、シルマリルの耳に触れた。唐突な彼の行動にシルマリルが思わず黄色い悲鳴を短く挙げたけど、不実な唇は丸い耳に直に触れながら囁く言葉を止めない。
「愛してる。だから欲しくなるなんて勝手な言い分だってのはわかってる。
 でももうどうしようもないんだ。」
 熱っぽく囁きながらロクスの唇はその性格と同じに早口で畳み掛けてくる。
「君はちっとも自覚してないけど僕の知ってる限りこの世界で一番可愛い存在だと思ってるし、そんな君が無防備な姿を見せてるとなにかしてやりたいって思うのは男として当たり前の性欲なんだ。
 それでも君は人間の少女じゃないから、純粋だから無意識だからってずっとこらえ続けてた。けどとっくの昔に限界なんてちぎってたよ。
 夢の中じゃ何度君を抱いたかわからない。」
「い、今でもこうして抱きしめてるじゃないですかっ」
「そういう意味じゃない。押し倒して服を剥いで脚を開かせて」
「やめてっ!」
「後悔したくないんだ。君とひとつになりたい。君の純潔を奪うのは僕だ。
 それさえかなえてくれたなら僕は死んでもいい。
 君を守るため死に物狂いで戦う。引き換えに君のすべてを僕にくれ。
 くれないのなら……」
 少しかすれた早口の言葉が途切れたのと同時に、シルマリルのつま先が宙に浮いた。
そして直後大きなベッドに少し乱暴に放り投げられる。
「力ずくでも本懐を遂げさせてもらう。」
 言いながらロクスは法衣の襟の金具を外しわずかに開いた。この期に及んでシルマリルは少し怒った表情で、怖気づくこともなく不埒もの、罰当たりな破戒僧をにらみつけるみたいに見上げるばかり。
「力に物を言わせるのですか?」
「何とでも言ってくれていい。僕だって君がうなずいてくれるなんてこれっぽっちも思ってない、けど言っちまったもんを元には戻せないからな。
 本気で嫌なら、中途半端はなしだ。天使を犯そうとする罰当たりなんて殺すつもりでやれよ。」

