■□ after… □■
×シーヴァス ED後 キス表現あり

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 貴族の当主というものは思われているよりも忙しい。
所領の視察、税の割合の決定、それだけでも労働量としてはかなりのもの。シーヴァスが背負ったフォルグガング家は名家でもあり、所領の広さは結構なものだった。本来領主である父はすでにないから、おのずとその仕事は若旦那のシーヴァスにまわってくる。
父と母を許さなかった祖父には思う所は在るんだけれど、騎士として育てられて家に背くことは大罪だと言う認識が植え付けられてしまっているから、彼は家を捨てることができなかった。
 そして今皮肉にも、後ろ盾をなくした愛する女性の存在を、疎ましくすらあった家柄が守っている。
過去シルマリルが天界からこの大地のために遣わされた天使だということはシーヴァスは微塵も疑っていないのだけれど、それが他者に通じるとは思えない。あまりにも壮大すぎるおとぎ話、大風呂敷。彼女を無条件に信じられるのは、彼女の勇者たちだけ。
彼女だけを守る勇者に名乗りを挙げたと言うのに、シーヴァスは守るどころかそばにいることすら出来ない日々を送っていた。
 そして、今夜も遅くにしか部屋には戻れなくて、そしていつものように愛する女性が眠る部屋の前で立ち止まってはドアノブに手をかける。しかしそれ以上のことはいつも出来なくて、また今夜も顔も見られぬままひとり冷たい寝床へと戻るしかないのだろうか?
愛しい女性の透き通る白い肌や日差し色に輝く髪、青い湖水の瞳をまともに見ていない日をまたいたずらに重ねるのか?
…意を決し、シーヴァスはつかんだドアノブをそっとまわした。休んでいるのならばそれでも構わない、せめて寝顔だけでもひとり寝の共にしたい。
 そっとドアを開けると、やはり明かりは消えていた。月明かりだけが彼女の部屋を満たす明かり、シーヴァスはそのあいまいな明かりだけを頼りに部屋の中へとすべりこんだ。

「シーヴァス?」

 しかし、彼は不意に投げかけられた呼びかけにびくりと肩を跳ねた。
「ずいぶん遅かったのですね。疲れていませんか?」
 素晴らしくできのいい鈴を転がすみたいな、耳に心地良い声。それも当然で、彼女だけでなく神の御使いという存在は様々な形で人間の理想形を成している。その中でもシルマリルと言う天使は金の髪の少女の完成形、その非の打ち所のない存在感で信仰を集める存在なのだから、声が素晴らしいのは当たり前だった。
しかし彼女自身は人とさほどかわりなくて、未熟な自分を感じ、迷い、時には責める。天使の頃からどこか頼りなさ気で放っておけなくて、それは人となった今でもまったくかわりなく彼女の性格として残っていた。
白い寝間着姿で自分のベッドに腰掛けていたらしく、何を思ってそうしていたのだろう?
シーヴァスは彼女が何を思っているのかばかりが気になってとっさに言葉を返せなかった。
「暗いでしょう、今明かりを」
「あ、いや…こんな時間に、私が勝手に忍び込んだのだから」
「うふふ、あなたのお得意な夜這い、ですか?」
「…手厳しいな。もと天使の口にする言葉じゃないだろう…。」
 天使にそんな言葉の使い道を教えてしまった不実な自分が、今では少々恥ずかしい。
シーヴァスはもと天使、今は16、7の少女にそんな言葉でからかわれてさすがに気まずさを隠せなかった。そんな彼に何を感じているのだろう、シルマリルは寝床の傍らに置かれた質素なランプにそっと火をともした。
たちまち部屋がほのかな明かりで照らされる。
明かりで彩られた愛しい女性の表情は記憶のままに微笑んでいて、シーヴァスは思わず息を呑んだ。
「今夜は満月です。とても月が大きかったので眺めていました。」
「…では私は邪魔をしたことになるのだな。」
「いいえ、シーヴァスは忙しいようなので、この月を見上げる時間もないと思うと…私には何もできることがないのが、少し悲しくて。」
「では明日から共に来たらどうだ? 君ならば私の仕事をすぐに飲み込めると思うが。」
「邪魔でないのでしたら、ぜひ。」
 彼女の勇者だった頃は、そうやってからかい半分に投げかけることが楽しかった。素直で人を疑うよりも先に信じる純真無垢な少女は、シーヴァスの言葉を当たり前に素直に受け取ってばかりだった。しかし人間と触れ合うことによって彼女は人間独特の対話、掛け合いを覚え、けれどやはり人間を信じることから始めることだけはやめなかった。
彼女と他愛ない掛け合いを交わしながら、シーヴァスは彼女がさびしがっているのでは、と思いながら、実は自分がさびしかったのだと気づかされた。思えば彼女と言う存在は、そうやって人が包み隠した自身の本音を裸にして、それを細い腕でそっと抱きしめる。
早くに母を亡くし薄れ行く記憶に怯えていたシーヴァスにとって、伸ばされたその腕はどうしようもなく心地良かった。
「…シルマリル」
「はい?」
「さびしくはないか?」
 己の内に明らかにある感情をすりかえながら、彼女も同じ思いでいてくれることを願いながらシーヴァスが問いかけ、白い手袋で包んでいない、素の手のひらでシルマリルの頬にそっと触れる。
月の明かりが日差し色の髪のふたりの髪を細く頼りなく光らせ浮かび上がらせるんだけど、シルマリルは彼の静かな問いかけににっこりと、はっきりと笑って…首を横に振った。
「ベテル宮にいた時は望んでも出来ませんでしたけど、今は逢いたいと望めばあなたのそばへといつでも行くことが出来ます。
 確かにあなたは忙しいけれど、あなたさえ迷惑でなければ、私はいつでも逢いに行きます。
 だから――――シーヴァス?」
 「さびしくない」。彼女は確かにそう言った。
しかし問いかけたシーヴァスはどうしようもなくさびしい。素肌で触れてしまいあふれてしまった感情をどうすればいいのだろう? 目の前にいる彼女なのに、まだ遠い。近づきたい。
「あ、あのっ」
「目を閉じて。」
「でもっ」
「いいから…」
 近づきたい?いいや、触れていたい。ずっと触れられなかった存在にそっと触れたかった。
シーヴァスは片手で包んでいたシルマリルの頬を両手で包み、視線を伏せながらゆっくりと彼女を見つめた。両の手のひらに感じるぬくもりは不確かなものじゃなくなった。くるんと愛しい男性を見上げていたあどけない瞳だったけど、シルマリルは…彼の言葉に従い、そっとまぶたを閉じた。
それは天使の仕草じゃない、美しすぎる少女の仕草。そしてシーヴァスは凛々しい青年。
不実な夜に昼にあれだけ繰り返した駆け引きを、彼女に落すだけでこんなに緊張してどうしようもないんだけど――――たったひとりにこういう気持ちを抱けるなんて思ってもみなかったシーヴァスだけど、葛藤を抱きながらそっと唇を重ねた。
あの夜以来目に見える形で止まっていた時間が、目に見える形で動き出した。