「……死ぬことが前提なんですか?」

 問いかけばかりの天使の言葉がロクスに深々と突き立てられた。確信を見事に射抜いた彼女の言葉に、組み敷かれたまま抵抗を止めて見上げる青い瞳に、ロクスは言葉をなくした。
「失うことは覆されない運命ではないはずです。
 私は確かにあなたとともに死地に向かいます。肉体を持たない私とは違い、あなたは受けた痛手以上のダメージを受ける、それを知っていて……それでも私にはあなたしか選べませんでした。
 私はあなたと運命を共にしたいんです、死にたいわけではありません。」
 拘束の手が緩み、シルマリルはゆっくりと身を起こす。
「シルマリル……」
「あなたがすべての力を振り絞るために私という存在が必要なら……」
 そして細い首を飾っている装身具に触れ、指先が躊躇して――――天使の小さな体を包んでいる絹が、細い肩を滑り降りた。伏せた瞳に怯えを隠しきれないまま、シルマリルは豊かな胸元を両腕で抱えながらふるえる体を抱きしめる。
「それに応えるのも……私の役目、で……」
「……役目なら抱かれるって言うのか? 僕じゃなくても、そうすることが必要なら!」
「そんなわけないでしょう!!」
 激しい言葉の応酬、どちらも恐怖にふるえ、死に怯え、ロクスの種の保存の本能は激しい衝動となり表に出た。しかしそれは破滅を前提にした自暴自棄でもあって、愛してしまった人間風情に要求されていても途切れない時間を紡ぎ続ける天使がそれを肯定するわけにはいかない。
己の存在は生み出すために、語り継ぐために。
天使自らが破滅を認めては世界の理が大きく揺らぐ。
「私は……あなただから……戦えない私にできることはこのぐらいしかないから……あなたの力になるんだったら……っ……」
 押し潰されそうな恐怖とそれを認めてはならない重圧の狭間に置かれた天使様、その中身は怖がりな少女。ロクスは彼女の心臓の小ささを何度もからかっておきながら、肝心な時になると、自分が追い詰められるとそれを忘れてしまう。
 大切なのは、理由だった。天使の勇者が死に物狂いで戦うために、限界以上の力を一瞬だけだろうと振り絞るために彼女のすべてが必要だというのなら彼女には別の戸惑いが生まれただろうけど、今のロクスの望みはシルマリルを怯えさせ苦しめているだけ。
人間の女性だって同じで、いくら相思相愛だろうと自棄のように「お前が欲しい」なんていわれても、そこにあるのは困惑、不信、幻滅、そして恐怖。
余裕をなくしたロクスがいつも陥る状況が現れただけなのだけれど、その望みが今までとは違っていたからシルマリルはどうにもできずに怯えるばかり。
「……ごめん。僕はずいぶん勝手なことを言ってたな。」
 服を脱ごうとしている彼女の覚悟、ふるえている小さな体、見られまいとうつむく頬に浮かんでいる涙、ロクスはようやくそれに気づき、頬をそっと撫でて彼女の涙を拭った。
「泣くなよ……って、僕が泣かせたんだったな。ごめん。」
 ロクスが涙に濡れた頬を撫でる手でそっと包み込み、目を閉じながら顔を寄せて再び唇を合わせる。
「今さら言葉を変えても嘘くさいかもしれないけど、やっと目が覚めた気がする。
 僕は明日で死にはしない。すべてを終わらせて君と一緒に生きていく。」
 唇を外してベッドに倒れこみ、人間の男の唇は天使の柔肌に触れた。
「怖がらなくてもいい、天使の戒律がどれだけ厳しくても、君が天使でいるのは明日までだ。その後は人間として僕と一緒に生きてくれ。」
「………………はい。」
「僕の戒律がそれを許さないのなら法衣は脱ごう。
 簡単に捨てられるものじゃなくても、僕には君が必要なんだ。」
 重い戒律を背負うもの同士が惹かれあい愛しあい、すべてを捨てて破滅に立ち向かう。
襲い来る恐怖心を肌を重ねるぬくもりや本能がもたらす快楽で薄めて、最後の力を振り絞るためにロクスは愛した少女を欲しがった。
「私は……」
「ん?」
「あなたの力になるのですね……。」
 禁忌のはずの求愛に応えかみしめるみたいにつぶやき目を閉じる臆病な少女の姿の天使様の言葉に、彼女の下僕のロクスは男の顔で微笑んだ。
「……ああ。戦えないだなんてとんでもない、君は僕と違う力を持っているってだけだ。
 僕の力ですべてを終わらせられたなら、その後は君の優しさですべてを癒してくれ。
 今は使い道がなくて申し訳ないばかりだろうけど、天竜がいなくなったらむしろ君の独壇場だよ。僕の出番なんてなくなってしまう。」
「…………ロクス」
「愛してる。」
 彼女からその存在を含めたすべてを奪いたいと望んだ恋は終わりを告げ、彼女に与えられるものが残されている己をロクスは心底幸せに思った。彼女は平穏だけを望みそのまま天に戻ることも出来たのに、それが使命だっただろうに、茨道だとわかっているだろうに、天使シルマリルはその下僕に過ぎない人間の青年のロクスを選び身を任せようとしている。
豊かな胸を隠した細い腕の羞恥心を思いやりロクスがともるランプに手を伸ばしそれをそっと消すと、美しい日差し色の細い髪が夜の闇色ではなくもう少し明るい瑠璃色に染まり、白い肌まで蒼く染まる。
 すべてが夜の瑠璃色に染まる中、窓の向こうの古城だけが禍々しい漆黒の影として存在していた。

  

2008/11/23